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好きの向きが変わるとき

「好きな人?」


 聞き返した声が、思ったより大きく給湯室に響いた。


「結城さん、声」


「ご、ごめん」


 慌てて周囲を見回す。幸い、昼休みの給湯室には私たちしかいない。


 つい数か月前まで、羽田くんの「好きな人」は私だった。


 正確には、そう言ってくれた。まっすぐで、逃げ道を用意しない告白だった。私はその気持ちに応えられなくて、それでも彼は仕事では何も変えずにいてくれた。


 だから今、胸に浮かんだものが何なのか、すぐには名前をつけられなかった。


 驚き。安堵。ほんの少しの寂しさ。


 いや、最後のは何様だ、私。


 自分は湊さんと付き合っているくせに、向けられなくなった好意を惜しむなんて、都合がよすぎる。


「それで、どうして私に相談を?」


「結城さんなら、変に期待させたり、面白がったりしないと思って」


「信頼が重い」


「あと、俺が前に結城さんを好きだったことも知ってるから」


 さらりと言われ、私は瞬きをした。


 前に。


 その二文字は、少しだけ胸に引っかかって、それから静かにほどけた。


「相手は、どんな人?」


「営業企画の相沢さんです」


「ああ、相沢真帆さん?」


 何度か合同会議で顔を合わせたことがある。私より一つ下で、肩までの髪をいつも低い位置で結んでいる人だ。声は穏やかだけれど、企画の甘いところを見つけるのが早い。


 先月の販促キャンペーンでも、羽田くんの試算に真っ先に質問を投げていた。


「もしかして、あの会議で厳しく突っ込まれて恋に落ちたの?」


「俺、そんな特殊な趣味に見えます?」


「企画部にいると、的確な指摘がだんだん愛情に見えることはある」


「結城さん、霧島部長に鍛えられすぎです」


 反論できない。


 羽田くんは紙コップの縁を指でつぶしながら、少し考えた。


「最初は、苦手だったんです。何言っても冷静に返されるし、愛想笑いもしないし」


 それはどこかで聞いたような人物評だった。


「でも、俺が指摘されたところを直して再提出したら、相沢さん、わざわざ企画部まで来てくれて。前より伝わりますって言ってくれたんです」


「それで?」


「それだけです」


「それだけで好きになったの?」


「だから、まだ『かもしれない』なんですよ」


 羽田くんが困ったように眉を下げる。


「最近、会議があると探すんです。相沢さんがどこに座ってるか。資料を渡すとき、反応が気になるし。コンビニで相沢さんが飲んでた紅茶を見つけて、買いそうになったり」


「買わなかったの?」


「好みまで同じになったみたいで、気持ち悪いかなと思って」


「誰も見てないところで紅茶を買うくらい、自由でしょ」


「そうなんですけど」


 その横顔を見て、私はようやく実感した。


 羽田くんは今、私ではない人の反応を気にしている。


 私に向けられていたまっすぐな目が、別の誰かを探し始めている。


 それは寂しいことではない。


 きっと、喜んでいいことだ。


「それ、好きなんじゃない?」


 私が言うと、羽田くんはしばらく黙った。


「やっぱり、そう見えます?」


「少なくとも、仕事相手として気になるだけなら、飲んでる紅茶まで覚えないと思う」


「……説得力ありますね」


「どういう意味?」


「甘さ控えめの缶コーヒーとか」


「なぜそれを」


「企画部では割と有名です。霧島部長が結城さんに渡すやつ」


 危うく持っていたマグカップを落としかけた。


「有名って、どの範囲で?」


「俺の中で、です」


「紛らわしい言い方しないで!」


 心臓に悪い。来月の健康診断で不整脈が見つかったら、半分は羽田くんの責任だ。


 彼は声を立てずに笑ったあと、ふっと表情をやわらげた。


「結城さんを好きだったときとは、少し違うんです」


 私は黙って続きを待った。


「あのときは、助けてもらうたびにうれしくて、追いつきたいと思ってました。結城さんが笑ってくれたら、それだけで自分まで認めてもらえた気がして」


「うん」


「でも相沢さんには、認めてほしいというより、同じものを見てほしいっていうか。俺がどう見えるかより、あの人が何を見てるのか知りたい」


 それはたぶん、どちらが本物で、どちらが偽物という話ではない。


 人を好きになる形が、同じ人の中でも変わることがあるだけだ。


 私だって七年前は、湊さんに追いつきたかった。大人で、遠くて、何でもできる人だと思っていた。


 今は、彼の弱さも不器用さも知っている。


 そのうえで、同じ速さで歩きたいと思う。


「羽田くん」


「はい」


「ちゃんと次の人を好きになろうとしてくれて、ありがとう」


 口にした途端、羽田くんが目を丸くした。


 私も遅れて気づく。


「あ、ごめん。今の、すごく上からだった」


「はい。だいぶ」


「忘れて」


「でも、結城さんらしいです」


 彼はつぶれた紙コップを元に戻そうと指で広げた。もちろん、一度ついた折り目は消えない。それでも形は、ちゃんと立つところまで戻る。


「俺も、安心してるんです」


「安心?」


「結城さんと普通に話せる自分に」


 胸の奥が、きゅっとした。


 応えられなかった気持ちは、なかったことにはできない。たぶん、する必要もない。


 傷ついたことも、好きだったことも残したまま、人は次を向ける。


「応援してもいい?」


「まだ何も始まってませんよ」


「だからこそ」


「結城さん、恋愛の相談に乗れるんですか?」


「失礼な。私には、結婚生活を立て直した親友がいるんだから」


「本人の実績じゃないですよね」


 まったく信用されていない。


 そこへ廊下から足音が近づき、私たちは同時に仕事の顔へ戻った。


 入ってきたのは湊さんだった。


 私と羽田くんを見て、一瞬だけ間が空く。


「昼休みは終わっている」


 壁の時計を見る。十二時五十九分。


「まだ一分あります」


 羽田くんが言うと、湊さんは腕時計に目を落とした。


「五十秒だ」


「細かい」


「羽田」


「戻ります」


 羽田くんは素早く紙コップを捨て、給湯室を出ていった。すれ違いざま、湊さんにきちんと会釈するあたり、こういうところは抜け目がない。


 残された私は、湊さんのコーヒーを淹れる手元をそっと見る。


「何の話をしていた」


 低い声に、心臓が跳ねた。


 これは上司としての確認だろうか。それとも、少しだけ恋人として気になっているのだろうか。


「秘密です」


「そうか」


 追及しない。


 けれど、いつもは一杯分しか用意しないはずのドリッパーに、今日は二杯分の粉が入っている。


「私の分も?」


「昼休みが終わる」


「あと何秒ですか」


「二十秒」


「じゃあ、その間だけ」


 私は声を落とした。


「羽田くんの好きな人、私じゃなくなったみたいです」


 湊さんの手が止まる。


 ほんの一拍のあと、細くお湯を注ぐ動きが再開した。


「そうか」


 同じ言葉なのに、さっきよりわずかに温かい。


「安心しました?」


「本人が前へ進めるなら、いいことだ」


「模範解答」


「それ以外を期待しているのか」


 目が合って、私は先にそらした。


「少しくらい、安心してくれてもいいのに」


 湊さんは答えず、できあがったコーヒーを私の前に置いた。カップを受け取ろうとした指に、彼の指先が触れる。


「とっくに安心している」


「え?」


「君が選んだのは、俺だ」


 それだけ言って、湊さんは自分のカップを持ち、先に給湯室を出ていった。


 耳が熱い。


 五十秒で後輩の恋愛相談より大きな動揺を残していくなんて、上司権限の使い方が間違っている。


     *


 その日の夕方、企画部と営業企画部の合同会議が開かれた。


 資料を配り終えた羽田くんが、会議室の入口で一度立ち止まる。


 その視線の先には、低い位置で髪を結んだ相沢さんがいた。


「羽田さん」


 彼女は空いている隣の椅子を引いた。


「先月の企画、結果が出ました。終わったら五分だけ、話せますか」


 羽田くんは私を振り返らなかった。


 まっすぐ彼女の隣へ歩いていき、その椅子に座った。


(第67話へ続く)

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