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牛乳一本の家出

 家出。


 その二文字から私が想像したのは、浮気とか、借金とか、勢いで投げつけられた離婚届とかだった。


 電話口のあかねが「今夜、泊めて」と言ったとき、声が震えていたからだ。


 だから部屋に入るなり、旅行鞄を壁際へ置いたあかねから事情を聞いた私は、三回ほど瞬きをした。


「……牛乳?」


「うん」


 ローテーブルの向こうで膝を抱えたあかねが、紙コップのココアをにらんでいる。暖房の音だけがやけに大きく聞こえた。


 出張帰りで冷蔵庫がほぼ空だったため、コンビニで買ってきたものだ。ちなみに牛乳は買わなかった。今のあかねの前で牛乳を冷蔵庫に入れるのは、なぜか危険な気がした。


「確認していい? 家を出る原因になったのが、牛乳一本?」


「正確には、空になった牛乳パックを冷蔵庫へ戻したこと」


「なるほど」


「今、くだらないって思ったでしょ」


「思ってない。ちょっとだけ、私の想像してた家出と規模が違っただけ」


「同じじゃん」


 あかねは唇を尖らせて、ココアを一口飲んだ。


 いつもなら、ここで自分から笑いに変える人だ。「牛乳一本で別居危機」とでも言って、私より先に吹き出すはずだった。けれど今日は笑わない。


 紙コップを包む両手は冷えたままで、コートを脱いだ肩も強張っている。


 私は急いで結論を出すのをやめた。


「それで、どうして出てきたの?」


「朝、私が飲もうとしたら空だったの。昨日の夜、あの人が最後に飲んだのはわかってたから、せめて捨ててって言った」


「うん」


「そしたら、『気づいたなら捨てればいいだろ』って」


 ああ。


 牛乳そのものは小さい。空のパックなら、片手で潰せるくらい軽い。けれど、その言い方は小さくない。


「私だって捨てられるよ。たった一本だもん。でも、トイレットペーパーを替えるのも、洗剤を詰め替えるのも、宅配便を受け取るのも、最近ずっと私。向こうが忙しいのは知ってる。帰りが遅いのも仕事。だから言わなかった」


 あかねの指が、紙コップの縁をゆっくり潰す。薄い紙が、かすかな音を立ててへこんだ。


「私も忙しいけど、あの人のほうが大変だと思ってた。疲れてるときに細かいことを言ったらかわいそうかなって。そしたら今日、牛乳一本で全部出た」


「何て言ったの?」


「『じゃあ、私がいなくても気づいた人が全部やれば』」


「それで旅行鞄を?」


「前から荷物をまとめてたわけじゃないからね。クローゼットから出して、目についた服を放り込んだ。途中で靴下が片方しかないことに気づいたけど、戻るのも負けた気がして」


 そこでようやく、あかねが少しだけ笑った。


 私もつられて息をこぼす。笑っていい場所を、あかねがほんの少し開けてくれた気がした。


「靴下なら貸すよ」


「ひなたの、小さくない?」


「足のサイズは同じでしょ」


「胸の話」


「靴下の話をして」


 いつもの調子が一瞬だけ戻って、また消えた。


 視線を落としたあかねの髪が頬にかかる。今度の沈黙は、さっきより重かった。


「……追いかけてこなかった」


 ぽつりと落ちた声は、ずっと弱かった。


「止めもしなかった。私が玄関を出るとき、あの人、何て言ったと思う?」


 私は黙って待った。軽々しく予想を口にしたら、その言葉まであかねを傷つけそうだった。


「『明日も仕事だろ。感情的になるな』って」


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 感情的になるな。


 正しい顔をした言葉ほど、ときどき人を一人にする。


 きっとあかねが欲しかったのは、正論でも謝罪の形式でもない。玄関の扉が閉まる前に、せめて一度、名前を呼んでもらうことだったのだ。


「私ね、怒ってるはずなのに、途中からわからなくなった。牛乳で家を出る私がおかしいのかなって。結婚して三年も経てば、こんなものなのかなって」


「そんなもの、で片づけなくていいと思う」


 口にしてから、少し怖くなった。


 私は結婚したことがない。七年越しの初恋がやっと実ったばかりで、恋人になってからだって、まだ何も知らない。


 あかねはいつも私より先を歩いていて、恋愛の答えを持っている人に見えていた。そのあかねに、私が何を言えるのだろう。


「ごめん。偉そうだった」


「どうして謝るの」


「私、夫婦のことはわからないから」


「私だってわかってないよ」


 あかねは紙コップをテーブルに置いた。


「わかってたら、旅行鞄に片方だけの靴下を詰めて家出してない」


「それは、確かに」


「親友に話すのに、資格なんていらないでしょ」


 いつも私を助けてくれる声で言われて、今度は私が背筋を伸ばした。


 弱っているときまで、あかねは私の迷いを拾ってくれる。だからこそ今夜くらいは、私が隣にいたかった。


「じゃあ、資格のない私から一つだけ」


「うん」


「牛乳一本が理由じゃないよ。言わずに飲み込んだことが、冷蔵庫いっぱいに溜まってたんだと思う」


 あかねは目を伏せた。


 言いながら、これは少し前の私たちと同じだと思った。


 湊さんは私に我慢をさせないため、何も言わずに距離を取った。私は嫌われたくなくて、不安を笑って隠した。


 どちらも相手を思って黙っていたのに、黙ったぶんだけ違う答えを作っていた。


 言葉にしない優しさは、受け取る側からは見えないことがある。むしろ距離や無関心に見えてしまうことさえある。


「でも、あかねも言わなかったんだよね」


「責めてる?」


「ううん。言えなかったんだと思う。相手が大変そうだと、こんな小さいことで、って自分で止めちゃうから」


「あの霧島部長にも?」


 突然名前を出され、心臓が跳ねた。油断していた胸の真ん中へ、湊さんの低い声と、出張先で近づいた体温が一度に蘇る。


「い、今は私の話じゃなくて」


「出張で何かあった顔してる」


「家出中にも観察力を発揮しないで」


「何があったの」


「小さなケンカをして、話し合っただけ」


「仲直りした?」


「した」


 答えた瞬間、頬が熱くなる。仲直りしたあとの、まっすぐな視線まで思い出した私の顔は、たぶん仕事中には絶対できないくらい緩んでいた。


「じゃあ、その経験者として聞いてあげる」


「今夜の相談相手は私です!」


 つい声が大きくなった。


 あかねが、今度こそ少し自然に笑う。


「そっか。ひなた、ちゃんと言えるようになったんだ」


 その言葉に、胸が温かくなる。


「まだ練習中だけどね」


「なら私も練習しなきゃいけないのかな。怒鳴って家を出る以外の言い方」


「今夜すぐ決めなくていいよ」


 私は立ち上がり、クローゼットから予備の布団を出した。押し入れの乾いた匂いと一緒に広げると、あかねの肩からわずかに力が抜けた。


「泊まって。明日の朝、頭が冷えてから考えよう。帰りたくなければ、もう一晩いてもいい」


「霧島部長が来る予定は?」


「ありません!」


「声が裏返ってる」


「普通です」


 本当は今夜、帰宅したら電話をする約束だった。


 たった一日離れていただけなのに、声を聞けるのを楽しみにしていたなんて、あかねの前では少し言いにくい。


 湊さんへ短く事情を伝えると、すぐに返信が来た。


『来栖さんを優先して。電話は明日でいい』


 それだけで終わるかと思ったら、少ししてもう一通届いた。


『君も疲れている。無理はするな』


 短い。相変わらず短いのに、私が出張帰りだということも、友人を支えようとして無理をしがちなことも、全部わかったうえでの言葉に思えた。


 画面を見て緩みそうになる頬を、私は両手で押さえた。


「恋人の顔してる」


「見ないで」


「いいなあ」


 あかねの声に嫉妬はなかった。


 ただ、遠いものを見るような寂しさがあった。


「私にも、あったんだけどな。相手から連絡が来ただけで、うれしかった時期」


「今は?」


「連絡が来ても、『夕飯いらない』か『遅くなる』だけ」


 結婚すると、ときめきがなくなる。


 そんな話なら、何度も聞いたことがある。


 けれど、なくなったのではなく、小さな用事の下に埋もれて見えなくなるだけなのかもしれない。


 牛乳や洗剤や夕飯の連絡。毎日を一緒に生きるために必要なものが、いつの間にか相手の顔を隠してしまう。


 掘り返すには、一人では足りない。


「今日はもう寝よう」


「うん」


「あかね、お風呂先に使って。着替えと、両方揃った靴下を出しておくから」


「ありがと」


 あかねが浴室へ向かい、やがて扉の向こうからシャワーの音が聞こえ始めた。


 私は潰れた紙コップを片づけた。テーブルに残った薄い輪染みを拭きながら、明日の朝は何か温かいものを作ろうと思う。肝心の冷蔵庫は空に近いから、コンビニのおにぎりと即席のみそ汁くらいになりそうだけれど。


 そのとき、玄関のインターホンが鳴った。


 静かな部屋に響いた電子音に、肩が跳ねる。


 時計は午後十時四十七分。


 宅配便が来る時間ではない。


 湊さん――では、もちろんない。来栖さんを優先してと言った人が、黙って押しかけてくるはずもない。


 念のためモニターを確かめた私は、そこに映った男性の顔を知らなかった。


 スーツ姿で、息を切らしている。急いで来たのか、少し乱れた髪には細かな雨粒が光っていた。


 けれど彼の手には、赤い模様の入った女性用の傘と、片方だけの靴下が握られていた。


『夜分にすみません。来栖です』


 スピーカー越しの声が、はっきり続けた。


『妻を迎えに来ました』


(第62話へ続く)

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