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同じ速さで隠す

「部長、こっちに戻らないでください!」


 静かなレストランに、私の声が思った以上にはっきり響いた。


 コーヒーカップを置く音まで止まった気がする。


 入口に立つ羽田くん。


 通路の途中で足を止めた湊さん。


 そして、二人の視線を一身に浴びる私。


 終わった。


 秘密の恋人編、朝食会場にてあえなく完結。原因は私の大声です——などと現実逃避している場合ではない。


「結城さん?」


 先に口を開いたのは羽田くんだった。


「何かあったんですか」


「ええと、その」


 言葉が見つからない。


 戻らないでと言ってしまった以上、湊さんがそこにいることには気づいていた。偶然を装うのは難しい。


 湊さんは一度だけ私を見て、それから踵を返した。


「領収書を置き忘れた」


 落ち着いた声だった。


 彼が指した先には、さっきまで二人で使っていたテーブルがある。伝票入れの横に、白い紙が一枚残っていた。


「結城が持ってくると言っている。だから戻る必要はない、という意味だろう」


「そ、そうです!」


 私は勢いよく領収書をつかんだ。


「廊下でお渡ししますから、部長は先にロビーへお願いします!」


「わかった」


 湊さんは表情を変えず、そのまま通路の奥へ消えた。


 助かった。


 ……のだろうか。


「ずいぶん大きな声でしたね」


 羽田くんの指摘が痛い。


「私もそう思う」


「領収書一枚で」


「朝は声量の調節がうまくできなくて」


「そんな故障、初めて聞きました」


 ですよね。


 羽田くんは首を傾げながら、私の向かいに残された椅子を見た。湊さんが使っていたカップも皿も、まだ片づけられていない。


 心臓が喉までせり上がる。


「結城さん、もう朝食は終わったんですか?」


「う、うん」


「じゃあ、俺も急いで食べてきます。集合、九時でしたよね」


「そう。ロビーに十分前で」


「了解です」


 羽田くんはそれ以上追及せず、ビュッフェ台へ歩いていった。


 私は領収書を握ったまま会場を出た。


 廊下の角を二つ曲がり、人のいないエレベーターホールまで来たところで、壁にもたれる。


 朝食を食べたはずなのに、寿命を三年くらい消費した気分だ。


 スマートフォンが震えた。


『非常階段前にいる』


 短いメッセージを見て、私は廊下の突き当たりへ向かった。


 防火扉の前に湊さんが立っていた。ネクタイも表情も乱れていない。私だけが全力疾走後のように息を切らしているのが、少し悔しい。


「これ、領収書です」


「ああ」


 受け取った湊さんが、紙を二つに折る。


「すみませんでした。あんな大声を出して」


「謝る必要はない」


「でも、余計に怪しまれたかもしれません」


「俺が戻れば、同じテーブルにいたことは確実にわかった」


 確かに、あの状況で湊さんが席まで来れば、二人ぶんの食器を見られていた。


「結果として助かった」


「結果論です。何も考えずに叫んだだけで」


「考えるより先に、俺を止めようとしたんだろう」


「はい」


「なら、今度は俺が合わせる番だ」


 その言葉に、顔を上げた。


「合わせる?」


「一人で正解を決めない。今朝、そう言われた」


 湊さんは少しだけ間を置いた。


「隠すことも、二人でする」


 胸の奥に、静かに温かいものが広がった。


 昨日までの私は、湊さんが距離を取るたび、年下だから頼られていないのだと思っていた。


 湊さんは湊さんで、私に我慢をさせないために、自分だけで危険を引き受けようとしていた。


 たぶん、どちらも相手を大切にしたかった。


 大切にする方法を、相談していなかっただけだ。


「では、さっそく相談です」


「何だ」


「羽田くんに聞かれたら、朝食会場ではたまたま近い席だった。それ以上でも以下でもない。これで統一しませんか」


「ああ」


「あと、今からは普通の上司と部下に戻ります」


「わかった」


 即答されると、それはそれで寂しい。


 勝手だな、私。


「……何だ」


「何でもありません」


「顔に出ている」


「普通の上司は、部下の顔をそんなに細かく読みません」


「では、勤務時間外の今だけ言う」


 湊さんの声が低くなる。


「俺も、もう少し一緒にいたい」


 ずるい。


 あと数分で仕事が始まる朝に、そんなことを言うなんて。


「言葉にするの、上手になりましたね」


「君の教育方針だ」


「では、引き続き努力してください」


「ああ」


 エレベーターの到着音がして、私たちは同時に一歩離れた。


 開いた扉の中には、出張客らしい男性が二人乗っている。


「おはようございます、霧島部長」


 私は会社用の声で言った。


「おはよう、結城」


 湊さんも、氷の部長の顔で返す。


 さっきまで恋人だった人と、何もなかった顔で同じ箱に乗る。慣れる日は来ない気がする。


 けれど昨日までとは違った。


 離れているのは、湊さんに離されているからではない。


 今は二人で、同じ距離を選んでいる。


 ロビーでは、朝食を終えた羽田くんが先に待っていた。


「おはようございます、部長」


「ああ。早かったな」


「予定より一本早い新幹線に乗れました」


 羽田くんは仕事用のタブレットを取り出し、今日の訪問先について話し始めた。朝食会場のことには触れない。


 私は胸の内で息をつき、鞄から資料を出した。


 出張二日目は、驚くほど順調に進んだ。


 取引先との打ち合わせでは、昨日修正した提案が好評だった。羽田くんの補足も的確で、湊さんは必要なところだけを短く締めた。


 会議室では、私たちは完璧な上司と部下だった。


 それが寂しくないわけではない。


 でも、仕事をしている湊さんを好きになったことも、仕事をする私を彼が認めてくれたことも、どちらも嘘ではない。


 恋人らしく見えない時間まで、恋人であることを疑わなくていい。


 帰りの新幹線では、私と湊さんの間に羽田くんが座った。


 昨日なら、その一席ぶんの距離に勝手な意味を探していたと思う。


 今日は窓際で資料を読みながら、スマートフォンを膝の上に伏せておく。


 東京駅に着く直前、一度だけ画面が光った。


『今朝はありがとう』


 隣の隣を見ることはしなかった。


『次は、叫ぶ前に相談します』


 そう返すと、すぐにもう一通届く。


『それは無理だろう』


 思わず笑いそうになり、私は咳払いでごまかした。


 年の差は、なくならない。


 上司と部下であることも、秘密にしなければならないことも、明日から急に簡単にはならない。


 それでも、十二歳の差を湊さん一人に埋めてもらう必要はない。


 私が一歩進んで、彼にも一歩進んでもらう。


 歩幅が違うなら、そのたびに言えばいい。


 東京へ戻り、三人で改札を出たところで解散した。


 湊さんは私に個人的な言葉をかけず、人混みの中へ消えていった。


 けれど、寂しさより先に、今夜はちゃんと連絡をくれるだろうという安心があった。


 秘密の恋人は面倒だ。


 でも、面倒なことを二人で面倒がれるなら、きっと続けていける。


 そんなことを考えながら帰宅すると、マンションの入口に誰かが座り込んでいた。


 大きな旅行鞄を足元に置いた、見慣れた赤茶色の髪。


「あかね?」


 呼ぶと、親友は顔を上げた。いつもの強気な笑顔はどこにもない。


 立ち上がったあかねは、鞄の持ち手を強く握って言った。


「ひなた。今夜、泊めて。私、家を出てきた」


(第61話へ続く)

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