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こぼれた名前

 しまった。


 腕をつかんだまま、私は固まった。


 湊さんの右手から、コーヒーが床へ落ちていく。紙コップが跳ね、茶色い雫が会議室の白い床に散った。転がる乾いた音だけが、静まり返った室内にやけに大きく響く。


 さっきまで企画書をめくる音や、小さな咳払いが聞こえていたはずなのに、今は誰も息をしていないみたいだった。


 今、私は何と呼んだ?


 いや、確認するまでもない。


 完璧に、明瞭に、恋人の名前を呼んだ。


 霧島部長でも、部長でもない。


 湊さん、と。


 頭の中でその三文字が反響する。できることなら五秒前の私の口を両手で塞ぎたい。でも、時間は戻らない。床へ落ちたコーヒーと一緒に、隠していた関係の端っこまでこぼれてしまった。


「結城さん」


 あかねの声で我に返った。


「手、冷やしたほうがいい。給湯室」


「そ、そうだよね」


 私は湊さんの腕を離した。つかんでいた場所だけ、自分の手のひらに熱が残っている。シャツ越しに伝わった体温が、今になって遅れて心臓を叩いた。


「部長、こちらへ」


 今さら役職を足しても遅い。覆水は盆に返らないし、コーヒーは紙コップにも返らない。


「大丈夫だ」


 湊さんはいつも通りの低い声で言った。眉ひとつ動かしていない。けれど、右手の甲は目に見えて赤くなっていた。


「大丈夫じゃありません。赤くなってます」


 また即答してしまった。


 隣で羽田くんが目を瞬かせる。若手社員たちの視線が、湊さんの手と私の顔の間を往復している。三上さんは床に落ちた紙コップを拾いながら、冷静に口を開いた。


「霧島部長、大丈夫かどうかは冷やしてから判断してください。結城さん、連れていって」


「はい」


 救われた。


 さすが三上さん。仕事ができる人は、こぼれたコーヒーだけでなく、こぼれた秘密まで素早く処理してくれる。


 けれど、会議室を出ようとしたところで、背後から声がした。


「結城さん、部長と前から知り合いなんですか?」


 若手社員の素朴な疑問が、背中に刺さる。


 どう答えるべきか迷った一秒の間に、湊さんが振り返った。


「大学時代の知人だ」


 会議室が、もう一度静かになった。


「写真サークルの先輩と後輩だった。入社時に私から申告し、業務上の評価に影響させないことも人事と確認している」


 よどみのない説明だった。


 嘘ではない。


 でも、全部でもない。


 七年前、写真サークルで出会ったことも。再会してから少しずつ距離を縮め、今は会社の外で名前を呼び合っていることも。


「これまで話さなかったのは、仕事に不要な私事だからだ。それ以上でも以下でもない」


 氷の部長の声で言い切られると、質問を重ねられる人はいなかった。いつもの冷静さが、今日は私を守る壁になっている。


 私は小さく頭を下げ、今度こそ湊さんを給湯室へ連れていった。


 蛇口の水を出し、彼の右手を流れの下に差し入れる。透明な水が赤くなった皮膚を滑り、指先から落ちていく。コーヒーの甘く焦げた匂いと、冷たい水の匂いが狭い室内に混じっていた。


「痛みますか」


「少し熱い程度だ」


「それを大丈夫とは言いません」


「結城」


「はい」


「顔が青い」


「誰のせいだと思ってるんですか」


 思わず睨むと、彼は一瞬だけ黙った。


 会社の給湯室。扉の向こうには同僚たち。薄い壁一枚隔てた向こうで、きっと今ごろ何人かが小声で話している。ここで恋人の顔をするわけにはいかない。


 わかっているのに、声が震えた。


「火傷もですけど……名前」


「ああ」


「すみません。気をつけるって言ったばかりなのに」


「熱いものがかかった人間を心配した。それだけだ」


「でも、秘密にするって決めたのに」


 冷たい水音が、狭い室内を満たしている。


 湊さんは濡れていない左手で蛇口を少し絞った。跳ねていた水が落ち着く。その指の動きさえ普段通りで、慌てているのが私だけみたいで悔しい。


「秘密にすることと、君一人に責任を負わせることは違う」


「一人でって……」


「呼ばせたのは俺だ」


 七年前には呼べなかった名前を、会社の外では呼んでほしいと言ったのは彼だ。


「だから、さっきの説明は俺の責任だ。君が謝る必要はない」


 そういうところが、ずるい。


 仕事中はあんなに冷たい顔をしているのに、二人きりになると、私が一番欲しい言葉を短く渡してくる。余計な飾りがないぶん、まっすぐ胸の奥へ届いてしまう。


「……怒ってませんか」


「何に」


「会社で名前を呼んだこと」


 湊さんは答える前に、いつものようにほんの少し黙った。水に濡れた横顔を見上げると、彼の視線が私へ向く。


「困りはした」


「やっぱり」


「嬉しくなかったとは言っていない」


 心臓が、冷水と正反対の温度になる。


 そんな目で、そんな静かな声で言うのは反則だ。扉の向こうに同僚がいることまで、一瞬忘れそうになる。


「そういうこと、ここで言わないでください」


「聞いたのは君だ」


「部長は時々、正論の使い方が卑怯です」


「覚えておく」


 たぶん、直す気はない。


 十分ほど冷やしたあと、念のため医務室で診てもらった。幸い軽い火傷で、薬を塗れば問題ないと言われた。説明を聞いてようやく息を吐いた私を見て、湊さんは何も言わなかった。ただ一度だけ、困ったように目を細めた。


 午後、フロアへ戻ると、何人かの視線がこちらへ向いた。


 私は自分の席に座り、パソコンを開く。いつも通りのふりをしてキーボードへ指を置いたけれど、画面の文字がなかなか頭へ入ってこない。


「大学の知り合いだったんですね」


 隣から羽田くんが小声で話しかけてきた。


「うん。写真サークルの先輩」


「全然そんな感じしなかったです」


「会社では部長と部下だから」


 用意された模範解答みたいな言葉が、自分の口から出た。


 羽田くんは「なるほど」と頷き、それ以上は聞かなかった。その素直さがありがたくて、同時に少しだけ申し訳ない。


 斜め前では、湊さんが左手だけで書類をめくっている。右手には白いガーゼが巻かれていた。紙を押さえにくそうにするたび、胸がまた痛む。


 けれど今度は、見ないふりをしなかった。


 仕事をする彼を、ほんの一秒だけ見た。


 目が合う。


 すぐに逸らそうとした私より先に、彼が口を開いた。


「結城。修正版は」


「できています」


 私は立ち上がり、資料を持って彼の席へ向かった。


「購買層ごとに母数をそろえ、補正値を追加しました」


「確認する」


 彼は資料を受け取り、いつもの厳しい目で数字を追った。私情を挟む隙など一ミリもない横顔に、安心と不満が半分ずつ湧く。


「二ページ目、この注釈は不要だ」


「でも、条件の違いを明記したほうが」


「表を見ればわかる。説明が多いと主張がぼやける」


「初見の人には必要です」


「なら一行に縮めて」


「……承知しました」


 容赦がない。


 火傷を心配した一時間後に、企画書をばっさり切られる恋人とは。


 胸の中で文句を言いながらも、少しだけ肩の力が抜けた。彼が私をいつも通り評価してくれることは、秘密を守るためだけではなく、私たちが対等に仕事をするために必要なのだ。


 席へ戻る途中、あかねと目が合った。彼女は口元を隠しながら、付箋に素早く文字を書いて私の机へ貼った。


『通常運転、合格』


 その下に小さく、『名前以外』とある。


 私は付箋を丸めて、そっと引き出しへ入れた。顔が熱い。火傷をしたのは湊さんのはずなのに、どうして私までこんなに熱いのだろう。


 定時を過ぎても、社内の空気はいつも通りだった。


 噂になっていないとは言い切れない。でも、私たちが仕事を続ける限り、今日一日の失敗だけで何かが決まるわけではない。


 隠すために不自然に離れるのではなく、仕事では正しく向き合う。


 それがたぶん、私たちにできる一番自然な隠し方なのだ。


 退社後、私は会社から一駅離れたホームのベンチに座っていた。


 夜の空気は冷たく、線路の向こうから湿った風が吹いてくる。十分遅れて現れた湊さんは、私の隣ではなく、ひとつ空けた場所に腰を下ろした。人目を避けるための距離が、今日は少しだけ寂しい。


「手、本当に大丈夫ですか」


「医務室でも聞いた」


「私は聞いてません」


「大丈夫だ」


 今度の答えは、少しだけ柔らかかった。


 電車が一本、目の前を通り過ぎる。轟音と一緒に風が吹き抜け、私の髪を揺らした。彼が左手をわずかに上げかけ、けれど触れずに下ろす。そのためらいを見つけただけで、胸の奥が甘く疼く。


「今日、会社で湊さんって呼んだとき」


「ああ」


「考える前に出ました」


「そうだろうな」


「次は気をつけます」


 彼はしばらく黙ってから、ガーゼを巻いた右手を膝の上に置いた。


「会社では、そうしてくれ」


「はい」


「その代わり」


 左手が、空けていた座席の上に置かれる。


 指先がこちらを向いていた。


「ここでは、我慢しなくていい」


 私は周囲を確認した。帰宅時間を過ぎたホームには、少し離れた場所に二人いるだけだ。


 一席ぶんの距離を埋める代わりに、私は自分の左手をベンチの上へ置いた。


 指先と指先だけが触れる。


 手をつなぐよりずっと小さな接触なのに、彼の体温が触れた一点から広がっていく。呼吸が浅くなり、今日一日抱えていた不安が、少しずつほどけていった。


「湊さん」


「うん」


 名前を呼ぶと、今度は正しく返事があった。


 会社ではこぼしてしまった名前を、ここでは自分の意思でもう一度口にする。その違いが、どうしようもなく嬉しかった。


 やがて電車の到着を知らせる音が鳴り、私たちは同時に手を離した。


 立ち上がった彼が、左手でコートのポケットから二枚の紙を取り出す。


「日曜、空いているか」


 差し出されたのは、写真展の前売り券だった。


「今度は俺から誘う。二度目のデートに」


(第55話へ続く)

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