恋人を隠す八時間
最初のデート。
その七文字には、企画書一冊ぶんくらいの破壊力があった。
私は社内チャットを閉じ、開き、もう一度閉じた。
隣では、あかねが疑わしそうにこちらを見ている。
「何、その動き」
「動作確認」
「何の?」
「チャットの」
「入社して何か月目だっけ」
答えに詰まったところで、始業五分前になった。
救われた、と息をついた私の耳に、聞き慣れた低い声が届く。
「結城」
「はい!」
勢いよく立ち上がると、椅子が机にぶつかった。
企画部中の視線が集まる。
湊さん――ではなく、霧島部長は、フロアの入口で資料を片手に立っていた。
昨夜、駅前で私を名前で呼んだ人と同じ顔なのに、今朝は一ミリも甘くない。
「九時の会議資料。数字を一か所、確認してくれ」
「承知しました」
仕事だ。
わかっているのに、彼の口から名字が出ただけで、胸の奥がわずかにしぼむ。
昨日までなら何とも思わなかった。むしろ名前で呼ばれるほうが大事件だった。
恋人になって一晩で、私はずいぶん欲張りになったらしい。
受け取った資料には、付箋が一枚ついていた。
『三ページ目、前年比』
それだけ。
当然だ。会社なのだから。
私は自席に戻り、資料を確認する。数字の転記ミスを見つけて修正し、湊さんの席へ向かった。
「霧島部長、こちら修正しました」
「ああ。ありがとう」
視線は資料に落ちたまま。
冷たいわけではない。いつも通りだ。
でも、その“いつも通り”を演じることが、こんなに難しいなんて聞いていない。
恋人になった翌朝くらい、目が合えば何か特別なことが起こるのではないかと、心のどこかで期待していた。
現実には、前年比の数字しか起こらなかった。
「結城?」
「はい」
「まだ何かあるか」
「ありません」
危ない。恋人の机の前で用もなく立ち尽くす部下になるところだった。
席へ戻る途中、三上さんに呼び止められた。
「結城さん、耳、赤いけど大丈夫?」
「暖房です」
「まだついてないわよ」
今朝二度目だった。
暖房には、本当に申し訳ないことをした。
九時の会議が始まると、状況はもっと悪くなった。
湊さんが説明する。私が補足する。質問に答える。
それだけなら、何度もしてきた。
けれど今日は、彼が「結城の案で進めます」と言うたび、私だけが別の意味まで拾ってしまう。
昨夜、君が望むなら、と言われた声。
今朝、最初のデートに誘われた文字。
いけない。
仕事中の霧島部長に、恋人の湊さんを重ねてはいけない。
「結城さん、顔が怖いですよ」
隣の蓮くんが小声で言った。
「集中してるの」
「前年比に親の敵でもいます?」
「いるかもしれない」
「数字に人生を奪われた人の顔だ……」
前方の湊さんが、一瞬だけこちらを見た。
笑いをこらえたように見えたのは、たぶん私の気のせいだ。
気のせいでなければ困る。
会社では隠す。
それが二人で決めた最初の約束だった。
会議が終わり、私はようやく社内チャットの返信欄を開いた。
問題は、何と返すかである。
『喜んで』
取引先への返信みたいだ。
『行きたいです』
素直すぎて、隣から画面をのぞかれたら一発で終わる。
『承知しました』
デートを業務に戻してどうする。
悩んだ末、私は打った。
『十九時、承知しました』
送信する直前に、全部消した。
だって、湊さんはわざわざ「業務命令ではない」と書いたのだ。
逃げ道を用意したうえで、恋人として誘ってくれた。
ここで私が部下の返事をしたら、きっとあの人は何も言わずに受け入れる。それは、少し違う気がした。
私は周囲を確認してから、短く打ち直した。
『行きたいです。楽しみにしています』
送信。
直後、心臓が大騒ぎを始めた。
たった十四文字なのに、告白したときとは別の種類の勇気がいる。
恋人になることより、恋人でいることのほうが、案外たいへんなのかもしれない。
返信はすぐに来なかった。
十分。
二十分。
一時間。
湊さんは会議と来客で席を立ったままだ。
仕事中なのだから当然だとわかっている。それでも通知が来るたび、反射的に画面を見てしまう。
「今日、落ち着かないね」
昼休み、あかねが卵焼きを箸でつまみながら言った。
「そう?」
「朝からチャットを二十三回くらい見てる」
「数えたの?」
「途中から」
親友の観察力が、今日は凶器だった。
「仕事の連絡を待ってるだけ」
「霧島部長から?」
危うくお茶を吹きそうになった。
「あかね」
「何」
「どうしてそこで部長が出てくるの」
「朝、呼ばれたあとから変だから」
鋭い。鋭すぎる。
私は弁当箱の中のブロッコリーを見つめた。緑色は何も助けてくれない。
「会議資料の数字が気になってただけ」
「ふうん」
「あかね」
「信じる、信じる。ひなたが前年比に恋してても、私は友達をやめないよ」
「してない」
「じゃあ、誰に恋してるの?」
「お昼休み、あと何分?」
強引に時計を見ると、あかねが笑った。
隠し事をするのは苦手だ。
まして相手は、一番近くで私の七年間を見てきた親友である。
いつかは話したい。
でも、付き合い始めた翌日に、自分一人の判断で話していいことではない。湊さんの立場にも関わる。
胸の内側に小さな罪悪感を抱えたまま、午後の仕事に戻った。
三時過ぎ、ようやくチャットの通知が届いた。
『俺も楽しみにしている』
見た瞬間、私は机の下で膝をぶつけた。
「痛っ」
「大丈夫ですか、結城先輩」
「大丈夫。机が近かっただけ」
蓮くんが首をかしげる。
「ずっと同じ場所にありますけど」
「今日は近いの」
机まで敵に回った。
私は返信をせず、代わりに一度だけ湊さんの席を見た。
彼は書類に目を通している。こちらを見ない。いつもの霧島部長だ。
それでいい。
今は、それが私たちの守り方なのだ。
けれど画面の中には、“俺も”の二文字がある。
同じ気持ちなのだと、言葉にしてくれている。
名字で呼ばれても、目が合わなくても、何もなくなったわけではない。
誰にも見えない場所に、ちゃんと二人ぶんの気持ちがある。
そう思うと、朝から胸に引っかかっていた寂しさが、静かにほどけた。
午後六時。
「結城、このデータ、今日中にまとめられるか」
「はい。三十分ほどでできます」
「頼む」
そこにも特別扱いはない。
むしろデートの日に残業を頼まれた。
さすが氷の部長。恋人にも納期は溶かせない。
私は笑いそうになるのをこらえて、作業を始めた。
六時三十二分、データを送る。
六時四十分、湊さんが退社する。
「お先に失礼します」
フロア全体に向けた声に、私もほかの社員と同じように「お疲れさまでした」と返した。
彼は私を見なかった。
私も見送らなかった。
十九時に、「灯」の前で。
その約束だけを胸に、時間をずらして会社を出る。
秘密という言葉には、もっと後ろめたい響きがあると思っていた。
実際は、誰にも知られていない約束が胸の中で灯っているだけで、帰り支度まで特別になる。
鏡で髪を直しすぎない。
口紅も塗り直しすぎない。
いかにもデートへ行きます、という顔をしない。
そもそも、いかにもデートへ行く顔とは何だろう。
考えている時点で怪しい。
六時五十分。
私は鞄を持って立ち上がった。
「お先に失礼します」
「お疲れさまです」
蓮くんの声に続いて、あかねが顔を上げた。
「ひなた、今日、駅前で買い物する?」
「え?」
「私も寄りたいお店があるから、一緒に帰ろうかなって」
心臓が止まりかけた。
約束の時間まで、あと十分。
断れば不自然だ。でも一緒に会社を出れば、「灯」の前にいる湊さんと鉢合わせるかもしれない。
私は鞄の持ち手を握った。
隠すと決めてから最初の難関が、よりによって親友の姿で立ち上がる。
「ごめん、あかね」
息を吸う。
「今日、先に約束があるの」
嘘はつかない。
でも、まだ全部は言えない。
その線を自分で選んだ瞬間、デスクの上に置いていたスマートフォンが鳴った。
画面に表示された発信者は――『霧島部長』だった。
(第52話へ続く)




