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初デートは、二駅ぶん遠回り

 鳴っている。


 デスクの上で、私の恋人からの電話が、堂々と鳴っている。


 もちろん、周囲の人にとっては恋人ではない。企画部長だ。退社したはずの上司が、約束があると告げた部下へ、勤務時間外ぎりぎりに電話をかけている。


 どう見ても仕事の連絡である。


 どうして私だけ、心拍数が仕事を放棄しているのだろう。


「出ないの?」


 あかねに言われ、私は慌ててスマートフォンを取った。


「出る。仕事かもしれないから」


「部長からだもんね」


「うん。部長だから」


 部長を強調するほど怪しい。


 私は通話ボタンを押しながら、足早にフロアを出た。廊下の角を曲がり、誰もいないことを確かめてから声を落とす。


「はい、結城です」


『今、会社を出たか』


 低い声が耳のすぐそばで響く。


 たったそれだけで、七年間も遠かった人が、急に近い。


「これからです。あかねに一緒に帰ろうって言われて」


『そうか』


 一瞬の沈黙。


「どうしました?」


『店を変える』


「え?」


『来栖さんが駅前へ行くなら、「灯」の前を通る可能性がある』


 そこまで考えて電話をくれたらしい。


 私は廊下の壁に背中を預けた。初デートの待ち合わせ場所を、恋人の機転で変更する。甘いような、完全に逃走計画のような。


「でも、湊さんはもう着いてますよね」


『近くにいる。問題ない』


「どこに変えますか?」


『二駅先。北口の改札で七時二十分』


 迷いのない指示だった。


 さすが部長。秘密の交際にも進行管理が行き届いている。


「わかりました」


『結城』


「はい」


『急がなくていい。走るな』


 七年前と同じだ。


 雨の日、濡れた石段を駆け下りようとした私にも、彼はそう言った。


 胸の奥が、じわりと温かくなる。


「はい。走りません」


『あと』


 湊さんが、珍しく言いよどんだ。


『会社を出たら、かけ直してくれ』


「どうしてですか?」


『声が聞きたい』


 通話が切れた。


 私はしばらく、暗くなった画面を耳に当てたまま立っていた。


 今のは反則ではないだろうか。


 氷の部長が、不意打ちでそんなことを言っていいのだろうか。社内規定のどこかに禁止事項として書いておいてほしい。心臓の安全管理上、必要だ。


 フロアへ戻ると、あかねが鞄を肩に掛けて待っていた。


「仕事?」


「うん。待ち合わせ場所の変更」


 答えてから、しまったと思った。


 あかねの眉が上がる。


「部長が、ひなたの待ち合わせ場所を変更するの?」


「違う。部長からは仕事の電話で、そのあと約束してる相手から連絡が来てて」


「いつ?」


「えっと……同時くらい」


 人はやましいことがあると、こうして自分から穴を掘るのだ。


 私は笑ってごまかし、エレベーターに乗った。あかねは追及しなかったけれど、鏡張りの扉に映る私は、耳まで赤い。


 一階で別れ、外へ出てから約束どおり電話をかける。


『出たか』


「はい」


『来栖さんは?』


「駅前のお店に行きました」


『なら、そのまま電車に乗って』


「湊さんは?」


『もう移動してる』


 駅までの道を歩きながら、電話越しに話す。内容は待ち合わせの確認だけなのに、誰にも聞かれないように小声で交わす会話が、妙にくすぐったい。


「これ、初デートですよね」


『そのつもりだ』


「なんだか逃亡している気分です」


『悪い』


 声が少し沈んだ。


 私はすぐに言葉を足す。


「嫌だとは言ってません。二駅ぶん長く、楽しみにできるので」


 また沈黙が落ちた。


 でも今度の沈黙は、冷たくない。


『そういうことを、平然と言うな』


「平然とは言ってません。今、ものすごく赤いです」


『……見たかった』


 今度は私が黙る番だった。


 恋人になった湊さんは、会話の途中に心臓を止める言葉を置いてくる。


 しかも本人に、その破壊力の自覚がなさそうなのが怖い。


 二駅先の北口改札に着くと、湊さんは柱のそばに立っていた。


 紺色のコート。仕事用の黒い鞄。会社で毎日見ている姿なのに、待ち合わせをしているだけで別人に見える。


 彼も私に気づいた。


 けれど、すぐには近づいてこない。周囲を一度確認してから、ゆっくりこちらへ歩いてくる。


「お疲れさまです、部長」


 癖でそう言うと、湊さんの足が止まった。


「ここでも部長か」


「あ」


「会社の外だ」


 言われて、私は周囲を見回した。知っている顔はいない。


「お疲れさまです、湊さん」


「うん」


 短い返事なのに、目元がわずかにほどける。


 それだけで、二駅ぶん遠回りした価値があった。


 連れていかれたのは、商店街の奥にある小さな洋食店だった。磨かれた木のテーブルと、白い紙のメニュー。隣の席では老夫婦が静かにグラタンを分けている。


「ここ、よく来るんですか?」


「昔、近くに住んでいた」


「初めて聞きました」


「聞かれてない」


「では、今日はたくさん聞きます」


 私が言うと、湊さんは水のグラスを持ち上げる手を止めた。


「尋問か」


「初デートです」


「……そうだった」


「忘れないでください」


「忘れてない。緊張してるだけだ」


 危うくメニューを落としかけた。


「湊さんも、緊張するんですか?」


「する」


「全然見えません」


「見せないようにしてる」


 氷の部長は、氷でできているわけではない。


 知っていたはずなのに、その内側の温度を自分だけに教えられると、胸がいっぱいになる。


 私はハンバーグを、湊さんはビーフシチューを頼んだ。


 仕事の話はしないと決めたわけでもないのに、自然と会社以外の話になった。休日に何をしているか。最近読んだ本。湊さんが料理をすると、なぜか一人分でも大量になること。私が観葉植物を二度枯らし、三鉢目と現在ぎりぎりの関係を保っていること。


「水をやりすぎなんじゃないか」


「愛情です」


「根腐れさせる愛情は見直せ」


「厳しい」


「植物にも適切な距離がある」


「恋人にも?」


 口にしてから、私はフォークを止めた。


 まだ付き合い始めたばかりなのに、距離を詰めるような聞き方をしてしまった。


 湊さんはすぐには答えなかった。


 テーブルの上にあるグラスの水滴を、指で一度拭う。


「ある」


 胸が少し縮む。


「でも、それは俺一人で決めるものじゃない」


 顔を上げると、まっすぐ視線が重なった。


「近すぎたら言ってくれ。遠すぎても」


 七年前の彼は、一人で距離を決めて、私を遠ざけた。


 今の彼は、私に尋ねようとしてくれている。


 大きな約束ではない。


 それでも、私たちには大切な一歩だった。


「じゃあ、今は少し遠いです」


「席が?」


「そういうところです」


 私がむくれると、湊さんは困ったように息をついた。


 食事を終えて店を出る。夜の商店街は人通りが少なく、少し先の街灯が濡れた歩道を照らしていた。いつ降ったのか、空気に雨の匂いが残っている。


 駅へ向かう途中、湊さんの手の甲が私の指先に触れた。


 一度離れる。


 また触れる。


 それから彼は、周囲を確かめるように前を見たまま、小さく言った。


「ここなら、いいか」


 何が、とは聞かなかった。


 私は自分から、彼の手に指を重ねた。


 強く握られたわけではない。ただ、ほどけない程度の力で包まれる。


 七年前には届かなかった温度が、歩幅に合わせて揺れていた。


 駅の手前で手を離すまで、会話はほとんどなかった。


 でも、不思議と何も足りなかった。


 帰宅して、コートを脱ぐ前にスマートフォンが震えた。


 湊さんからの『着いたら連絡して』だと思い、私は笑いながら画面を開く。


 送り主は、あかねだった。


『さっき「灯」の前に霧島部長がいたよ』


 続けて、もう一通。


『ひなたの約束って、部長だった?』


(第53話へ続く)

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