新幹線、一席ぶんの距離
恋人と二泊三日の大阪出張。
文字だけ見れば、胸が躍る響きだ。
ただし現実は、月曜朝八時四十五分、企画部の定例ミーティングから始まった。
「関西支社との合同提案について、先方の参加者が増えた。三上は別案件と重なったため、結城に同行してもらう」
湊さん――ではなく霧島部長は、いつもどおり平坦な声で告げた。
私もいつもどおりの顔で「承知しました」と答える。
斜め前の席にいるあかねが、資料へ目を落としたまま、ペン先で小さく丸を描いた。あとで詳しく聞かせろ、の丸に違いない。
「結城さん、部長と三日間か。緊張しますね」
羽田くんが同情するように言う。
「仕事だからね」
「大阪支社の人、部長のこと怖がってるらしいですよ。初対面で企画書を十七か所直されたって」
「それは企画書のほうにも問題があったんじゃない?」
「もう部長側の発想になってる」
危ない。私は笑ってごまかした。
会議終了後、湊さんは全員へ追加資料を配り、私には新幹線とホテルの行程表を渡した。
新幹線は同じ車両。ホテルも同じ。
もちろん、部屋は別。
そこにがっかりするほど浮かれてはいない。いないけれど、同じホテルという四文字を二回見てしまったことは認めよう。
「結城、十時に部長室へ」
「はい」
扉の閉まった部長室で二人きりになっても、彼の表情は変わらなかった。
「今回、先方への説明は俺が中心に行う。結城は補足と議事録を頼む」
「私の担当ページは?」
「質疑が多くなる可能性がある。こちらで引き取る」
「でも、生活者向け施策は私が作った部分です」
「資料を作ったことと、対外説明は別だ」
冷静な正論だった。
けれど、胸の奥に小さな棘が刺さる。
「私では不安ですか」
「そうは言っていない」
「では、どうしてですか」
湊さんは一瞬黙った。彼が動揺したときの間だと、今の私は知っている。
「大阪支社は初めてだろう。先方の役員も来る。無理に負担を増やす必要はない」
無理に。
負担を増やす必要はない。
言葉だけなら、私を気遣ってくれている。恋人になったから甘やかしているわけではなく、部下の経験を見て判断しただけかもしれない。
それでも私は、素直に頷けなかった。
「わかりました」
口から出たのは、逃げるための丁寧な返事だった。
湊さんの眉がわずかに寄ったけれど、彼はそれ以上何も言わなかった。
出張当日の朝、東京駅は通勤客と旅行客で混み合っていた。
私は待ち合わせの十五分前に着いたのに、湊さんはもう改札前に立っていた。濃紺のスーツに黒いコート、足元には小さなキャリーケース。休日の柔らかい服装を知ったあとだと、仕事の彼がいつも以上に遠く見える。
「おはようございます」
「おはよう。荷物はそれだけか」
「はい」
私のキャリーケースへ手を伸ばしかけた彼が、途中で止める。周囲には同じ会社の人はいない。それでも、私が自分で持てると言ったことを覚えているのだろう。
「重くないか」
「大丈夫です」
「そうか」
昨日から、私たちの会話は『大丈夫』と『そうか』ばかりだ。
ホームに上がると、冷たい風が吹き抜けた。湊さんが私を風上からかばう位置に立つ。優しさはちゃんとあるのに、どうして私はこんなに意地を張っているのだろう。
新幹線へ乗り込み、指定された席を探す。
十四号車、七番。
私が窓側のA席で、湊さんは通路を挟んだC席だった。
「あれ、隣じゃないんですね」
思わず言ってから、しまったと思う。
「並びでは取れなかった」
「そうですよね。直前の変更でしたし」
別に隣でなくても仕事はできる。むしろ会社の人間としては、これくらいの距離が自然だ。
けれど、通路一席ぶんが妙に広い。
列車が動き出すと、湊さんはすぐノートパソコンを開いた。私も資料を出し、担当ページの想定質問を書き始める。
説明を任されなくても、準備をしない理由にはならない。
三十分ほど経ったころ、ワゴン販売で買ったコーヒーが机に置かれた。
「ありがとうございます」
「砂糖は入れていない」
「知ってます」
七年前から、と続けそうになって飲み込む。
紙カップの熱が指先へ伝わる。湊さんは何か言いたそうに私を見たものの、車内アナウンスに遮られ、また画面へ視線を戻した。
大阪へ着くまで、私たちはほとんど話さなかった。
到着後は地下鉄へ乗り換え、関西支社へ向かった。初めて訪れるフロアは活気があり、東京より電話の声も笑い声も大きい。
応接室へ案内されると、予定になかった取締役が二人加わっていた。
説明は湊さんが進めた。無駄がなく、質問への答えも速い。私は補足資料を開いたまま、出番を待った。
「この施策、三十代向けにしては少し若すぎませんか」
先方の取締役が、私の担当ページを指した。
湊さんが口を開くより先に、私は背筋を伸ばした。
「若く見せることを目的にした施策ではありません」
全員の視線が私へ集まる。
「家事や育児で自分のための時間が減った層に、短時間で選べる楽しさを提案しています。年齢ではなく、可処分時間を基準に設計しました」
準備していた調査データを示す。取締役は数秒グラフを見たあと、身を乗り出した。
「なるほど。では、時間帯ごとの導線も説明できますか」
「はい」
そこから十分間、質問は私に集中した。
緊張はした。でも怖くはなかった。自分で作った企画だ。私の言葉で説明できる。
会議が終わると、先方の担当者が「現場感があってわかりやすかったです」と声をかけてくれた。
嬉しさを抱えたままエレベーターへ乗る。扉が閉まり、二人きりになったところで、湊さんが言った。
「よく準備していた」
「ありがとうございます」
「担当を外した判断は、俺の間違いだった」
意外な言葉に顔を上げる。
「部下を守ることと、機会を奪うことを混同した」
エレベーターの数字が一つずつ減っていく。
「恋人だからですか」
尋ねると、彼はすぐには答えなかった。
「それも、ある」
ごまかさない返事だった。
「十二歳上だから、私を守らなきゃと思います?」
「年齢だけじゃない。俺は、ひなたが傷つく可能性を先に潰したくなる」
「でも、それだと私、何も選べません」
「ああ」
彼の低い声が、狭い箱の中へ落ちる。
「悪かった」
謝られたのに、胸の棘は完全には抜けなかった。
この人は本気で私を大切にしようとしている。そして本気だからこそ、ときどき私の代わりに決めてしまう。
一階に着き、扉が開く。
外は雨だった。
湊さんが紺色の折り畳み傘を開く。私はその下へ入り、触れそうな肩を意識しながらホテルまで歩いた。
チェックインを終え、並んだエレベーターの前で、彼が腕時計を見る。
「荷物を置いたら、十九時にロビーで。近くに店を取ってある」
仕事のあとの二人きりの夕食。
昨日までなら、きっと嬉しかった。
けれど今ここで恋人の顔に戻ったら、さっきの違和感まで飲み込んでしまいそうだった。
私はルームキーを握り直した。
「今夜は、別々に食べませんか」
口にした瞬間、到着した二台のエレベーターが同時に扉を開いた。
私は湊さんの返事を待たず、彼とは反対側の箱へ乗り込んだ。
(第57話へ続く)




