二度目のデートは、写真の中で
日曜日の朝、鏡の前で三回着替えた。
一度目は頑張りすぎに見えて、二度目は会社帰りに見えて、三度目は何を着ても湊さんに会う私にしか見えなくなったので、諦めて薄い水色のニットにベージュのスカートを合わせた。
恋人になって二度目のデート。
しかも、今回は彼から誘ってくれた。
その事実だけで、待ち合わせ場所までの電車が一駅進むたび、胸の中に小さな花火が上がる。落ち着け、二十六歳。写真展に行くだけだ。浮かれてホームから落ちるな。
会場は、会社から四駅離れた美術館だった。
駅前の時計台の下に立つ湊さんは、濃紺のコートにグレーのマフラーを巻いていた。休日なのに背筋が伸びていて、遠目には待ち合わせ中の人というより、待ち合わせ場所を監督する人に見える。
「お待たせしました」
「いや。俺も今来た」
絶対に嘘だ。
湊さんは、待ち合わせの十五分前には着く人だ。腕時計を確かめるふりをしながら、私は彼の右手を見た。
「ガーゼ、取れたんですね」
「ああ。もう問題ない」
「見せてください」
反射的に手を差し出したあとで、ここが駅前だと思い出した。
湊さんも一瞬だけ黙る。
会社の人がいる可能性は低い。でも、ゼロではない。恋人なら自然な仕草が、私たちにはまだ自然にできない。
「中で」
短く言って、彼は美術館を示した。
断られなかったことに、頬が緩みそうになる。私は真面目な顔を作って隣を歩いた。
休日の彼と並ぶのは、まだ慣れない。
会社では斜め前にいる人。会議室ではテーブルを挟む人。エレベーターでは一歩離れる人。
その人が今、私の歩幅に合わせている。
それだけで、二人の間に見えない秘密が揺れているようだった。
写真展のテーマは『東京、雨の記憶』。
濡れた高架下、曇った喫茶店の窓、傘の群れが行き交う交差点。光の少ない写真ばかりなのに、どれも不思議と温かい。
一枚ずつ見ていくうちに、私たちの足が同じ写真の前で止まった。
大学の古い校舎と、軒先に立つ一人の女性。顔は傘に隠れていて、足元に雨水が跳ねている。
「懐かしいですね」
「ああ」
「私たちの大学も、雨の日はこんな感じでした」
七年前の雨が、薄暗い展示室の中にそっと混ざる。
紺色の傘を借りた日。
好きだと伝えて、応えられないと言われた日。
あの頃の私は、七年後にこの人と並んで雨の写真を見るなんて、想像もしていなかった。
「写真サークルにいた頃、こういう写真を撮りたかったんです」
「撮っていただろう」
「覚えてるんですか?」
「一度、講評会に出していた。雨上がりの自転車置き場」
私は隣の横顔を見上げた。
自分でも忘れかけていた写真だ。水たまりに映る自転車を撮ろうとして、靴をびしょ濡れにした。
「よく覚えてますね」
「覚えている」
迷いのない声だった。
七年前、覚えていないふりをした人が、今は一つずつ記憶を返してくれる。
胸の奥が温かくなって、同時に少しくすぐったい。
「講評は厳しかったですけど」
「何と言った?」
「構図が欲張りすぎだって」
「今の企画書にも同じ傾向があるな」
「休日まで部長にならないでください」
小声で抗議すると、彼の口元がほんの少し緩んだ。
「すまない」
「謝るなら、恋人らしい感想をください」
言ってから、自分で耳が熱くなった。
展示室には人がいる。誰も私たちを気にしていないのに、恋人という言葉だけが必要以上に響いた気がした。
湊さんは写真ではなく、私を見る。
「昔から、雨の日の写真だけは明るかった」
「それ、感想ですか?」
「褒めている」
「わかりにくいです」
「努力する」
真顔で言われて、笑いそうになった。
この人はきっと、恋人になったからといって急に器用にはならない。私も、恋人になっただけで臆病ではなくなるわけではない。
だから二度目があるのだ。
名前を呼ぶのも、隣を歩くのも、好きだと受け取るのも。一度で上手にできなくても、もう一度試せばいい。
展示の最後には、来場者が気に入った写真へ投票するコーナーがあった。
私たちは別々に番号を書き、同時に投票箱へ入れた。
「何番にしました?」
「言ったら投票の意味がない」
「もう入れたからいいじゃないですか」
「結城は?」
「休日です」
一瞬、彼がまばたきをする。
「……ひなたは?」
低い声で名前を呼ばれただけで、胸が忙しくなる。会社では絶対に聞けない響きだと思うと、たった四文字が特別になる。
「十二番です。大学みたいな校舎の写真」
「俺もだ」
「投票の意味、ありましたね」
「ああ」
同じものを選んだ。それだけなのに嬉しくて、私は投票箱の横で笑った。
美術館を出ると、空はいつの間にか薄い雲に覆われていた。
近くの喫茶店に入り、窓際の二人席へ向かう。湊さんが椅子を引こうとしたので、その前に私は向かい側へ座った。
「それくらい自分でできます」
「そうか」
少し拍子抜けしたような顔がおかしい。
メニューを開くと、季節限定の苺パフェが大きく載っていた。おいしそう。でも、デートで大きなパフェを一人で食べるのは子どもっぽいだろうか。
「コーヒーにします」
「パフェは?」
「え」
「三回見ていた」
数えていたのか。
「でも、結構大きいので」
「俺も食べる」
「甘いもの、好きでしたっけ」
「得意ではない」
「無理しなくても」
「ひなたが食べたいなら頼めばいい」
さらりと言われて、心臓が跳ねる。
店員さんにパフェ一つとコーヒー二つを注文したあと、私はテーブルの下でそっと手を握った。湊さんの言葉はいつも短いくせに、ときどき不意打ちで甘すぎる。
「そうだ。手」
駅前での約束を思い出し、私はテーブルの上へ手のひらを向けた。
湊さんが右手を差し出す。赤みは少し残っているが、もう痛々しさはなかった。
「本当に大丈夫そうですね」
指先で触れそうになって、止める。
ここは会社ではない。でも、私たちしかいない場所でもない。
迷っていると、彼の右手が動いた。
私の人差し指を、二本の指でそっと挟む。
ほんの一秒。
すぐに離れた体温が、触れていた場所に残った。
「確認できたか」
「……はい」
たぶん今、苺より私のほうが赤い。
運ばれてきたパフェには、スプーンが二本添えられていた。私が上の苺を食べ、湊さんは下の甘さ控えめなクリームを少しだけすくう。
会社では隠さなければならない私たちが、一つのパフェを分けている。
誰にも言えない。でも、誰にも見せなくても、ちゃんと恋人なのだ。
帰り道、細い雨が降り始めた。
湊さんが折り畳み傘を開く。黒ではなく、紺色だった。
私は何も言わず、その下へ入った。
肩が触れそうで触れない。歩道を自転車が通るたび、彼の手が私の背中の近くへ来て、触れる前に離れる。
駅の入口が見えたところで、私は立ち止まった。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「次は私から誘ってもいいですか」
湊さんは少し驚いたように目を開いた。
誘われるのを待つだけにはなりたくない。年下だからと甘えるだけでも、部下だからと従うだけでもなく、私もこの恋を進める側でいたい。
「行きたい店を探しておきます」
「ああ。楽しみにしてる」
雨音の下で交わした約束が嬉しくて、私は傘から出ないまま一歩後ろへ下がった。
そのとき、彼のスマートフォンが鳴った。
画面を確認した湊さんの表情が、仕事の顔に変わる。
「三上からだ」
電話に出た彼は、短く相槌を打ったあと、私を見た。
「わかった。明朝、本人にも伝える」
通話が切れる。
「何かありましたか?」
「来週の出張担当が変更になった」
「誰に?」
湊さんはスマートフォンをコートへしまい、はっきり告げた。
「俺と、ひなただ。三日間、大阪に行く」
(第56話へ続く)




