秘密のはじまり
湊さんの手が、私の手を取った。
逃がすためだと思った。
会議室の奥に隠すとか、机の陰に押し込むとか――いや、机の陰はさすがに無理がある。二十六歳の会社員が紺色の傘を抱えてしゃがんでいたら、秘密の恋以前に不審者だ。
けれど湊さんは、私を隠さなかった。
熱の残る指先を一度だけ握り、すぐに離す。
「大丈夫だ」
低い声だった。
「逃げなくていい」
その言葉に、息が止まる。
七年前の私なら、きっと逃げていた。
何も悪いことをしていないのに、見つかることを恐れて。自分の気持ちが誰かに知られた瞬間、迷惑なものに変わってしまう気がして。
でも今は、違う。
秘密にすることと、後ろめたく思うことは同じではない。
「はい」
私は傘を抱き直し、部長の机から一歩離れた。
湊さんがドアを開ける。
「どうぞ」
「遅くにすみませんね」
入ってきた白石部長代理は、最初に湊さんを見て、次に私を見た。
最後に、私の腕の中の紺色の傘を見る。
視線の順番が、怖い。
「結城さんも残っていたんですか」
「はい。私用で、部長にお返しするものがありまして」
口にした瞬間、傘を抱く腕に力が入った。
返すはずだったのに、持って帰るところなのだから、説明としてはかなり弱い。
「それが、その傘?」
「以前、借りたものです」
「ずいぶん古そうですね」
鋭い。
白石部長代理は企画書の数字より、こういうところを見落とさない。
「返却は不要だと、私が言いました」
湊さんが淡々と答える。
「思ったより状態が悪くなかったので。業務とは関係ありません」
嘘ではない。
嘘ではないけれど、肝心なところを全部きれいに避けている。さすが、会議で不利な質問を三行で処理する男だ。
白石部長代理は眉を上げた。
「霧島部長が私物を貸すとは、珍しい」
「七年前の話です」
今、それを言いますか。
心臓が派手な音を立てた。
白石部長代理の目が、もう一度私に向く。
「七年前からのお知り合いでしたか」
否定すれば、嘘になる。
肯定すれば、その先を聞かれる。
私は一瞬だけ迷って、それから答えた。
「大学のサークルの先輩でした」
「なるほど」
短い返事の中に、いくつ質問が詰まっているのだろう。
けれど白石部長代理は、それ以上追及しなかった。手にしていた資料を湊さんの机に置く。
「明朝の役員会で使う差し替えです。確認をお願いします」
「承知しました」
「結城さんも、あまり遅くならないように」
「はい。失礼します」
私は頭を下げた。
会議室を出るまで、背筋に力を入れ続ける。ドアが閉まっても、すぐには息を吐けなかった。
逃げなかった。
隠れもしなかった。
ただ、心臓は会議室に置き忘れてきたみたいに頼りない。
エレベーターホールまで来たところで、後ろから足音がした。
「結城」
振り返ると、湊さんが立っていた。
もう二人きりなのに、会社の中だから「ひなた」ではない。
決めたばかりの境界線を、彼はきちんと守っている。
「送る」
「白石部長代理がまだいます」
「駅までだ」
「それでも、二人で出たら」
「五分ずらす」
徹底している。
両想いになった夜なのに、最初に決めることが退勤時刻の調整とは。
少女漫画なら、ここはもっとこう、手をつないで夜道を歩いたりするのではないだろうか。
現実の直属上司と部下は、勤怠と人目が先に来るらしい。
「では、私が先に出ます」
「ああ」
「駅の北口で待っています」
言ってから、胸がくすぐったくなる。
待っています。
仕事では何度も使った言葉なのに、今は約束になった。
湊さんも一拍遅れてうなずく。
「五分で行く」
エレベーターの扉が閉まる直前、私は小さな声で言った。
「待っています、湊さん」
扉の向こうで、彼の目がわずかに見開かれた。
反撃成功。
――と思ったのに、北口で合流した彼は、平然と私の傘を持った。
「ひなた、行くぞ」
一日の許容量を超えた名前が、夜の駅前で再び降ってくる。
「それ、ずるくないですか」
「何がだ」
「会社を出た途端に切り替えるところです」
「決めただろう。二人のときは、そう呼ぶと」
「決めましたけど、慣らし運転が必要です」
「では、訂正するか?」
「しません」
即答すると、湊さんの足が少しだけ止まった。
私も立ち止まる。
駅へ急ぐ人たちが、私たちの間を流れていく。会社から数分離れただけなのに、ここでは部長と部下ではない。
それでも、急に恋人らしく振る舞えるわけではなかった。
十二年という年の差も、七年という空白も、今日一日で消えるものではない。
そもそも私は、恋人という言葉を頭に浮かべただけで耳まで熱い。
「ひとつ、確認してもいいですか」
「ああ」
「私たちは、その……付き合う、ということで合っていますか」
我ながら、契約内容を確認する新人みたいだった。
湊さんは黙った。
まただ。
この人の沈黙は、以前なら拒絶に聞こえた。でも今は、雑に答えないための時間だと知っている。
「俺は、そうしたい」
まっすぐな声だった。
「ただし、君が望むならだ」
「望んでいます」
「同情ではなく?」
「昨日までの話を全部忘れました?」
「忘れていない」
「では、聞かないでください。私が自分で決めたんです」
「ああ」
湊さんは短く息を吐いた。
「わかった」
「それだけですか」
「何を期待している」
「せめて、よろしくお願いします、とか」
「面接ではない」
「私も今、それは思いました」
恥ずかしさに耐えられず笑うと、湊さんも口元をゆるめた。
それから、誰にも聞こえないほど静かな声で言う。
「よろしく、ひなた」
胸の奥で、七年前から止まっていたものが、ようやく動き出した。
「はい。よろしくお願いします、湊さん」
私たちは並んで駅へ歩いた。
手はつながない。
肩も触れない。
会社の人間がいるかもしれない場所で、慎重すぎるほどの距離を空ける。
なのに、たった半歩隣にいることが、これまでとはまるで違って感じられた。
紺色の傘は湊さんの右手にある。
左側を歩く私との間で、傘の先がときどき揺れた。
触れそうで、触れない。
その距離が今は嫌ではなかった。
急がなくていい。
私たちは、始めたばかりなのだから。
翌朝。
いつもより十五分早く出社した私は、誰にも見られていないことを確認して自席に座った。
昨夜は駅で別れただけだった。
次に会う約束もしていない。
恋人になったはずなのに、手元に残った証拠は紺色の傘と、名前を呼ばれた記憶だけ。
夢ではないかと疑い始めたところで、あかねが出社してきた。
「おはよう、ひなた」
「お、おはよう」
あかねは鞄を置く手を止めた。
「今、なんでどもった?」
「朝だから」
「顔、赤くない?」
「暖房」
「まだついてないけど」
三秒。
湊さん、やっぱり無理です。
私はパソコンを起動するふりをして、あかねから顔をそらした。
そのとき、社内チャットの通知が一件表示された。
送信者は、霧島湊。
業務用の画面だ。あかねが隣にいる。ここで私的な内容を送る人ではない。
そう思いながら開くと、短い文章が二行だけ並んでいた。
『今夜、十九時。喫茶店「灯」の前で』
『これは業務命令ではない。最初のデートに誘っている』
私は無言でチャットを閉じた。
そして三秒後、自分からもう一度その画面を開いた。
(第51話へ続く)




