五分の先を、まだ知らない
合同会議が終わったのは、予定を十二分過ぎた頃だった。
プロジェクターの光が消え、白く浮かんでいたスクリーンがただの布へ戻る。張りつめていた空気も一気にほどけ、椅子を引く音と安堵まじりの話し声が重なった。
私は資料をまとめながら、斜め前をそっと見る。
羽田くんの隣に、相沢さんはまだ座っている。
ほかの社員が立ち上がる中、二人だけが何かを待つように資料へ目を落としていた。
「結城」
「はいっ」
低い声に呼ばれ、反射で背筋が伸びた。
振り向けば、湊さんが会議資料を差し出している。眉間に薄くしわを寄せた、完全に仕事の顔だ。私も慌てて仕事の顔を装う。
「議事録、明日の午前中でいい」
「今日中に出せます」
「急がなくていい。誤字が三つに増える」
「前回は二つでした」
「増やす前提で話すな」
周囲にも聞こえる、ごく普通の上司と部下の会話。
なのに、資料を受け取るとき、紙の陰で指先が一瞬だけ触れた。
乾いた紙よりずっと温かい体温が、ほんの一秒にも満たない時間で指から腕へ駆け上がる。
事故だ。たぶん事故。湊さんは会議室で恋人らしいことなどする人ではない。むしろ恋人になってからのほうが、会社では距離の取り方が厳密になったくらいだ。
けれど湊さんは、私の耳が赤くなったことには気づいたはずなのに、何も言わず先に会議室を出ていった。
あの人はずるい。自分だけ何事もなかった顔が上手すぎる。
鬼上司の無自覚な指先は、議事録の誤字よりたちが悪い。
「結城さん」
今度は後ろから呼ばれた。
振り返ると、羽田くんが相沢さんの資料までまとめて持っていた。
「俺、少し残ります」
「うん。五分だけ話すんだよね」
「……聞いてたんですか」
「同じ会議室にいたからね」
声を落としたつもりでも、私の顔には応援の二文字が大きく書いてあったらしい。
羽田くんは露骨に眉を寄せた。
「何もしないでくださいね」
「何もって?」
「廊下を無意味に往復するとか、給湯室から覗くとか」
「しないよ」
「説得力がない」
失礼な。
私は親友の夫婦関係を見守り、恋人との年の差問題も話し合いで乗り越えた二十六歳の社会人である。後輩の恋を廊下から覗くような子どもではない。
――たぶん。
「結城さん、戻りますよ」
あかねに腕を取られた。
「まだ資料が」
「それ、全部持ってる」
見ると、本当に全部抱えていた。
「でも、忘れ物があるかも」
「さっき羽田くんに何もしないって言ったよね?」
親友は私を会議室の外へ引っぱりながら、容赦なく言った。
「人の恋に首を突っ込む前に、自分の恋人と普通に目を合わせられるようになりなさい」
「普通に見てるよ」
「指が触れただけで資料を逆さまに持つ人が?」
私は抱えていた資料を確認した。
逆さまだった。
*
自席に戻って十五分。
議事録の見出しを入力しては、会議室の時計を思い出す。
五分だけと言っていた。
もう、とっくに過ぎている。
キーボードに置いた指は動かず、空調の音ばかりが妙に耳についた。視界の端では、閉じた会議室の扉が無言で存在感を主張している。
何を話しているんだろう。
先月の企画の結果。仕事の反省。次の施策。
それだけかもしれない。むしろ、それだけの可能性が高い。
羽田くんは好きな人ができた「かもしれない」と言っただけで、何かを伝えると決めたわけではない。相沢さんだって、彼を仕事のできる同僚として呼び止めただけだろう。
それでも気になる。
これは野次馬ではなく、元当事者としての責任感だ。そういうことにしておきたい。
「結城」
「はいっ」
本日二度目の不意打ちだった。
湊さんが私の机の横に立っている。近づいた気配にすら気づかなかった自分が、少し怖い。
「進捗は」
「議事録の見出しまでです」
「十五分かけて?」
「見出しは大事なので」
「会議室のほうを六回見たことと関係があるのか」
数えていた。
「部長、部下の監視はよくないと思います」
「正面に座っていれば見える」
そうだった。湊さんの席から、私は斜めの位置にいる。
恋人になってから、この机の配置はときどき心臓に悪い。見守られている安心と、全部見抜かれそうな落ち着かなさが、いつも同じ場所にある。
「気になるのか」
周囲に聞こえない声で問われる。ほかの人には届かない距離で低くなる声に、また心臓が余計な反応をした。
「少しだけ」
「放っておけ」
「冷たい」
「羽田が自分で話すと決めたなら、自分で終わらせるべきだ」
「終わらせるって、まだ始まってもいません」
「だからだ」
湊さんは私のパソコン画面へ視線を落とした。
「誰かに押されて始めたことは、うまくいかなかったとき、その誰かのせいにできる」
淡々とした言い方なのに、胸の奥に残った。
私は羽田くんに、前へ進んでほしい。
私への気持ちをきれいに片づけ、新しい人を好きになって、できればその恋が叶ってほしい。
でもそれは、私が安心するための願いでもある。
応えられなかった罪悪感を、彼の新しい恋で軽くしようとしていないだろうか。彼が笑えば、私はもう気に病まなくていいと、自分に許可を出したいだけではないだろうか。
「私、勝手ですね」
「知っている」
「そこは否定してください」
「勝手でも、心配することまでやめる必要はない」
湊さんは一拍置いた。
「手を出さなければいい」
「難しいです」
「俺も七年かかった」
思わず顔を上げる。
黒い瞳が、まっすぐ私を見ていた。
それは上司としての助言ではなく、たぶん、私を遠くから見ていた人の言葉だった。
手を出さずに見守ることと、逃げることは違う。
その違いを、湊さんも今になって覚えようとしている。そして私も、この人の隣で覚えていくのだろう。
「じゃあ、今日は見守ります」
「会議室を見ずに?」
「努力します」
「議事録の誤字は?」
「二つ以内にします」
「ゼロを目指せ」
そこは相変わらず厳しい。
*
羽田くんが戻ってきたのは、それから二十分後だった。
相沢さんは一緒ではない。
私は画面から目を上げないようにした。見守ると決めたのだ。見ないことと見守ることの違いは、いまだによくわからないけれど。
足音が近づき、私の机の前で止まる。
「結城さん」
「おかえり」
できるだけ普通に返した。画面の同じ一文を三回読んでいたことは秘密だ。
「何も聞かないんですか」
「聞いてほしいの?」
「いえ」
「じゃあ聞かない」
羽田くんは拍子抜けしたような顔をしたあと、小さく笑った。
「本当に何もしなかったんですね」
「信用なさすぎない?」
「来栖さんに連行されてましたから」
見られていたらしい。
「五分、長かったね」
結局、それだけは聞いてしまった。
「企画の話です。結果はよかったけど、相沢さんは数字の伸び方に納得してなくて」
羽田くんは自分の席へ戻りかけ、ふと足を止めた。
「次の改善案、一緒に考えてほしいって言われました」
声は平静だった。
でも、耳が少し赤い。
ああ。人の耳が赤くなるのを見るのは、こんなにわかりやすいのか。さっきの自分を思い出し、急にいたたまれなくなる。
「それは、よかったね」
「仕事ですよ」
「うん」
「本当に、仕事ですから」
「二回言うんだ」
「結城さんが変な顔するからです」
羽田くんは逃げるように自席へ戻った。
私は笑いそうになる口元を押さえ、パソコンへ向き直る。
新しい恋が始まったわけではない。
五分の約束が、次の仕事につながっただけ。
それでいいのだと思う。
同じものを見たいと言っていた人と、同じ数字を見て、同じ答えを探す時間ができた。
先回りして名前をつけなくても、羽田くんは自分で歩いている。
私が背中を押さなくても。
胸の奥で、張っていた糸が少しだけ緩んだ。
*
定時を過ぎ、フロアの人がまばらになった頃だった。
窓の外はすっかり暮れ、ガラスには照明に照らされた机が薄く映っている。議事録を送信し、肩を回した私の画面右下に、社内チャットの通知が出た。
送信者は相沢さん。
今日の会議資料に修正でもあっただろうか。
私は姿勢を戻して、メッセージを開く。
『結城さん、明日の昼休み、屋上に来てもらえませんか』
さっき緩んだはずの胸の糸が、ぴんと張り直される。
続けて、もう一行が届いた。
『羽田さんのことで、相談があります』
(第68話へ続く)




