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恋人として座る席

「話したの!?」


『声が大きい』


「誰のせいだと思ってるの」


 ベッドから立ち上がった私には、行くあてもない。狭い部屋を二歩進み、壁にぶつかる前に引き返す。


『ごめん。最初から全部話したわけじゃないの。でも家出した日に、どうしてひなたがあそこまで親身になってくれたのか聞かれて』


「それで、上司と秘密で付き合っているからです、と?」


『まさか。そこまで業務報告みたいには言ってない』


「内容は同じ!」


 あかねの夫は別の会社に勤めている。社内で言いふらされる心配はないし、あかねが信用している人なら、私だって疑いたくはない。


 それでも、自分の知らないところで秘密がひとつ外へ転がったと思うと、落ち着かなかった。


『本当にごめん。四人で会うのが嫌なら断って。そこは無理強いしない』


 さっきまでの明るい声が、少しだけ低くなる。


 私は文句をもう三つほど並べかけて、飲み込んだ。


「……湊さんに相談する」


『うん』


「私だけでは決められないから」


『うん。その答え、前よりいいね』


 反省中のくせに、あかねはちょっと嬉しそうだった。


 電話を切ったあと、私はすぐに湊さんへ連絡した。文章ではうまく説明できる気がしなくて、通話ボタンを押す。


『どうした』


 低い声が耳元に届いただけで、さっきまでの焦りが少し薄くなる。我ながら単純だ。


「あかねが、旦那さんに私たちのことを話したみたいで」


 短い沈黙があった。


『どこまで』


「交際相手が霧島部長だというところまでです」


『そうか』


「怒ってますか」


『結城に?』


「いえ、あかねに」


『怒るより先に、今後広がらないよう確認したい』


 仕事のときと同じ、冷静な答えだった。だから私も、言い訳を挟まずに続ける。


「旦那さんは社外の人です。あかねは信用できると言っています。それで、その……四人で食事をしたいそうです」


『結城は行きたいのか』


 私の気持ちを先に聞いてくれる。


 昨日までなら、湊さんが嫌でなければ、と答えていたかもしれない。でも、それでは遠慮しない約束をした意味がない。


「怖いです。でも、少し行ってみたいです」


『なぜ』


「会社の外で、私たちのことを知っている人と会ったことがないから」


 恋人として誰かの前に並ぶ。


 考えただけで胸が落ち着かない。でも同時に、秘密の内側に小さな窓が開くような気もした。


『わかった。会おう』


「いいんですか」


『知られた事実は、会わなくても消えない。それなら相手を知っておいたほうがいい』


「ものすごく部長らしい理由ですね」


『もうひとつある』


「はい」


『結城が行ってみたいと言った』


 たったそれだけで、頬が熱くなる。


 電話でよかった。今の顔を見られたら、しばらく仕事の指示をまともに聞けない。


     *


 四人での食事は、翌週の金曜日になった。


 店は会社から三駅離れた和食屋で、あかねが個室を予約してくれた。用心深いのはありがたいけれど、「密会」という言葉が頭に浮かぶ内装で、余計に緊張する。


 先に着いていた私と湊さんは、四人掛けの席に並んで座った。


 向かい側ではない。


 隣だ。


 会社なら斜め前に見える人が、今日は腕の触れそうな距離にいる。休日のデートとは違う種類の恥ずかしさに、私は意味もなくおしぼりの袋を折った。


「折り紙にするな」


「手持ち無沙汰なんです」


「俺が隣にいると?」


「恋人として紹介される予定なので」


 湊さんは一瞬黙り、私の手から細長くなった袋を取り上げた。


「俺も同じだ」


「緊張してるんですか」


「ああ」


 意外だった。氷の部長にも、こういう席で緊張する機能が搭載されていたらしい。


 それだけで肩の力が抜けたところへ、襖が開いた。


「お待たせ」


 あかねに続いて入ってきた旦那さんは、湊さんを見るなり、きれいに背筋を伸ばした。


「はじめまして。来栖の夫です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 名刺交換が始まりそうな挨拶だった。


「霧島です。こちらこそ」


 湊さんまで仕事の声になっている。


「ちょっと。部長面談じゃないんだから」


 あかねが呆れ、私たちはほぼ同時に息を吐いた。


 乾杯をして料理が運ばれてくると、空気は少しずつやわらいだ。旦那さんは口数の多い人ではなかったけれど、あかねが取り分けた椎茸を黙って食べ、代わりに彼女の好きなだし巻きを皿へ載せた。


 長く一緒にいる人たちの、説明のいらない動き。


 でも二人は、その「説明しなくてもわかる」に頼りすぎて、すれ違ったのだ。


「結城さん」


 食事の半ばで、旦那さんが箸を置いた。


「先日は、あかねを泊めてくださってありがとうございました」


「いえ。私は何も」


「話を聞いてもらえたから、帰ってきてくれました。霧島さんにも、ご迷惑をおかけしたそうで」


「迷惑ではありません」


 湊さんの返事は短い。


 けれど冷たくはなかった。


「俺は、家に帰ればあかねがいることを当たり前だと思っていました。疲れているなら一人にしたほうがいいと、勝手に決めて」


「私は私で、夫婦なんだから気づいてよって思ってた」


 あかねが苦笑する。


「どっちも勝手だったね」


「そうだな」


 旦那さんが素直にうなずいたあと、二人は顔を見合わせた。劇的な仲直りの言葉も、涙もない。ただ、今度は同じところを見ようとしている。


 夫婦って、完成した関係ではないのかもしれない。


 何年一緒にいても、言い直したり、聞き直したりする。そうやって隣の席に座り続けるものなのだろう。


「今は、週に一度、一緒に夕飯を作ることにしたの」


 あかねが言う。


「焦げた生姜焼きから始めて?」


「今週は水っぽい親子丼」


「順調に別方向へ失敗してるね」


「でも、一緒に失敗すると笑えるから」


 あかねはそう言って笑った。


 その笑顔を見た瞬間、この食事に来てよかったと思った。


 私たちが二人を仲直りさせたわけではない。きっかけを渡しただけで、向き合うと決めたのは二人だ。


 そしてたぶん、私も同じだ。


 湊さんに気持ちを伝える勇気は、誰かにもらえても、伝えるのは私自身なのだ。


「お二人は、週末どこかへ?」


 旦那さんに聞かれ、私は反射的に「あ、いえ」と否定しかけた。


 会社で身についた秘密の癖は、思ったより根深い。


 けれど隣から、落ち着いた声がした。


「水族館へ行きます」


 私は湊さんを見る。


「楽しみにしているので」


 先週、土曜に言うと持ち越された答え。


 まさかここで聞かされるとは思わなかった。


「かなり、の先ですか」


「ああ」


 事情を知らない旦那さんが不思議そうにし、知っているあかねはにやにやしている。


 テーブルの下で、私の小指が湊さんの手の甲にそっと触れた。


 人前で手をつなぐ勇気はまだない。けれど、離す理由もなかった。


 彼の手がわずかに動き、小指だけが私の指に重なる。


 ほんの小さな接触なのに、私は今、恋人としてこの席に座っているのだと思えた。


 帰り際、あかねが私の耳元で囁いた。


「ひなた。恋愛の先輩みたいな顔してたけど、私たちも全然だから」


「知ってる。親子丼、水っぽいし」


「そこじゃない。でもね、遠慮して勝手に答えを決めるのだけは禁止」


 その言葉は、今度はまっすぐ受け取れた。


「うん」


 店を出ると、夜風が少し冷たかった。


 人通りの少ない角を曲がってから、湊さんが私の手を取る。さっきは小指だけだった体温が、手のひらいっぱいに広がった。


 夫婦の二人に背中を押されて、私たちはまた少しだけ、同じ速さで歩けた気がした。


     *


 週明けの昼休み。


 給湯室でコーヒーを淹れていると、羽田くんが入口から顔を出した。


「結城さん、少し相談いいですか」


「仕事?」


「いえ。たぶん、恋愛です」


 珍しく歯切れの悪い声でそう言ってから、彼は一度息を吸った。


「俺、好きな人ができたかもしれません」


(第66話へ続く)

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