片方の靴下を届ける人
妻を迎えに来ました。
その言葉だけ聞けば、ずいぶん格好いい。
けれどモニターの中の来栖さんは、女性用の傘と片方だけの靴下を握りしめ、雨に濡れて息を切らしていた。
格好いいというより、必死だ。
私は玄関と浴室を交互に見た。
シャワーの音はまだ続いている。勝手に入れていいのか。追い返していいのか。そもそも夫婦の問題に、友人とはいえ私がどこまで踏み込んでいいのか。
社会人六年目、企画書の修正なら三案出せる。
親友の夫が夜十時四十七分に片方の靴下を持って現れた場合の正解は、研修で習っていない。
『あの、結城さん……ですよね』
「はい」
『あかねから聞いてます。会社の、いちばん仲のいい友達だって』
いちばん。
こんなときなのに、その言葉が少しうれしかった。
「少し待ってください」
私は通話を切り、浴室の前まで行った。
「あかね」
シャワーが止まる。
「なに?」
「旦那さんが来てる」
扉の向こうが、しんとした。
やがて、小さな声が返ってくる。
「……なんで」
「迎えに来たって」
「帰ってもらって」
「わかった」
返事はしたものの、玄関へ戻る足は重かった。
モニターをつけ直すと、来栖さんはまだそこにいた。さっきより肩で息をしていないぶん、疲れた顔がよく見える。
「すみません。今日は会いたくないそうです」
『そうですか』
落胆はした。けれど、怒りも、苛立ちも見せなかった。
『わかりました。無理に連れて帰るつもりはありません』
その一言に、私は少しだけ息をついた。
『これだけ、渡してもらえますか』
彼が掲げたのは、赤い小花模様の折り畳み傘と、灰色の靴下だった。
「傘はわかりますけど、靴下は?」
『あいつ、左右が揃ってないと落ち着かないんです』
さっきまで私の部屋で、人生は片方なくなる前提だと力説していた人と同一人物だろうか。
『家を出るとき、片方しか持っていかなかったから。たぶん、勢いで』
来栖さんはそこで初めて、ほんの少し笑った。
『傘も忘れてた。昔から、怒ると何かひとつ忘れるんです』
浴室の扉が開く音がした。
振り向くと、私の部屋着を着たあかねが立っていた。髪から落ちた雫が、肩のタオルに染みている。
「余計なこと言わないで」
インターホンにも届いたらしい。
『あかね』
スピーカー越しに名前を呼ばれ、あかねの唇がきゅっと結ばれる。
「今日は帰らない」
『うん』
「迎えに来たって言えば、私が喜んでついて帰ると思った?」
『思ってない』
「じゃあ、なんで来たの」
責める声なのに、その奥にあるのは怒りだけではなかった。
来てほしかった。
でも、来ただけで全部なかったことにはされたくない。
たぶん、そういう声だった。
モニターの中で、来栖さんが目を伏せる。
『電話、出てくれないから』
「出たら、何を言うつもりだったの」
『謝る』
「何に?」
返事が止まった。
あかねの肩が硬くなる。
「ほら。わかってない」
『わかってないから、聞きたい』
今度の答えは、短かった。
それでもあかねは動かなかった。
「今まで聞かなかったくせに」
『それは、本当に悪かった』
「仕事が忙しかったから?」
『違う。忙しいのを言い訳にして、家のことは大丈夫だと思い込んでた。あかねがやってくれてたから』
静かな廊下に、雨音がしている。
私の部屋の中には、冷蔵庫の低い駆動音。
そして二人の間には、毎日の中で積み重なった、名前のつかない沈黙があった。
『牛乳、買ってきてって言われたの、忘れたことなかっただろ』
「そういう話じゃない」
『うん。今日わかった』
来栖さんは手の中の傘を見た。
『俺、牛乳を忘れなければ、ちゃんと夫をやってるつもりになってた』
あかねが、息を呑んだ。
私も何も言えなかった。
きっと、間違いではなかったのだ。
頼まれたものを買う。遅くなると連絡する。生活費を入れる。壊れた電球を替える。
どれも一緒に暮らすために必要で、どれも愛情の一部だ。
ただ、それだけでは届かない日がある。
七年前の湊さんも、私を傷つけないことが優しさだと思って、何も言わなかった。
出張先の私は、湊さんを困らせないように遠慮して、何も言わなかった。
大事にしたい気持ちが、黙る理由に変わる。
言葉にしなければ、相手には別の形で届いてしまうのに。
「あかね」
私は声を落とした。
「玄関、開ける?」
「ひなたは、どう思う?」
聞かれて、困った。
帰ったほうがいいとも、帰らないほうがいいとも、私が決めてはいけない。
「私は、あかねに泊まってほしい」
正直に答える。
「今帰ったら、来てくれたことに安心して、言いたかったことを飲み込む気がするから」
あかねが私を見る。
「でも、傘と靴下は受け取ってもいいと思う。持ってきてくれたことと、帰ることは別だから」
一つ受け取ったら、全部許さなければいけないわけじゃない。
好きなら、何もかも同じ速さで頷かなければいけないわけでもない。
それは少し前、私と湊さんがようやく覚えたことだった。
あかねはしばらく黙っていた。
やがて、私の横を通り過ぎる。
けれどドアを大きく開ける前に、チェーンを掛けた。
開いた隙間は、手が一本通るくらい。
そこから湿った夜の空気が流れ込んでくる。
「傘、ちょうだい」
「ああ」
来栖さんが差し入れた折り畳み傘を、あかねが受け取る。
次に靴下が差し出された。
「これも」
「……いらない」
「揃ってないと嫌だろ」
「今日は、揃ってなくていい」
来栖さんの手が止まった。
あかねはドアの隙間越しに、夫の顔を見ていた。
「私がいない家で、困った?」
「困った」
「夕飯がないから?」
「違う」
「洗濯物の場所がわからないから?」
「それも少し困ったけど、違う」
「じゃあ何」
「静かすぎた」
来栖さんは、今度は迷わなかった。
「冷蔵庫の音しか聞こえなくて。あかねがいないって、そこでやっとわかった」
あかねの目が赤くなる。
けれど、ドアは開かなかった。
「今日は帰らない」
「わかった」
「明日の朝も帰らない」
「うん」
「だから、待たないで寝て」
「ああ」
素直に頷くたび、あかねは少し不満そうになる。
帰れと言ったのは自分なのに、簡単に帰られるのも腹が立つ。わかる。恋愛というものは、ときどき要求仕様が複雑すぎる。
来栖さんは靴下を握り直し、頭を下げた。
「結城さん、夜分にすみませんでした。あかねを、よろしくお願いします」
「はい」
私が答えると、あかねが小さく息を吸った。
「待って」
背を向けかけた来栖さんが振り返る。
あかねはチェーンを外さないまま、ドアの隙間から言った。
「明日、夜七時」
「え?」
「駅前の喫茶店。結婚する前に、よく行ったところ」
私でも知っている。あかねが何度か話してくれた、二人が初めて将来の話をした店だ。
「家じゃなくて、そこで話す。遅刻したら帰るから」
「仕事は切り上げる」
「切り上げる、じゃなくて」
あかねの指が、赤い小花模様の傘を強く握る。
「明日は、私を仕事より先に予定に入れて」
来栖さんは一度だけ瞬きをした。
それからスマートフォンを取り出し、その場で画面を操作する。
「入れた」
あかねのスマートフォンが、テーブルの上で震えた。
カレンダーの共有通知だった。
画面には、明日の午後七時からの予定が表示されている。
『あかねと、もう一度デートする』
(第63話へ続く)




