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好きでいるための約束

 私の声が、会議室の壁に吸い込まれていく。


「私、もう一度、あなたを好きになってもいいですか?」


 言ってしまった。


 七年前より少しだけ大人らしく、七年前と同じくらい必死に。


 霧島さんは答えなかった。


 重なっていた指先が、わずかに動く。離れるのかと思って、私は反射的に息を止めた。


 けれど、その手は逃げなかった。紺色の傘の柄を挟んだまま、私の指に触れている。


「それは」


 低い声が落ちた。


「俺が決めていいことじゃない」


 胸の奥が、すうっと冷えた。


 まただ。


 また、やわらかい言葉で線を引かれる。


 そう思った瞬間、七年前の雨音が耳の奥でよみがえった。


 でも、私はもう十九歳じゃない。


「では、私が決めます」


 驚くほど、はっきり言えた。


「好きになります」


「結城さん」


「許可を取る聞き方をした私も悪いです。でも、気持ちは私のものなので、そこは自分で決めます」


 霧島さんが黙る。


 やってしまった。


 直属の上司に告白した直後、恋愛感情の所有権について主張している。企画会議でも、もう少し相手の反応を見る。


 けれど、ここで引いたら、きっとまた同じになる。


「もちろん、困らせたいわけではありません。仕事に持ち込むつもりもないです。部長に答えを強要するつもりも——」


「好きだ」


 言葉が止まった。


 部屋の空調の音だけが、急に大きくなる。


 今、何を言われたのだろう。


 聞き間違いにしては短すぎて、都合がよすぎて、心臓に悪すぎる。


「……すみません」


 私は瞬きをした。


「もう一度、お願いします」


「聞こえていただろう」


「聞こえましたけど、七年待った答えを一回で正確に処理できるほど、私の頭は高性能ではありません」


 霧島さんが目を伏せた。


 耳が、赤い。


 氷の部長の耳が赤い。


 こんなときなのに、その事実を社内機密として厳重に保管したくなる。


 霧島さんは一度だけ深く息をつき、私を見た。


「俺は、君が好きだ」


 今度は、一語ずつ届いた。


 逃げ道を残さない声だった。


「七年前も、惹かれていた。今も——いや、今の君を、好きになった」


 胸の奥で、何かがほどけた。


 七年前の私だけを見ているのではない。


 傘を捨てられなかった十九歳の私ではなく、転職して、企画書を書いて、失敗して、逃げて、それでも戻ってきた二十六歳の私を。


「それ、ずるいです」


 声が震えた。


「どこがだ」


「そんな言い方をされたら、泣くしかないじゃないですか」


「泣かせたいわけじゃない」


「知ってます。霧島さんは泣かせたいわけじゃないのに、方法を間違えるんです」


「……返す言葉がない」


 目の奥が熱い。それでも、涙は一粒だけで止まった。


 霧島さんの手が持ち上がる。


 頬に触れるのかと思った。


 期待してしまった自分に気づいて、耳まで熱くなる。


 けれど、その手は私の頬の手前で止まった。


 触れていいのか、迷っている。


 私はほんの少しだけ顔を寄せた。


 指先が、涙の跡に触れる。


 それだけだった。


 たったそれだけなのに、触れた場所から全身に熱が広がった。霧島さんの指は思っていたより温かくて、すぐに離れてしまったあとも、そこだけ体温が残っている。


「結城さん」


「はい」


「俺は、君の上司だ」


 わかっていた言葉なのに、現実へ引き戻される。


「はい」


「人事評価にも、案件の配置にも関わる。君が嫌だと言いにくい立場にいる」


「私は嫌じゃありません」


「今は、そうだとしてもだ」


 霧島さんらしい。


 両想いになった直後まで、会議のリスク項目みたいに問題を並べる。


 でも、これは拒絶ではない。


 私の気持ちを疑っているのでもない。


 私が後から困らないように、一つずつ確かめようとしているのだ。


「仕事では、今まで通りにします」


「むしろ、今まで以上に厳しく見られるかもしれない」


「それは困ります。これ以上厳しくされたら、企画書の余白まで赤字で埋まります」


「必要なら埋める」


「両想いになった最初の会話が、それですか?」


 私が睨むと、霧島さんの口元がほんの少しゆるんだ。


 笑った。


 今のは、私に向けた笑顔だ。


 そう思っただけで、涙より危険なものがこみ上げてくる。


「それから」


 霧島さんは表情を戻した。


「社内では、当面、誰にも言わないほうがいい」


 白石部長代理の顔が浮かぶ。世間体と社内秩序を何より気にする人だ。直属の上司と部下となれば、面倒な憶測を呼ぶのは避けられない。


「来栖さんにも?」


「できれば」


「それは、かなり難易度が高いです」


「業務上の問題より先に挙げることか?」


「あかねは私の顔を三秒見ただけで、だいたい当てます」


「なら、三秒以上見せるな」


「無茶を言わないでください」


 思わず笑ってしまった。


 秘密。


 その言葉は昔なら、不安に聞こえたかもしれない。認めてもらえない関係なのだと、勝手に傷ついたかもしれない。


 でも今は違う。


 隠すのは、なかったことにするためではない。仕事と気持ちの両方を守るためだ。


「わかりました」


 私はうなずいた。


「会社では、部長と部下です」


「ああ」


「二人のときは?」


 聞いた途端、心臓が跳ねた。


 勢いとは恐ろしい。告白が通ったからといって、私はどこまで踏み込むつもりなのか。


 霧島さんも、すぐには答えなかった。


「二人のときは」


 私を見たまま、一拍置く。


「湊でいい」


 今度こそ、心臓が止まった。


 七年前、ずっと心の中だけで呼んでいた名前。


 再会してからは、あえて口にしなかった名前。


「無理です」


「なぜだ」


「急に距離が近すぎます」


「君が聞いたんだろう」


「聞きましたけど、心の準備というものが」


「さっきは自分で決めると言っていた」


「その話をここで使います?」


 霧島さん——湊さんは、また少しだけ笑った。


 悔しい。


 私ばかり動揺している。


「では、そちらも」


 せめてもの反撃で、私は言った。


「二人のときは、結城さんじゃなくて、ひなたと呼んでください」


 笑みが消えた。


 今度は彼が黙る番だった。


 けれど、困らせたというより、慎重に言葉を選んでいる沈黙に見えた。


「……ひなた」


 低い声で名前を呼ばれる。


 七年前にも呼ばれたことはある。サークルの仲間たちがいる場所で、後輩の名前として。


 でも、これは違う。


 たった四文字に、隠しきれない温度があった。


「もう一回は、無理です」


「頼まれてもいない」


「今ので一日の許容量を超えました」


「そうか」


 平静を装っているけれど、やっぱり耳が赤い。


 私は机の上の傘を見る。


「この傘、どうしますか」


「君が持っていてくれ」


「でも、返しに来たのに」


「返さなくていいと言ったはずだ」


 以前聞いた言葉が、今は別の意味を帯びる。


 返さなくていい。


 借りたままでも、抱えたままでもいい。


「じゃあ、預かっておきます」


「ああ」


「今度は、ちゃんと使います」


 思い出を保存するためではなく、この先の雨をしのぐために。


 傘を抱き上げた、そのときだった。


 会議室のドアが二度、ノックされた。


「霧島部長、まだいらっしゃいますか?」


 白石部長代理の声だった。


 私たちは同時にドアを見る。


 頬には、触れられた熱が残っている。机の前には私。腕の中には、七年前に部長から借りた紺色の傘。


 どう見ても、残業の相談に来た部下ではない。


 ドアノブが動く。


 その瞬間、湊さんが私の手を取った。


(第50話へ続く)

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