二名席の相談不足
朝食会場の入口で、私は三秒ほど固まった。
「霧島様がお待ちです。こちらの二名席へどうぞ」
聞き間違いではないらしい。
案内係の女性は完璧な笑顔で歩き出す。私はその背中を追いながら、昨夜の会話を頭の中で再生した。
時間を十五分ずらして入る。
席も別にする。
ビュッフェ台ですれ違う。
コーヒーを取るときだけ隣に立つ。
我ながら慎重すぎる作戦だったけれど、湊さんも最後には同意した。したはずだ。少なくとも、却下の稟議は届いていない。
なのに、窓際の二名席に座っていた湊さんは、私を見るなり当然のように立ち上がった。
「おはよう」
「……おはようございます、部長」
案内係が椅子を引いてくれる。
逃げるなら今だ。
けれど、ここで「別の席がいいです」と騒ぐほうが、よほど不自然に見える。私は営業用の笑顔を貼りつけて席に着いた。
「ごゆっくりどうぞ」
案内係が去った途端、笑顔を外す。
「説明を求めます」
「朝食を一緒に食べるためだ」
「それは見ればわかります」
テーブルの中央には、小さな花瓶と塩、それから相談不足が置かれている。
「昨日、席は別にするって決めましたよね」
「ああ」
「ああ、じゃないです」
「この時間帯なら、取引先と鉢合わせる可能性は低い。入口から死角になる席も確認した」
湊さんは淡々と答えた。
確かに、私たちの席は大きな柱の陰にある。周囲には旅行客らしい家族連れが二組いるだけで、会社関係者の姿はない。
安全性を検討したうえでの行動らしい。
そういう問題ではない。
「一人で決めずに相談する練習、昨日したばかりですよね」
湊さんの動きが止まった。
手にしていたコーヒーカップが、音もなくソーサーへ戻される。
「……そうだった」
「もう忘れたんですか」
「忘れてはいない」
「では、なぜ二名席に?」
彼は黙った。
都合が悪いときの沈黙だ。昨日までなら、その横顔を見ただけで、私のほうが言いすぎた気がして引き下がっていただろう。
十二歳年上。上司。仕事のできる人。
その三つが並ぶと、湊さんの判断には私より多くの根拠があるように思えてしまう。
でも、恋人としての経験年数は同じだ。
私たちは、まだ九日目だった。
「何か言ってください」
「君が来る十五分前に、一人で食べ始めた」
「はい」
「予想以上に味がしなかった」
「……はい?」
「それで、席を用意してもらった」
あまりに真顔なので、冗談なのか判断できない。
「昨日、君と食べたいと言った」
「言いましたね」
「実際に一人で食べたら、思っていたより嫌だった」
困る。
そんなふうに言われたら、怒りを維持するのが難しくなる。
でも、ここで頬を緩めたら同じことを繰り返す気がして、私は膝の上で指を組んだ。
「だからって、決めたことを勝手に変えないでください」
「ああ。すまない」
「私は、一緒に食べるのが嫌なわけじゃありません」
「わかっている」
「わかっていません。湊さんは、私が喜ぶと思ったんでしょう」
また沈黙が落ちる。
図星らしい。
「喜びますよ。二人で朝ごはんなんて、嬉しいです。嬉しいからこそ、困るんです」
声を抑えているせいで、余計に息が詰まった。
湊さんが予約してくれた席。向かいにいる恋人。朝の光。湯気の立つコーヒー。
本当なら、全部に浮かれていたかった。
「嬉しかったら、嫌だったことを言えなくなると思いませんか」
湊さんの目がわずかに揺れた。
私はようやく、自分が何に引っかかっていたのか気づいた。
彼が十二歳上だからではない。
私が、十二歳上の彼に正しく扱ってもらおうとしていたことが苦しかったのだ。
正解を出してもらって、守ってもらって、迷惑をかけないように笑う。
それでは恋人というより、採点を待つ部下のままだ。
「私も決めたいんです。危ないからやめるのか、それでも一緒に食べるのか。湊さんが考えた正解を、あとから渡されるんじゃなくて」
「ああ」
「私が年下だから、頼りないですか」
「違う」
返事だけは早かった。
「では、どうしてですか」
彼はしばらく私を見つめ、それから短く息を吐いた。
「君に我慢させていると思った」
「我慢?」
「社内で名前を呼べない。並んで歩けない。出張先でも隣に座れない。俺との関係を選んだせいで、普通なら必要のない我慢をさせている」
胸の奥が、少し痛んだ。
「だから、できるときくらいは望みを叶えたかった」
優しさなのだと思う。
この人はいつも、自分が背負える形にしてから差し出そうとする。
けれど、私はもう七年前の十九歳ではない。
「その我慢は、二人で選んだものです」
「ああ」
「湊さん一人の責任にしないでください」
私はテーブルの上へ手を置いた。
触れるためではない。ただ、言葉だけでは足りない気がした。
「私が年下だからじゃなくて、湊さんが何でも一人で背負う人だから、こうなるんですね」
「……否定できない」
「十二歳の差より、そっちのほうが大問題です」
湊さんは眉間に指を当てた。
「朝から厳しいな」
「部長に鍛えられました」
「教育方針を間違えたかもしれない」
「手遅れです」
やっと、少しだけ笑えた。
湊さんも、ほんのわずかに口元を緩める。
「では、改めて相談する」
「はい」
「この席で一緒に食べたい。見つかる危険は低いが、ゼロではない。どうする?」
今さらすぎる。
でも、今さらでも聞いてくれたことが嬉しかった。
「食べます」
「いいのか」
「私も一緒に食べたいので。ただし、次から勝手に席を取ったら、コーヒーだけ飲んで帰ります」
「わかった」
「あと、私の分まで背負ったつもりにならないでください」
「努力する」
「そこは即答できないんですね」
「長年の癖だからな」
湊さんが立ち上がり、ビュッフェ台へ向かう。
少し遅れて、私も席を立った。
約束どおり、コーヒーマシンの前で隣に並ぶ。肩が触れそうで触れない距離に、昨夜よりも穏やかに胸が鳴った。
「卵料理、取らないのか」
「朝はあまり食べられなくて」
「昨日、朝食はしっかり取ると言っていた」
「仕事の日は、です。今日は湊さんに怒っていたので、胃が忙しかったんです」
「俺のせいか」
「半分は」
「残り半分は?」
「二人で朝ごはんが嬉しくて」
言ったあとで、コーヒーが落ちきるまでの十秒が異様に長くなった。
湊さんは何も言わない。
「その沈黙、禁止にしませんか」
「無理だ」
「どうしてですか」
「今、かなり嬉しい」
低い声が、コーヒーマシンの作動音に紛れる。
私は紙ナプキンを一枚余計に取った。何かしていないと、顔の熱をごまかせそうになかった。
秘密の恋人は面倒だ。
一緒に座るだけで相談が必要で、嬉しいだけでは終われない。
それでも、面倒なことを面倒なまま話せた朝は、昨日より少しだけ近く感じた。
朝食を終え、私たちは五分差で会場を出ることにした。
湊さんが先に立ち、私は席に残る。
その背中が柱の向こうへ消えた直後、スマートフォンが震えた。
羽田くんからだった。
『おはようございます。予定より早く着きました。今、朝食会場の前です』
まずい。
顔を上げると、入口へ続く通路の向こうに、引き返してくる湊さんの姿が見えた。
そして同時に、入口の自動扉が開き、羽田くんが会場へ入ってきた。
考えるより先に、私は立ち上がっていた。
「部長、こっちに戻らないでください!」
静かなレストランに、私の声が思った以上にはっきり響いた。
(第60話へ続く)




