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答えを借りない人

 翌日の昼休み、私はコンビニのおにぎりを持ったまま屋上へ向かった。


 昼食を持参したのは、長期戦への備えではない。たぶん。


 ただ、空腹の状態で恋愛相談なんて受けたら、冷静な判断力より先に胃が鳴る。そんな先輩にはなりたくなかっただけだ。


 重い扉を開けると、八月の熱気が正面からぶつかってきた。


「暑っ」


 思わず声が出る。


 日陰になっている壁際に、相沢さんは立っていた。低い位置で結んだ髪が、風に揺れている。手には小さな紙パックのお茶。私を見ると、きちんと頭を下げた。


「すみません、お昼休みに」


「ううん。でも、ここで合ってる?」


「人に聞かれたくなかったので」


 その一言で、おにぎりを開ける気が少し失せた。


 社内で人に聞かれたくない話をする場所として、屋上はあまりにも正解すぎる。七年前の告白から現在の秘密の交際まで、私の人生は雨と屋上に頼りすぎではないだろうか。


 相沢さんは紙パックの角を指で押しながら、なかなか話し始めなかった。


「羽田くんのことだよね」


「はい」


「昨日の改善案なら、私より本人に聞いたほうが詳しいと思うけど」


「仕事のことではありません」


 やっぱり。


 覚悟はしていたのに、胸の奥が落ち着かない。


 羽田くんから好きな人ができたかもしれないと聞いた。その相手が、おそらく相沢さんだということも。


 けれど、それは本人が私に預けた話だ。私が勝手に開けて、別の誰かに渡していいものではない。


 相沢さんはまっすぐ私を見た。


「羽田さんは、結城さんのことが好きだったんですか」


 風の音が急に大きく聞こえた。


 質問が直球すぎる。


 いっそ屋上の扉に『本日は遠回しな表現を禁止します』とでも貼ってあったのかもしれない。


「どうして、そう思ったの?」


「前から、羽田さんは結城さんをよく見ていたので」


 気づいていたのか。


「昨日も会議室で、私の隣に座ったあと、ずっと結城さんの側を気にしていました」


「あれは……」


「でも、結城さんは羽田さんを追いかけなかった」


 否定しようとして、やめた。


 相沢さんは責めているわけではない。ただ、見たことを一つずつ並べている。その並べ方が、会議で数字を説明するときと同じだった。


「私、昨日の話し合いは楽しかったんです」


 紙パックの角が、また小さくへこむ。


「羽田さんは、私が細かいところにこだわっても、面倒そうな顔をしませんでした。結果が出てるからいいだろ、で終わらせないで、理由を一緒に考えてくれて」


 そこで初めて、相沢さんの声が少し揺れた。


「また話したいと思いました。でも、もし結城さんを好きだった直後なら、私が変に期待するのも違う気がして」


 ああ、と胸の中で息が漏れる。


 知りたいのは過去そのものではない。


 自分に向けられたものが、本当に自分へのものなのか。誰かを忘れるための代わりではないのか。それを確かめたくて、ここへ来たのだ。


 七年前の私なら、きっと先回りしていた。


 迷惑かもしれない。重いと思われるかもしれない。傷つくくらいなら、最初からなかったことにしよう。


 相沢さんは私より一歳下だ。それでも、ちゃんと知ろうとしている。期待してしまう自分まで、なかったことにせずに。


「ごめんね」


「……はい」


「私からは答えられない」


 相沢さんの表情が固くなった。


 私は慌てて続ける。


「冷たくしたいわけじゃないの。羽田くんが誰を好きだったかも、今誰を気にしてるかも、本人の気持ちだから。私が代わりに話すことじゃないと思う」


「そう、ですよね」


「でも、一つだけ言える」


 相沢さんが顔を上げる。


「昨日、羽田くんは自分であなたの隣に座ったよ」


 私のほうは見ずに。


 まっすぐ歩いて、空けてもらった椅子に座った。


「あの人、頼まれた仕事だからって、誰にでも耳を赤くするほど素直じゃないから」


「耳?」


「あ」


 しまった。


 秘密は守ったのに、観察結果を漏らした。恋愛相談員として百点満点中、六十二点くらいだろうか。


 相沢さんは目を瞬かせ、それから自分の耳を押さえた。


「私も、赤かったですか」


「それは本人に聞いて」


「聞けません」


「じゃあ、お互い様だね」


 ほんの少しだけ、彼女が笑った。


 張りつめていた空気が緩み、私はようやくおにぎりの包装を開けた。海苔の音が屋上にやけに大きく響く。


「結城さんは、怖くないんですか」


「何が?」


「人を好きになるの」


 危うく一口目を落としそうになった。


「どうして私に聞くの」


「羽田さんを断った人に見えたからです」


「相沢さん、観察力が鋭すぎない?」


「仕事なので」


「今は仕事じゃないよね」


 そう言いながら、私は空を見上げた。


 雲は多いけれど、雨の気配はない。


「怖いよ。今も」


 会社では隠さなければならない。十二歳の年の差も、上司と部下という立場も、消えたわけではない。


 好きだと伝えたから、怖くなくなったわけではなかった。


「でも、怖いからって相手の答えまで自分で決めると、だいたい間違えるみたい」


 それは、あかねに何度も言われて、湊さんとも約束したことだ。


 遠慮して、勝手に答えを決めない。


「だから、相沢さんも、私から羽田くんの答えを借りないほうがいいと思う」


「本人に聞けってことですか」


「いきなり『私のこと好きですか』は、さすがに会議の進め方として急すぎるけど」


「会議じゃありません」


「たとえば、もう一度話したいなら、そう言えばいいんじゃないかな」


 恋に名前をつけるより先に、同じ時間を増やしてみる。


 羽田くんがそうしているように。


 相沢さんはしばらく黙っていたが、やがて紙パックのストローから口を離した。


「わかりました。過去のことは、もう聞きません」


「うん」


「その代わり、今のことは自分で確かめます」


 数字に納得するまで調べる人らしい結論だった。


     *


 屋上から戻ると、机の端に甘さ控えめの缶コーヒーが置かれていた。


 まだ温かい。


 周囲を見回すと、湊さんは部長席で資料を読んでいる。こちらを見もしない。


 私は社内チャットを開いた。


『これは差し入れですか』


 少しして返信が来る。


『昼休みが終わる。食事を先に』


 屋上へ向かう私が、おにぎりを持っていたのを見ていたらしい。


『相談の内容は聞かないんですか』


『君が話すべきことなら聞く』


 短い返事に、胸が温かくなる。


 答えを急がない。相手が話すべきことを、相手の口から聞く。


 その距離を信じてもらえることが、私はうれしかった。


『話せないことです。でも、ちゃんと終わりました』


『そうか』


 それだけで会話は終わった。


 私は缶コーヒーを両手で包む。屋上の風で冷えた指に、じんわり熱が戻ってきた。


 午後三時を過ぎた頃、羽田くんが資料を持って営業企画部の島へ向かった。


「相沢さん、昨日の続きなんですけど」


 呼ばれた相沢さんが立ち上がる。


 私は見ないふりをして、画面に視線を固定した。


 今度こそ何もしない。聞き耳も立てない。先輩らしく、自分の仕事に集中する。


「羽田さん」


 けれど、相沢さんの声は思ったよりよく通った。


「土曜日、時間ありますか」


 キーボードの上で、私の指が止まる。


「改善案の参考にしたい店舗があるんです。よかったら、二人で見に行きませんか」


 数秒の沈黙のあと、羽田くんの持っていた資料が床に落ちた。


(第69話へ続く)

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