言葉にしてほしい
エレベーターの扉が閉じる直前、湊さんの顔が見えた。
追いかけてくる様子はなかった。
それを望んで反対側の箱に乗ったはずなのに、胸の奥がちくりと痛む。
いや、追いかけられたら追いかけられたで、「私の意思を尊重してください」と怒ったに違いない。面倒くさい。今の私は、我ながら相当面倒くさい恋人だ。
部屋に入ると、出張用のシングルルームは驚くほど静かだった。空調の低い音だけが、よそよそしく耳に残る。
ベッドの端に腰を下ろし、スマートフォンを確認する。
連絡はない。
ジャケットを脱いで、もう一度見る。
やっぱり、ない。
「別々に食べようって言ったのは、私だけど」
声に出すと、いっそう子どもじみて聞こえた。
湊さんは、私が選んだことを受け入れただけだ。それなのに、少しくらい引き留めてほしかったと思っている。
十二歳も上なのだから、言わなくても察してほしい。
そんな考えが浮かんで、私は枕へ額を押しつけた。
年の差を気にしているのは湊さんだけではない。私だって、都合のいいときだけ彼を「大人」にしている。三十八歳だから何でもわかるなんて、そんなわけがないのに。
十分ほどして、スマートフォンが震えた。
『夕食の件、了解した。明朝は八時にロビーで』
仕事の連絡みたいに簡潔だった。
いえ、実際に明日の仕事の連絡なのだけれど。恋人らしい一言を勝手に期待して、勝手に落胆するなんて、どんなひとり相撲だろう。
『わかりました』
打って、消す。
『承知しました』
もっと部下っぽくなったので、それも消した。
結局、『はい』とだけ返した。
すぐに既読がつく。画面を閉じるより早く、もう一通届いた。
『外へ出るなら雨が強い。傘を持っていけ』
また、それだ。
ちゃんと優しい。私が濡れないように、困らないように、傷つかないようにしてくれる。
でも今は、その優しさにまで苛立ってしまう自分が嫌だった。欲しい言葉はくれないくせに、必要なものだけは正確に差し出してくる。氷の部長は、恋人になっても不器用なくせに抜かりがない。
ホテルのレストランへ行く気にはなれず、私は折り畳み傘を持って外へ出た。
雨脚は昼より強くなっていた。道路に落ちた雨粒が、街の明かりを細かく揺らしている。傘を叩く音は、考えすぎる頭を空っぽにするにはちょうどよかった。
角を曲がった先のコンビニで、サンドイッチとスープを籠へ入れた。出張先の夕食としては、あまりにも味気ない。
プリンを追加しようか迷っていると、背後から低い声がした。
「それだけか」
振り向くと、湊さんが立っていた。
少し濡れた黒い髪。片手には、缶コーヒーとおにぎりが入った籠。人の夕食に口を出せる内容ではない。
「湊さんこそ、それだけですか」
「食欲がない」
「私もです」
恋人同士が別々に夕食を取ろうとして、同じコンビニで同じような食事を買っている。
笑える状況のはずなのに、笑えなかった。蛍光灯の白い光の下では、互いの気まずさまでくっきり見える気がした。
「店を取ってたんですよね」
「ああ。キャンセルした」
「すみません」
「謝る必要はない」
湊さんは冷蔵棚へ目を向けた。仕事中よりも固い横顔に見える。私と目を合わせないことが、かえって彼の落胆を伝えていた。
「引き留めないんですね」
口から出てしまった言葉に、自分で驚いた。
彼がこちらを見る。その視線を受け止めた途端、逃げたくなる。けれど、先に逃げたのは私だ。
「別々に食べたいと言ったのは、ひなただ」
「そうですけど」
「君が選べないと言ったから、選択を尊重した」
正しい。
正しすぎて、胸が苦しくなる。
「じゃあ、私が何を選んでも、湊さんは『そうか』って受け入れるだけですか」
「受け入れてほしくないのか」
「そういうことじゃなくて」
「なら、どういうことだ」
責める口調ではなかった。ただ、本当にわからないのだと伝わる声だった。
それが余計に悲しい。私が勝手に期待した答えを、彼はそもそも知らないのだ。
「私に決めさせることと、何も言わないことは、違います」
雨に濡れた客が自動ドアから入ってきた。冷たい風が足元を抜け、湿った空気の匂いがした。
「私は、湊さんに決めてほしいわけじゃありません。でも、湊さんがどうしたいかは、言ってほしいです」
湊さんが黙る。
その沈黙に耐えられなくなって、私はサンドイッチの籠を握り直した。指先に力が入り、薄い持ち手が食い込む。
「今日の夕食だって、私は別々にしたいって言いました。でも湊さんが、本当は一緒に食べたかったのか、これでほっとしたのか、私にはわかりません」
「ほっとするわけがない」
返事は、思ったより強かった。
心臓が跳ねる。周りの音が一瞬遠くなり、彼の声だけがまっすぐ胸に落ちた。
「なら、そう言ってください」
「言えば、君の選択に圧をかける」
「それを決めるのも、湊さんですか」
彼の眉がわずかに動いた。
また、言いすぎた。
けれど今ここで明るく笑ってごまかしたら、きっと同じことを繰り返す。言えないまま積み重ねたものが、いつか二人の間に越えられない壁を作るのは嫌だった。
「湊さんは、私のためだと思って、自分の気持ちを隠しますよね」
七年前もそうだった。
その言葉までは口にしなかった。今の話に、昔の傷を持ち出すのは違う気がした。過去を責めたいのではない。これからを変えたいのだ。
「私は、正解だけ渡されたいわけじゃありません。一緒に考えたいんです。迷ったり、困ったりするところも含めて」
湊さんは籠の中の缶コーヒーへ目を落とした。長い指が、籠の持ち手を静かに握り直す。
「俺は、一緒に考えるのが下手なんだろうな」
「知ってます」
「即答か」
「七年分、知ってますから」
彼の口元がほんの少し緩んだ。
つられて笑いそうになったけれど、胸の棘はまだ残っている。笑えば終わり、ではない。それでも、彼の表情がほどけたことに少しだけ安心した。
「でも、私も下手でした」
「何が」
「察してほしいって、勝手に期待してました。十二歳上だから、私より恋愛に慣れていて当然だって」
「残念ながら、期待には応えられない」
「それも知ってます」
「二度言うな」
今度は少しだけ笑えた。胸の奥に張っていた糸が、ようやく一本だけ緩む。
笑えたからといって、全部が元通りになったわけではない。
湊さんは私の籠を見て、スープの横に小さなサラダを入れた。
「せめて、これも食べろ」
「それ、また保護者みたいです」
彼の手が止まる。
「あ……」
「すまない」
「謝らなくていいです。サラダは食べます」
気遣いまで拒みたいわけではない。ただ、私が欲しいのは、守られるだけの場所ではないのだ。同じ目線で、彼の弱さも迷いも分けてもらえる場所にいたい。
会計を済ませて外へ出ると、雨はさらに激しくなっていた。
私が傘を開くより先に、湊さんの紺色の傘が頭上に広がる。雨音が少し遠のき、代わりに彼の体温を近くに感じた。
「ホテルまで一緒に入ってもいいか」
そんなことまで確認する彼に、胸がきゅっとなる。
「はい」
肩が触れそうで触れない距離を歩く。濡れたアスファルトに、二人分の足音が重なった。
彼は私を濡らさないように傘を傾けている。そのせいで、反対側の肩が雨を受けていた。でも、さっきまでなら黙ってしていたそれを、今日は途中で言葉にした。
「俺は、一緒に夕食を食べたかった」
雨音に消えそうな声だった。
「店も、ひなたが好きそうだと思って選んだ」
「はい」
「断られて、かなり落ち込んだ」
そこまで正直に言われると、私のほうが困る。頬が熱くなり、雨の冷たさがありがたかった。
「今、ちょっと嬉しいと思ったら、性格悪いですか」
「俺も、君が引き留めてほしかったと聞いて、少し嬉しかった」
「お互いさまですね」
「ああ」
短い返事なのに、傘の下の空気が少しだけ温かくなる。肩が一度だけ触れた。離れようとは思わなかった。
ホテルの軒下に着く。
傘が閉じられ、急に二人の間が明るくなった。近すぎた距離を意識して、私は紙袋を抱え直す。
ロビーのエレベーター前で、私たちはまた別々の階のボタンを押した。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
今度は逃げるように乗らなかった。扉が閉じるまで、湊さんもこちらを見ていた。
部屋へ戻り、サラダの蓋を開ける。少し話せた。お互いの気持ちも、さっきよりは見えた。
それでも、仲直りできたのかと聞かれたら、自信はない。
小さなケンカに、きれいな正解なんてないのかもしれない。正解を探すより、言葉が足りなかったときに、もう一度向き合えることのほうが大切なのだろう。
スマートフォンを手に取る。
迷った末、私は湊さんへメッセージを送った。
『明日の朝、仕事の話をする前に、五分だけ恋人として話したいです』
送信して三秒後、部屋の電話が鳴った。
静かな室内に響く音に驚きながら受話器を取ると、湊さんの低い声が耳元へ落ちた。
『五分では足りない。今からロビーへ下りる』
(第58話へ続く)




