ほどけた糸と、重なる指
資料が床に落ちる音は、どうしてあんなにフロア中へ響くのだろう。
少なくとも、その瞬間、企画部と営業企画部にいた全員のキーボードが止まったように私には聞こえた。
「……すみません」
羽田くんがしゃがみ込み、散らばった紙を慌てて集める。相沢さんも机の向こうから回り込み、一枚拾った。
「急に聞いてしまって、すみません」
「いえ。土曜日ですよね」
「はい」
「空いてます」
返事が早い。
さっきまで資料を落とすほど固まっていた人とは思えない速度だった。相沢さんも一瞬だけ目を丸くしたけれど、すぐにいつもの落ち着いた顔へ戻る。
「じゃあ、十時に駅の改札で。参考にしたい店舗が三つあるので、順番はあとで送ります」
「わかりました」
「ありがとうございます」
相沢さんはそれだけ言うと、自分の席へ戻った。
羽田くんも紙を抱えて立ち上がる。耳が赤い。昨日より赤い。たぶん私の耳も、他人から見るとあれくらいわかりやすいのだろう。
怖い。耳という器官、秘密を守る気がなさすぎる。
私は画面へ顔を戻した。
見ていません。何も聞いていません。土曜日に二人で店舗を見に行く約束が成立したことなんて、まったく知りません。
そう念じながら、同じ文章を三回読み直した。四回目に入ったところで、文章の意味どころか助詞の形まで怪しく見えてきた。
「結城さん」
「はいっ」
呼ばれて、声が裏返った。
羽田くんが私の机の横に立っている。
「この資料、確認をお願いできますか」
「あ、うん。置いておいて」
「お願いします」
仕事の顔だ。けれど資料を置く向きが上下逆だった。
指摘するべきか迷っているうちに、羽田くんは足早に去っていった。
私は上下逆の表紙をそっと回す。視界の端では、相沢さんが何事もなかったようにキーボードを打っていた。その横顔がほんの少しだけ柔らかく見えたのは、きっと気のせいではない。
よかった、と思う。
何がよかったのかは、まだわからない。
相沢さんが自分で確かめることを選んだことか。羽田くんがすぐに返事をしたことか。それとも、私がもう二人の間に立たなくていいことか。
胸の中に、少し寂しいような、でもそれ以上に軽い風が吹いた。
誰かの気持ちから手を離すことは、見捨てることではないのかもしれない。
*
午後五時前、複合機の前で出力を待っていると、隣に羽田くんが来た。
機械の熱と、印刷されたばかりの紙の匂い。仕事の終わりが近いフロアには、昼間より少し緩んだ空気が漂っている。
「結城さん」
「今度は上下、合ってる?」
「……見ました?」
「見ないほうが難しいよ」
羽田くんは額を押さえた。
「忘れてください」
「資料を落としたことも?」
「できればそこから全部」
「土曜日、空いてます、まで?」
「結城さん」
「ごめん」
つい笑ってしまった。以前なら、彼の気持ちを知っている負い目が先に立って、こんなふうには話せなかったと思う。
複合機が低い音を立て、一枚目を吐き出す。
「相沢さんから、何か聞きましたか」
羽田くんの問いに、私は出てきた紙へ視線を落とした。紙はまだ温かい。その温度に指先を預けながら、言葉を選ぶ。
「話せない」
「そうですよね」
「でも、私の答えを聞かないの?」
昨日の自分なら、相沢さんの気持ちを教えない代わりに、遠回しなヒントくらい渡そうとしていた。
けれど羽田くんは首を横に振った。
「聞きません」
迷いのない声だった。
「相沢さんが何を考えてるかは、相沢さんから聞きたいです。俺がどうしたいかも、俺が決めます」
「そっか」
その言葉は、私にも向けられている気がした。
誰かのためを思うことと、その人の答えまで代わりに決めることは違う。羽田くんはもう、私が心配して庇うだけの後輩ではなかった。
「ただ」
「ただ?」
「土曜日って、仕事ですよね」
「私に確認するの?」
「だって二人で店舗を見るって、普通に仕事じゃないですか」
真剣な顔に、笑いをこらえる。
わかる。すごくわかる。
好きな人と二人きりになれる予定ができたとき、人はまず安全な名前をつけたくなるのだ。視察。打ち合わせ。仕事の延長。そうしておけば、期待した自分が恥ずかしくない。
私だって湊さんと初めて二人で出かけた頃は、何度も仕事という言葉の後ろに隠れた。気づけば、その逃げ道ごと見つけられていたけれど。
「仕事かどうかは、私が決めることじゃないよ」
「まあ、そうですけど」
「でも、羽田くんは楽しみなんでしょう?」
彼は答えなかった。
代わりに複合機から出てきた紙を取り上げ、端をきっちりそろえる。その頬が、また少し赤くなった。
「……楽しみです」
小さくても、はっきりした声だった。
その返事を聞いた瞬間、胸に残っていた細い糸がほどけた。
彼の気持ちに応えられなかったことを、私はどこかでずっと申し訳なく思っていた。
好きだと言われた側が、その後の幸せまで引き受けなければいけないような気がしていた。
けれど、それはたぶん違う。
私が背中を押さなくても、羽田くんは自分で次の約束をつくった。誰かにもらった答えではなく、自分の楽しみを、自分の言葉で認めた。
「よかったね」
今度は、からかう気持ちを入れずに言った。
「まだ何も始まってませんよ」
「うん」
「店舗を見るだけです」
「うん」
「あと、その顔やめてもらえます?」
「どの顔?」
「親戚のお姉さんみたいな顔です」
「二歳しか違わないんだけど!」
思わず声が大きくなり、近くの席から視線が飛んできた。
二人で同時に口を閉じる。
羽田くんは一拍置いて、吹き出した。
「結城さん」
「何」
「俺、結城さんを好きになったこと、後悔してません」
突然まっすぐ言われて、息が止まる。
けれど、以前のような痛みを含んだ告白ではなかった。
声には静かな区切りがあって、それでも過去を否定しない温かさがあった。胸の奥が少しだけ痛んで、同時に、救われる。
「だから、申し訳なさそうにしなくていいです」
「……してた?」
「ずっと」
気づかれていたらしい。
「生意気」
「後輩なんで」
「そこは免罪符にならないからね」
「じゃあ先輩、土曜日の結果は何も聞かずに待っててください」
「努力します」
「絶対聞く人の返事だ」
羽田くんは笑いながら資料を抱え、先に戻っていった。
私はその背中を見送った。
振られた人と、振った人。
そんな名前だけでは残れない場所に、私たちはもう立っている。
同じ企画を考えて、ときどき余計なことを言い合う同僚。
それでいい。
それがいいのだと思えた。
*
金曜日の夜、帰宅してから湊さんに電話をかけた。
『明日、九時半でいいか』
「はい。待ち合わせの十五分前に来ても、私は九時半まで隠れてますからね」
『なぜ隠れる』
「湊さんが毎回早いからです。私まで早く行ったら、どんどん待ち合わせ時刻が前倒しになります」
『君は遅刻しなければいい』
「そういう余裕のある言い方、ずるいです」
ベッドの端に腰掛け、スマートフォンを耳へ押し当てる。低い声が近くで響くだけで、金曜日の疲れが薄れていく。これもずるい。本人に言えば、たぶん無言になるから言わないけれど。
明日は、私から誘った水族館デートだ。
会社では見られない湊さんを、また一つ見つけたい。魚を見ても仕事のように黙って観察するのか、意外と大きな水槽にはしゃぐのか。後者だったら、たぶん私は一生忘れない。
『楽しみにしている』
電話越しの低い声に、頬が緩んだ。
「私もです」
短い返事のあとに落ちた沈黙まで、くすぐったい。会話が途切れても切りたくないと思う相手がいるなんて、少し前の私なら想像もしなかった。
羽田くんも、今頃同じように明日のことを考えているのだろうか。
でも、それはもう私が心配することではない。
明日は明日で、それぞれが自分の隣にいてほしい人と向き合えばいい。
*
土曜日の朝。
私は宣言どおり九時半ちょうどに、水族館の最寄り駅へ着いた。
改札を抜ける人の波、構内放送、どこかの店から流れてくる焼きたてのパンの匂い。休日らしい浮き立つ空気の中で、私は無意識にジャケットの裾を整えた。
改札の向こうには、やはり湊さんがいる。薄いグレーのシャツに紺のジャケット。会社より柔らかい服装なのに、立っているだけで妙に目立つ。
腕時計へ視線を落とす横顔まで隙がない。いったい何分前からいたのか問い詰めたい。でも私を待っていてくれた時間だと思うと、口元が勝手に緩みそうになる。
私を見つけると、人の流れを避けて一歩こちらへ近づいた。
「おはよう、ひなた」
社外で呼ばれる名前に、胸が跳ねる。
「おはようございます、湊さん」
差し出された手に、私も手を伸ばした。
人目のある駅で手をつなぐことに、まだ少しだけ勇気がいる。それでも迷いより先に、触れたいと思った。
指が触れ、体温が重なった、そのとき。
「――結城さん?」
聞き慣れた声が背後から飛んできた。
まさか、と思う間さえなかった。背筋が固まり、心臓が一度、大きく跳ねる。
振り返るより先に、湊さんの手が私の指をしっかり握った。
(第70話へ続く)




