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次のデートは、私から

 翌朝、あかねは私のクローゼットの前で腕を組んでいた。


「これ、借りていい?」


 指さしたのは、淡い水色のブラウスだった。


「もちろん。でも、仕事は?」


「午後休取る。昨日の夜、申請した」


「早い」


「七時の予定を、仕事に食べられたくないから」


 そう言ってから、あかねは少しだけ唇を結んだ。


 強がっているときの顔だ。


 昨夜はろくに眠れなかったのだろう。いつもより薄い目元の下に、わずかに影がある。それでも鏡に映る自分へ背筋を伸ばす姿は、これから大事な交渉に向かう人みたいだった。


「緊張してる?」


「してない」


「じゃあ、ブラウスを胸に当てたまま三分固まってるのは?」


「服と対話してるの」


 高度な対話だった。少なくとも、返事は聞こえない。


 私はベッドの端に腰を下ろした。洗いたてのシーツから、柔軟剤の甘い香りがする。昨夜ここで布団を奪い合った親友が、今は一枚のブラウスを人生の選択肢みたいに見つめている。


「昨日の格好でもいいんじゃない? あかねらしかったし」


「家出した格好で再デートは嫌」


「再デートって認めるんだ」


「カレンダーにあんな件名を入れられたら、認めるしかないでしょ」


 文句を言いながら、耳が少し赤い。


 でも、すぐにその色は消えた。


「あの人、今日だけ頑張るつもりだったらどうしよう」


 あかねの声が小さくなる。


「迎えに来て、店を予約して、反省した顔をして。それで私が帰ったら、また元通りになるかもしれない」


 私は簡単に否定できなかった。


 一度のデートで、積み重なった沈黙が全部なくなるわけではない。予約した店も、花束も、きれいな謝罪も、その一日を特別にはできる。でも、次の日から続く暮らしを変えるのは、たぶんもっと地味なことだ。


 仲直りは魔法ではなく、面倒な習慣なのだと思う。何度も言って、何度も聞いて、忘れたらまたやり直す。


「それも、今日聞けばいいよ」


「重くない?」


「夫婦の今後を話すのに、軽さを競わなくていいでしょ」


 自分で言って、胸の奥に引っかかった。


 重くないように。


 困らせないように。


 相手の予定を奪わないように。


 それは私が、湊さんとの間で何度も並べてきた言い訳だった。遠慮は思いやりに似ているから、少し厄介だ。自分でも見分けがつかないまま、言いたいことを胸の内側へ押し戻してしまう。


 あかねが水色のブラウスから顔を上げる。


「ひなた、今、自分にも刺さった顔した」


「朝から人の表情を正確に読むの、やめてもらえる?」


「図星か」


「ほら、遅刻するから着替えて。私は先に出るよ」


 逃げた、と背中に言われた気がしたけれど、聞こえないふりをした。


 会社に着くと、いつもの八時間が始まった。


 企画書を開き、メールを返し、会議の資料を揃える。キーボードの音、複合機の作動音、誰かが淹れたコーヒーの匂い。昨日どんな夜を過ごしても、オフィスは決められた速度で今日を進めていく。


 湊さんは部長席で、いつもと変わらない顔をしていた。


「結城、この数値の出典は」


「先月の販売実績です。支店別の内訳は三ページ目に――」


「違う。二ページ目の予測値だ」


「あ」


 一行下を見ていた。


「すみません。市場調査会社の速報値です」


「確認して注記を入れておけ」


「はい」


 声も表情も、完璧な上司だった。


 昨夜、私が親友の家出に付き合い、人妻と同じベッドで布団を奪い合ったことなど、もちろん知らない。


 そして私も、恋人である部長を見ながら、友人の夫婦喧嘩で頭がいっぱいです、とは報告できない。


 秘密の交際とは、甘いだけではない。


 こういうとき、相談相手にしたい人を相談相手にできないのだ。目が合えば嬉しいのに、合った瞬間には部下の顔を作らなければならない。恋人と上司が同じ人だという事実は、近いのか遠いのか、ときどきわからなくなる。


 昼休み、あかねの席は空だった。


 午後休を取った彼女から、三時過ぎに一枚だけ写真が届く。


 美容院の鏡の前で、髪を整えたあかねが、私の水色のブラウスを着ていた。いつもの彼女より少し柔らかく見える。でも、まっすぐカメラを見る目は、やっぱりあかねだった。


『変じゃない?』


『すごく似合ってる』


『気合い入りすぎてない?』


『夫とデートするのに、誰への遠慮?』


 既読がついたあと、しばらく返事はなかった。


『行ってくる』


 たった五文字に、私まで緊張した。


 午後六時五十分。


 私はパソコンの右下に表示された時刻を、今日だけで四度目に確認した。七時まであと十分。私が見守ったところで何も変わらないのに、秒まで気になって仕方がない。


「結城」


 低い声に、肩が跳ねる。


 顔を上げると、湊さんが書類を持って立っていた。蛍光灯の白い光を背にして、こちらを静かに見下ろしている。


「はい」


「十分ごとに時計を見るほど、急ぎの予定があるのか」


「いえ、私の予定ではなくて」


 言ってから、口を閉じる。


 湊さんは一瞬だけ黙った。


「来栖か」


「えっ」


「午後休だろう。朝から君が落ち着かない」


 どうしてそこまで見ているんですか、と言いかけて飲み込んだ。


 部下の様子を把握しているだけ。ここは会社。そういう顔をしなければならない。


 それでも、胸の奥が勝手に温かくなる。私が隠していたつもりの小さな揺れを、この人はいつも見つけてしまう。


「少し、大事な用事があって」


「君が心配しても、予定の結果は変わらない」


「わかってます」


「なら、これを終わらせて帰れ」


 渡された書類には、私が担当するはずだった修正箇所の半分に、湊さんの赤字が入っていた。


「これ、部長が確認してくださったんですか」


「数字だけだ」


 嘘だ。


 文章の語尾まで直されている。几帳面な赤い文字を目で追うと、声にはしない気遣いまで読める気がした。


「ありがとうございます」


「業務だ」


 短く答えて、湊さんは部長席へ戻っていった。


 斜め向こうの背中は、少しも甘くない。


 それでも、私の作業はきっちり三十分短くなった。


 午後八時十二分。


 会社を出たところで、スマートフォンが震えた。夜の空気は昼間より冷たく、熱の残った頬に心地よかった。


『話した』


 あかねからだった。


 続けて、もう一通届く。


『今から家に帰る。二人で』


 私は駅前の人混みの中で、長く息を吐いた。肩に入っていた力が、ようやく抜ける。


 よかった。


 そう思った直後、三通目が来る。


『でも、仲直り完了じゃないから』


 思わず笑ってしまった。


『毎週水曜、夜八時から一時間。夕飯もテレビもスマホもなしで話すことにした』


『会議みたい』


『夫婦定例会』


『議事録は?』


『喧嘩になるから取らない』


 完全に元通りになったわけではない。


 でも、たぶん元通りになる必要もないのだ。


 元の二人に戻るのではなく、これからの二人に合うやり方を作ればいい。好きだからわかる、ではなく、好きだから伝える。その手間を惜しまないことが、一緒にいるということなのかもしれない。


 改札へ向かいかけて、私は足を止めた。


 ガラス越しに、会社の明かりが見える。


 湊さんは、まだあの中にいる。


 私たちは恋人になった。


 年の差のことも、上司と部下であることも、隠さなければならない事情も話した。


 けれど、これからどう付き合っていきたいかを、私はどれくらい言葉にしただろう。


 忙しそうだから。


 部長だから。


 十二歳上だから。


 そんな理由で、会いたい日まで遠慮していなかっただろうか。


 湊さんが何も言わないことを不器用だと思いながら、私だって同じだった。誘ってほしい。気づいてほしい。そう願うばかりで、自分から差し出した言葉はいくつあっただろう。


 スマートフォンがもう一度震えた。


『で、ひなたは?』


 嫌な予感しかしない。


『何が?』


『次のデート、いつ?』


 答えられなかった。


 あかねから、間髪入れずに追撃が来る。


『人には遠慮するなって言ったよね』


 親友というものは、ときどき返却期限の早すぎる鏡を突きつけてくる。


 私は改札前の柱に寄り、メッセージ画面を開いた。行き交う人の足音と改札の電子音が、急に遠くなる。


 湊さんの名前を選ぶ。


『お疲れさまです』


 そこまで打って、消した。


 今は、業務連絡ではない。


 土曜日は空いていますか。もし迷惑でなければ。お時間があれば。


 書いては消すたび、予防線ばかりが増えていく。これでは誘いではなく、断るための逃げ道を丁寧に舗装しているみたいだ。


 私は一度息を吸い、余計な言葉を全部消した。


 何度も迷った末、私は一文だけ送った。


『湊さん。次の土曜日、私とデートしてください』


 送信した瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 そのとき、会社の入っているビルの回転扉が動いた。


 黒い鞄を持った湊さんが外へ出てくる。


 彼の手の中で、スマートフォンが震えた。


(第64話へ続く)

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