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五分では足りない

 受話器を置いてから、私はしばらく動けなかった。


 今からロビーへ下りる。


 たったそれだけの言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。


 え、待って。今?


 私は部屋着代わりのTシャツに着替えたばかりで、髪だって雨に濡れて少し広がっている。鏡の中には、出張先のホテルでコンビニのスープをすすろうとしていた、恋人らしさ皆無の女がいた。


 けれど、湊さんが来るのだ。


 私が「話したい」と送ったから。


 慌ててジャケットを羽織り直し、髪を手ぐしで整える。口紅を塗るか迷って、やめた。五分だけ恋人として話したいと言ったのは私だ。今さら恋人らしく見えるために準備するのも、なんだか違う。


 それでも鏡に向かって一度だけ深呼吸をしてから、部屋を出た。


 エレベーターが一階に着く。


 扉が開くと、湊さんはもうロビーにいた。


 窓際のソファにも座らず、閉じた紺色の傘を手に立っている。濡れた肩はさっきより色が濃くなっていた。私を傘に入れるために濡れたのだと思うと、胸の奥がちくりと痛む。


「早いですね」


「君が遅い」


「電話から三分です」


「俺は二分で下りた」


「張り合うところですか?」


 いつもの調子で返すと、湊さんの表情がほんの少し緩んだ。


 その小さな変化に安心する。同時に、こうして冗談に逃げれば、肝心なことを言わずに済んでしまうとも思った。


 ロビーには出張客らしい人が何人かいる。私たちは少し離れて、窓際のソファへ座った。間には一人分ほどの隙間。


 恋人として話すには遠く、上司と部下としては近い。


「五分では足りないって、何分なら足りるんですか」


「わからない」


「そこは考えてから下りてきてください」


「考えていたら、君がまた一人で結論を出すかもしれない」


 返す言葉に詰まった。


 それはたぶん、今夜の私たちが一番してはいけないことだった。


「……しません。少なくとも、今日は」


「ああ」


 湊さんは傘を自分の足元へ置き、両手を組んだ。仕事の打ち合わせでは見たことのない、少し落ち着かない仕草だった。


「さっき、君に言われたことを考えていた」


「保護者みたい、ってことですか」


「それも含めてだ」


 低い声が、雨音の残るロビーに落ちる。


「俺は、君より十二年長く生きている。その分、失敗する可能性を先に考える癖がある」


「はい」


「社内で知られた場合のことも、仕事への影響も、君が後悔する可能性も」


 また、私のため。


 喉まで出かかった言葉を飲み込む。遮らずに最後まで聞くと決めた。


「だが、先に考えられることと、正しい答えを知っていることは同じじゃない」


 湊さんは一度黙った。


 動揺すると、彼はこうして言葉の前に間を置く。今ではその沈黙が拒絶ではないと知っている。


「年上だから、君を傷つけない選択ができると思うのは、俺の思い上がりだ」


 思っていなかった言葉だった。


 私は膝の上で指を握る。


「湊さんがそんなふうに言うとは思いませんでした」


「俺も言うとは思わなかった」


「自分の発言ですよ」


「だから驚いている」


 真顔で言うから、思わず笑ってしまった。


 笑い声を抑えながら横を見ると、彼もわずかに口元を緩めている。コンビニからの帰り道より、また一本、胸の糸がほどけた気がした。


「私も、思い上がってました」


「何を」


「恋人になったんだから、湊さんなら私が何を言いたいかわかってくれるって」


「それは難しい」


「即答しないでください」


「事実だ。仕事の報告でも、結論から言えといつも言っている」


「恋人にも結論から求めるんですか」


「できれば」


「鬼上司」


「知っていただろう」


 悔しいけれど、知っていた。


 十二歳上の大人だから、何でもわかってくれるわけではない。私より長く生きているぶん、不安を多く知っていて、失う前に手を引こうとしてしまうこともある。


 そして私は、二十六歳の大人だ。守られるだけの年齢ではないけれど、黙っていても愛され方を選べるほど器用でもない。


「じゃあ、結論から言います」


「ああ」


「私は今日、寂しかったです」


 湊さんの目がまっすぐ私へ向く。


「新幹線で離れて座ったことも、夜の予定を勝手に決められたことも。仕事のためなのは理解しています。でも、理解できることと、寂しくないことは別です」


「……ああ」


「湊さんは?」


「何が」


「今日の結論です」


 逃がさないように見つめると、彼は視線を窓へ向けた。ガラスの向こうでは、街灯に照らされた雨が細い線になっている。


「俺も、寂しかった」


 小さな声だった。


 けれど、聞き間違えようがない。


「君の隣の席に他の人間が座るのを見て、腹が立った」


「羽田くんは悪くありません」


「わかっている。だから自分に腹が立った」


 そんなことまで言ってくれるとは思わなかった。


 嬉しい、と感じた直後に、少しだけ腹も立つ。だったら最初から隣に座ればよかったのに。けれど、それを今ここで蒸し返すのは違う気がした。


「次からは、寂しいって先に言ってください」


「努力する」


「善処します、よりは前進ですね」


「君もだ」


「はい。私も、引き留めてほしいときは言います」


「どう言う」


「練習させるんですか?」


「具体的なほうが助かる」


 本当にこの人は、恋人同士の会話まで業務改善のように進める。


 でも、不思議と嫌ではなかった。わからないから、確認する。できないから、練習する。たぶん私たちには、そういう不格好な方法が合っている。


「帰らないで、もう少し一緒にいたい、って言います」


 口にした途端、耳が熱くなった。


 湊さんが黙る。


「今のは例ですからね」


「わかっている」


「その間、何ですか」


「実際に言われると、想定より効く」


 今度は顔まで熱くなった。


 この人は時々、氷の部長の顔で、とんでもないことを落としてくる。


「湊さんも練習してください」


「何を」


「自分だけで決めずに、私に相談する言い方です」


 彼は少し考えたあと、私へ向き直った。


「明日の朝食は、仕事の都合上、別々に取るのが安全だと思う」


「はい」


「だが、俺は君と食べたい。どうする?」


 胸が跳ねた。


 ただの朝食だ。しかも同じホテルのレストランで、誰かに見られる可能性もある。恋人らしく向かい合うことはできないかもしれない。


 それでも、決めた答えを渡されるのと、一緒に考えるために差し出されるのとでは、同じ言葉でも温度が違う。


「時間を十五分ずらして入って、席も別にします」


「それでは一緒に食べられない」


「ビュッフェ台ですれ違えます」


「それだけか」


「コーヒーを取るとき、隣に立てます」


 湊さんは納得していない顔をした。


「不満ですか?」


「かなり」


「でも、仕事も守りたいです」


「ああ。俺もだ」


 全部を欲しがれないことは、少し寂しい。


 けれど、それを片方だけが我慢するのではなく、二人で決められたことが嬉しかった。


 ふと時計を見ると、ロビーへ下りてから二十分近く経っていた。


「五分では全然足りませんでしたね」


「だから言った」


「何分なら足りるかわからないとも言いました」


「今もわからない」


 湊さんが立ち上がる。私も続いて立った。


 エレベーターを待つ間、私たちは上司と部下の距離に戻る。ロビーを横切る人の目がある以上、仕方がない。


 やがて到着した箱に、二人で乗り込む。


 先に私の階へ着いた。


「おやすみなさい、部長」


 廊下に誰もいないことを確認し、それから小さく付け足す。


「湊さん」


「ああ。おやすみ、ひなた」


 閉じかけた扉の隙間から、彼の手が伸びた。


 一瞬だけ、私の指先を包む。


 触れた体温はすぐに離れ、扉が閉じた。


 仲直りは、劇的な言葉ひとつで終わるものではないのかもしれない。明日になれば、また遠慮して、また間違えるかもしれない。


 それでも、間違えたときに下りてきてくれる人だと知った。


 私も、もう反対側の箱へ逃げない。


 翌朝。


 約束どおり十五分遅れてレストランへ入った私は、受付で告げられた言葉に足を止めた。


「霧島様がお待ちです。こちらの二名席へどうぞ」


(第59話へ続く)

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