遠慮しない約束
湊さんの手の中で、スマートフォンが震えた。
画面を見た彼の足が止まる。
そして数メートル先で、私を見つけた。
逃げたい。
いや、どうして送った本人が逃げるの。しかも、ついさっき「遠慮しない」と決めたばかりではなかったか。
頭の中では勇ましい私が演説しているのに、現実の私は改札前の柱と一体化しかけていた。送信を取り消せる時間はもう過ぎた。そもそも取り消したところで、目の前で読まれている。
――今度の土曜日、会いたいです。
たったそれだけのメッセージなのに、企画書を役員会議へ提出したときより緊張していた。
湊さんがこちらへ歩いてくる。
いつもと変わらない足取り。表情も、会社で見る『氷の部長』そのものだ。けれど、その手には私の誘いが表示されたままだ。
「お疲れさまです、部長」
近くを社員らしい人が通ったので、反射的にそう言った。
「ああ。お疲れ」
湊さんも上司の顔で答え、私の横を通り過ぎる。
断られた?
胸がひゅっと縮んだ。やっぱり急だっただろうか。忙しい人なのに、予定も聞かず会いたいなんて――と、悪い癖が一斉に顔を出す。
直後、半歩先から低い声が落ちてきた。
「ここでは返事ができない。駅を出てからでいいか」
「……はい」
たったそれだけで、縮んだ胸が今度は忙しく跳ね始める。我ながら単純すぎる。でも、湊さんの言葉ひとつで浮いたり沈んだりするのは、もう諦めたほうがいいのかもしれない。
私たちは少し間を空けて改札を抜けた。
並ばず、離れすぎず。秘密の恋人になってから覚えた、不自然に見えない距離だ。
駅の外へ出ると、細かな雨が降り始めていた。予報にはなかったはずなのに、街灯の明かりの中を銀色の粒が舞っている。帰宅を急ぐ人たちの靴音が、濡れた歩道にせわしなく響いた。
湊さんは鞄から黒い折り畳み傘を出した。迷いのない手つきで開くと、私の頭上へ差し出す。
「入れ」
「でも、会社の人に見られたら」
「この雨で君だけ濡れて歩くほうが不自然だ」
なるほど。恋人の傘に入るのではなく、上司が部下を雨から守るだけ。便利なのか不便なのか、もうわからない。
傘の下へ入ると、肩が触れそうな距離になった。歩調を合わせるたび、コートの袖がかすかに擦れる。その程度の接触に意識を全部持っていかれる私を、誰かどうにかしてほしい。
濡れたアスファルトの匂い。傘を打つ小さな雨音。右側から伝わる体温。
七年前なら、それだけで一週間は眠れなかったと思う。
今は恋人なのに、やっぱり今夜も眠れそうにない。
「土曜日」
湊さんが前を向いたまま言った。
「はい」
「空いている」
「本当ですか」
「予定を確認せずに言っていると思うか」
「思いませんけど、もう少し喜んでくれても」
言ってから、しまった、と唇を噛んだ。
また、察してほしい私が顔を出した。遠慮しないことと、相手に答えを要求することは違う。せっかく一歩踏み出せたのに、浮かれすぎたかもしれない。
けれど湊さんは立ち止まった。傘も一緒に止まり、外側の雨だけが細い幕になって流れていく。
「嬉しい」
正面から告げられた二文字に、今度は私が黙る番だった。
眼鏡越しの視線が、逃げずに私を見ている。冗談でも、私を安心させるためだけの言葉でもないと、その静かな目が教えてくれた。
「君から誘われるのは、かなり」
「かなり……?」
「その先まで言わせるな」
街灯の下で見る横顔は、いつもより少しだけ硬い。
耳が赤いのは寒さのせいだろうか。そこを追及すれば私も無傷では済まないので、見なかったことにした。代わりに口元が緩むのを止められず、雨で顔が見えにくい夜に感謝する。
「それで、どこへ行く」
「え」
「君のしたいことを聞いている」
また難しい宿題が来た。
デートに誘うことだけで勇気を使い切って、行き先までは考えていなかった。恋愛に計画書が必要なら、私は企画職として大幅な準備不足である。目的、予算、想定所要時間。そこまで頭に浮かべて、違う、これは仕事ではないと打ち消した。
「湊さんは、行きたいところありますか」
「誘ったのは君だ」
「そうですけど」
「俺に合わせなくていい」
短い言葉が、雨音より近くに届いた。
忙しいから。十二歳上だから。落ち着いた人だから。そうやって私が勝手に引いた線を、見抜かれた気がした。
本当は、ひとつだけ浮かんでいた場所がある。言って困らせるくらいなら、無難な食事にしようと思っていただけだ。
「……水族館に行きたいです」
口にすると、思った以上に子どもっぽく聞こえて不安になる。
「水族館」
「嫌なら別のところでも」
「嫌とは言っていない」
「休日で混むと思いますし、湊さん、静かなところのほうが好きそうだから」
「結城」
会社の呼び方なのに、声は部長のものではなかった。
「今、誰の希望を聞いていると思っている」
「私です」
「なら、撤回するな」
傘の柄を持つ彼の指に、少し力が入る。
「水族館に行こう」
胸の奥に、青い明かりがともった気がした。
まだ行ってもいないのに、暗い水槽の前に並ぶ私たちを想像する。会社ではできない距離で、同じ魚を見上げる。人混みの中なら、少しくらい近づいてもいいだろうか。ガラスに映る私たちは、上司と部下ではなく、ちゃんと恋人同士に見えるだろうか。
「楽しみです」
「ああ」
「湊さんもですか」
「さっき答えた」
「『かなり』の先は聞いてません」
彼は数秒黙り、それから傘をわずかに私の側へ傾けた。自分の肩が雨に近づいたことには、気づいていないふりをしている。
「土曜に言う」
ずるい。
でも、土曜日まで楽しみにできる言葉がひとつ増えた。待つ時間まで嬉しくなるなんて、恋愛はどうにも効率が悪くて、悪くない。
駅から分かれる角まで来ると、雨はほとんどやんでいた。傘を叩いていた音が消えると、急に二人の沈黙が近く感じられる。
傘の下から出るのが惜しい。そんなことまで口にするのは、遠慮しないのとは少し違う気がして、私は素直に一歩離れた。途端に夜の空気が肩へ触れ、さっきまでの体温が恋しくなる。
「おやすみなさい」
「ああ。帰ったら連絡しろ」
「はい」
湊さんが傘を閉じる。腕を伸ばせば触れられる距離なのに、外ではそれ以上近づけない。
それでも今夜は寂しくなかった。
会いたいと伝えた。
したいことを伝えた。
そのどちらも、迷惑にはならなかった。むしろ嬉しいと言ってもらえた。その事実を胸の中で何度もなぞりながら、私は家までの道を歩いた。
帰宅してすぐ、あかねに報告すると、文字を打ち終えるより早く電話がかかってきた。
『で、水族館?』
「うん」
『いいじゃん。暗いし、距離近いし』
「感想が俗っぽい」
『恋愛はだいたい俗っぽいの。きれいな言葉だけで生活できたら、夫婦定例会なんていらないんだから』
電話の向こうで、食器の触れ合う音がした。生活の音だ。以前なら何気なく聞き流していたその音が、今日は少し温かく思える。
「もう一緒にごはん食べてるの?」
『うん。今日は向こうが作った。焦げた生姜焼き』
「焦げたんだ」
『でも、昨日よりはおいしい』
その声は、うちの玄関先で声を詰まらせていたときよりずっと軽かった。完全に元どおりではないのかもしれない。それでも二人で直そうとしていることが伝わってくる。
『ひなた』
「何?」
『この前、偉そうに言ったでしょ。恋人にはちゃんと甘えろって』
「言われました」
『あれ、半分は自分に言いたかったのかも』
私はベッドの端に座り、スマートフォンを耳に当て直した。
『私ね、夫婦なんだからわかってくれるって思ってた。でも実際は、夫婦だから言わなくなってただけだった』
「うん」
『だから、ひなたは今のうちに言いな。会いたいも、寂しいも、嬉しいも。我慢した量で、大人の恋愛かどうかは決まらないよ』
年上の恋人に似合う自分でいようとして、私は何度も背伸びをした。
けれど、背伸びを続けたら、いつか隣を歩けなくなる。十二歳の差を埋めるために無理をするのではなく、違うところも含めて言葉にすればいい。
今夜、湊さんが私の希望を聞いてくれたように。
「ありがとう、あかね」
『お礼は水族館のお土産でいいよ』
「夫婦用に二つ買う」
『じゃあ、こっちも一個返す』
「何を?」
あかねは一度、電話口を手で塞いだらしい。遠くで夫婦の短いやり取りが聞こえたあと、声を潜めた。
『うちの人がさ。仲直りするきっかけをくれた二人に、直接お礼がしたいって』
「二人?」
『ひなたと、彼氏さん』
嫌な予感が、ものすごい速さで背中を駆け上がる。
彼氏さん。つまり十二歳年上の上司。つまり社内では交際を秘密にしている『氷の部長』。
待って。あかねの夫は、湊さんが相手だと知っているのだろうか。いや、今の言い方はどう考えても知っている。
「あかね、ちょっと確認したいんだけど――」
私が最後まで言う前に、あかねは明るく言い切った。
『今度、四人でごはん食べよう。霧島部長も一緒に』
(第65話へ続く)




