親友にだけ、秘密
あかねから届いた二通のメッセージを前に、私は玄関で固まった。
コートも脱いでいない。靴も片方しか脱げていない。
なのに、背中には冷たい汗が流れていた。
『ひなたの約束って、部長だった?』
文字はたった十六文字。
どうして尋問状に見えるのだろう。
落ち着け、私。
あかねが見たのは「灯」の前にいた湊さんだけだ。私と一緒にいたところではない。しかも、私たちが食事をしたのは別の洋食店だ。
つまり、まだ何も確定していない。
偶然です。
知りませんでした。
部長にもプライベートはあります。
頭の中には、模範解答が三つも浮かんだ。
けれど、どれも送れない。
嘘をつくのは簡単だ。たぶん、あかねもそれ以上は追及しない。
ただ、その嘘は会社に対してつくものとは違う。
いちばん近くで私の片想いを見て、逃げるたびに背中を押してくれた親友に、ようやく叶った恋を隠すための嘘だ。
嬉しいはずの秘密が、急に胸の中で重くなった。
スマートフォンがもう一度震える。
『違ったらごめん。今日はもう聞かない』
追及しないところが、あかねらしい。
だから余計につらい。
私は入力欄に『違うよ』と打ち、しばらく見つめてから全部消した。
『明日、会える?』
返事はすぐに来た。
『十一時。いつものカフェ』
そのあとに、猫が親指を立てているスタンプがついた。
私はようやく両方の靴を脱いだ。
恋人になって初めてのデートを終えた夜なのに、余韻に浸る時間が短すぎる。
現実は、恋愛漫画ほど空気を読んでくれない。
湊さんに帰宅の連絡をすると、すぐに電話がかかってきた。
『何かあったか』
「どうしてわかるんですか」
『文末に句点が三つあった』
「句点で診断されてる……」
『それで?』
短い問いに、私は観念した。
「あかねに、湊さんを見られました。私と一緒のところではないんですけど、たぶん気づかれてます」
電話の向こうで、わずかな沈黙が落ちた。
『結城は、どうしたい』
会社では聞けない、低くて静かな声だった。
「話したいです。あかねには」
『なら、話せばいい』
「でも、秘密にするって決めたのに」
『社内で公表しないと決めた。誰にも言うなと命令した覚えはない』
「命令って」
『俺は上司でもある。そこは曖昧にしたくない』
湊さんは、恋人になってからも、何度も私の意思を確かめる。
七年前、一人で決めたことを悔やんでいるからだろうか。
それとも、今の私たちが上司と部下でもあるからだろうか。
たぶん、どちらもだ。
『ただし、来栖に負担をかけることになる』
「はい」
『秘密を知れば、職場で知らないふりをさせることになる。そのことも含めて、結城が頼むんだ』
「……はい」
優しいだけではない。でも、その厳しさは私から選ぶ権利を奪わない。
「湊さん」
『何だ』
「今日、楽しかったです」
電話越しに、小さく息を吐く音がした。
『俺もだ』
「それだけですか?」
『次は、もう少し近い席の店にする』
顔が熱くなる。
恋人になった湊さんは、やっぱり不意打ちが多い。
翌朝、いつものカフェに着くと、あかねは窓際の席でミルクティーを飲んでいた。
私が向かいに座っても、急かさない。
「ごめん。待った?」
「七分。誤差」
「その言い方、部長みたい」
「はい、今のでだいたいわかった」
「まだ何も言ってない!」
「休日の朝一番に男の口癖が出る女は、だいたい何かあるのよ」
恋愛偏差値の高い既婚者は怖い。
私は運ばれてきたカフェラテに手を伸ばした。カップは温かいのに、指先が落ち着かない。
「あかね」
「うん」
「私、霧島部長と付き合ってる」
言った。
言ってしまった。
会社の外で湊さんを名前で呼ぶより、ずっと勇気が必要だった。
あかねは目を見開いたまま、三秒ほど動かなかった。
それから両手で顔を覆った。
「……声出していい?」
「できれば小さめで」
「いつから!?」
十分に大きい。
私は慌てて身を乗り出した。
「昨日が初デート。付き合い始めたのは、その前」
「ちょっと待って。告白は? どっちから?」
「そこは今度で」
「手はつないだ?」
「今度で!」
「つないだ顔してる」
「手をつないだ顔って何!?」
声を抑えているせいで、二人そろって妙な早口になる。
ひとしきり質問を浴びせたあと、あかねはふっと黙った。
そして、少しだけ困った顔をした。
「そっか。よかったね、ひなた」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
七年前に振られたことも、再会して揺れたことも、あかねは知っている。
何度も「もう好きじゃない」と言い張った私を、一度も笑わなかった。
「……うん」
「泣く?」
「泣かない」
「私はちょっと泣きそう」
「どうしてあかねが」
「長かったから」
その言葉に、私たちは少しだけ笑った。
私は、社内では秘密にしたいことを伝えた。上司と部下である以上、仕事に余計な疑いを持ち込ませたくないこと。評価にも、周囲の目にも影響させたくないこと。
あかねは真面目に聞き、最後に頷いた。
「わかった。誰にも言わない」
「ごめん。知らないふりをさせることになる」
「それは私が決めること。ひなたが勝手に申し訳ながらない」
湊さんと同じことを言われた。
私の周りには、私より私の悪い癖に詳しい人が多すぎる。
「でも、ひとつだけ忠告」
あかねが人差し指を立てた。
「隠してる人ほど、不自然に離れるからね」
「不自然に?」
「今まで普通に話してたのに、急に目を合わせなくなるとか。二人だけ敬語が硬くなるとか。逆に、恋人しか知らないことをうっかり口にするとか」
「そんな初歩的な失敗はしないよ」
「昨日まで部長からの電話だけで耳を真っ赤にしてた人が?」
「……努力します」
週明けの月曜日。
私はあかねの忠告を胸に出社した。
湊さんには必要以上に近づかない。見つめない。声に反応しすぎない。
その結果、午前十時の時点で肩が凝った。
「結城さん、ロボットみたいな歩き方になってるけど」
コピー機の前で、あかねが小声で言う。
「通常運転です」
「目も泳いでる」
「海を感じてるだけ」
「オフィスで?」
やはり、秘密の恋人は難易度が高い。
十一時からの企画会議では、湊さんは完全にいつもの部長だった。
資料の数字を確認し、曖昧な表現を指摘し、羽田くんの案には修正点を三つ挙げる。私の企画にも容赦はない。
「結城、この根拠は」
「昨年度の購買データです。三ページ目に比較表を入れています」
「母数が違う。補正した数値も出して」
「はい」
冷静に答えながら、少しだけ安心した。
仕事の場で、私たちは変わらない。
恋人になったから甘くされたいわけではない。私の企画は、私の仕事として見てほしい。
会議が終わり、資料を集めていると、湊さんが私の横を通った。
「午後三時までに修正版を」
「承知しました、部長」
完璧だ。
あかねを見ると、わずかに親指を立てている。
これなら隠せる。
そう思った直後だった。
会議室の出口で、後ろから来た社員と湊さんの肩がぶつかった。
彼が持っていた紙コップが傾く。
熱いコーヒーが、湊さんの右手にかかった。
「湊さん!」
考えるより先に、私は彼の腕をつかんでいた。
会議室に残っていた全員の動きが、ぴたりと止まった。
(第54話へ続く)




