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もう一度、好きになってもいいですか

 午後一時四十五分。


 十五分遅れで始まるはずだった企画会議は、さらに十分遅れて始まった。


 第一会議室から戻ってきた部長の顔には、疲労の色が浮かんでいた。といっても、眉間の皺がいつもより一ミリ深いとか、ネクタイの結び目がほんの少しずれているとか、その程度だ。


 たぶん、ほかの人にはわからない。


 わかってしまう自分が、少しだけ恥ずかしい。


「待たせた。始める」


 短い声とともに、会議室の空気が切り替わる。


 私は紺色の傘を自分の椅子の横に立てかけ、資料を開いた。


 朝からずっと腕に抱えていたせいで、柄には私の体温が移っている気がする。もちろん、そんなわけはない。ただの傘だ。七年前に借りた、少しくたびれた、ごく普通の傘。


 ただの傘を会社まで持ってきて、返すだけで半日も心臓を酷使している私は、かなり燃費が悪い。


「結城さん」


「はいっ」


 勢いよく顔を上げると、部長の視線がまっすぐ私に向いていた。


「三ページ目。先方への提示順を変えた理由は」


「あ……はい。価格を先に出すより、導入後の効果を具体的に示した方が、担当者だけでなく決裁者にも共有しやすいと考えました。先方は前回、社内説明に時間がかかったと話していたので」


「根拠は」


「ヒアリング記録の、こちらです」


 ページをめくり、該当箇所を示す。


 部長は数秒黙って資料を見た。


 この間が怖かった時期もあった。否定される前の空白に思えて、先回りして言い訳を並べたくなった。


 でも今は、少しだけわかる。


 この人は、言葉を選んでいる。切り捨てるためではなく、必要なものだけを渡すために。


「わかった。その順でいこう」


「はい」


「ただし、効果予測の数字は幅を持たせろ。断定すると営業が困る」


「修正します」


 会議は、そのまま何事もなく進んだ。


 仕事の話をする部長は、いつも通りだった。私も、いつも通りに意見を出し、指摘をメモし、羽田くんの補足に頷いた。


 机の下では、傘の先が靴に触れるたび、心臓が跳ねていたけれど。


 仕事と気持ちは、別にする。


 簡単な言葉だ。


 けれど、別にするというのは、片方をなかったことにするのとは違う。


 私は部長の部下だ。企画を任され、評価を受け、責任を持って働いている。それと同時に、七年前からこの人を好きだった私でもある。


 どちらかを消さなければ、ここにいてはいけないと思っていた。


 でも、それはたぶん、逃げるための決めつけだった。


「以上。修正は明日の午前中まで。解散」


 部長が資料を閉じた。


 椅子の音が重なり、みんなが立ち上がる。私は傘の柄を握ったまま、動けなかった。


 今なら声をかけられる。


 いや、今は人が多い。フロアに戻ってからでもいい。夕方になれば、もっと人が減るかもしれない。明日なら、朝から仕切り直せる。


 逃げ道というものは、探すとずいぶん親切に並んでくれる。


「結城先輩、戻らないんですか?」


 羽田くんに声をかけられ、私は椅子から半分腰を浮かせた。


「戻る。ちょっと、部長に確認があって」


 口にしてから、自分で驚いた。


 羽田くんは私と部長を交互に見たものの、「お疲れさまです」とだけ言って出ていった。来栖さんは最後まで残っていたが、私の横を通り過ぎるとき、小さな声で言った。


「五分くらいなら、誰も入ってこないと思う」


「どうして」


「次、この部屋を使うの三時だから」


 そういう意味ではなく、どうして私が残るとわかったのか、と聞きたかった。


 けれど来栖さんは、私の反論を待たずに扉を閉めた。


 会議室に、部長と私だけが残る。


 急に、空調の音が大きくなった。


 長机を挟んで、部長はまだ座っている。私は傘を握って立ったまま。朝より遠いはずなのに、逃げ場のない静けさのせいで、ひどく近く感じる。


「確認とは」


 部長が尋ねた。


「あの」


 喉が、見事に裏返った。


 今朝、頭の中で何度も練習した。「これ、お返しします」。たったそれだけだったはずなのに、その言葉はもう使えない気がした。


 返したら、終わってしまう。


 私は終わらせるために、ここまで持ってきたんじゃない。


 傘を横向きにして、長机の上へ置いた。


 古い紺色が、白い天板の上でひどく目立った。


 部長の指が止まる。


「これ……」


「七年前に、霧島さんから借りた傘です」


 部長は傘を見たまま、何も言わなかった。


 私は胸の前で手を握り合わせた。傘を手放したら、指先が急に寒い。


「返そうと思って、持ってきました」


 ようやく言えた。


 なのに、胸の奥がずきりと痛んだ。


 部長がゆっくり立ち上がる。机の上の傘に手を伸ばしかけて、その手を止めた。


「そうか」


 低い声だった。


 たった二文字なのに、その響きが思ったより静かで、私は息が詰まった。


 部長は受け取るつもりなのだ。


 当然だ。私が返すと言ったから。これはもともと、この人のものだから。


 七年前と同じだ。私は自分から気持ちを差し出しておいて、相手が自分の言葉通りに受け取ると、勝手に傷つく。


 違う。


 私は、傘を返したいんじゃない。


「違います」


 気づけば、声が出ていた。


 部長が顔を上げる。


「返すんじゃ、ありません」


「今、返すと」


「言いました。言いましたけど、違うんです」


 緊張すると早口になる癖は、七年たっても治っていない。


「物としては返します。でも、これを返したからって、七年前のことを終わりにしたいわけじゃなくて。忘れたことにしたいわけでもなくて。むしろ、その逆で」


 一度、息を吸う。


 部長は黙って待っていた。


 逃げるための丁寧語も、笑ってごまかすための冗談も、今だけは出てこなかった。


「私、この傘を七年間、捨てられませんでした」


「……ああ」


「壊れたら困るから、雨の日にもあまり使えなくて。だったら何のための傘なんだって、自分でも思います。でも、これを持っている間は、あの日のことが全部なくなるわけじゃない気がして」


 傘を見つめる。


 色褪せた生地。細かな傷のついた柄。七年ぶんの時間は、きれいなまま保存されていたわけじゃない。


 それでも、残っている。


「断られたことも、苦しかったことも、再会して、覚えていないと言われたことも、全部、本当です」


 部長の眉が、わずかに寄った。


「結城さん」


「でも、霧島さんが一人で抱えていたことも、本当だった。私に言えなかった理由も、今ならわかります。納得したから傷つかなかったことになるわけじゃないけど……傷ついたままでも、知れてよかったと思っています」


 部長が机を回り込み、私の前まで来た。


 近い。


 一歩ぶんの距離。手を伸ばせば届く。でも、今度は遠いと思わなかった。


「俺は、君にそんなふうに整理してもらえるようなことをしていない」


「整理なんてできてません」


 思わず答えると、部長が一瞬、言葉を失った。


「全然できてません。朝から傘一本で仕事が手につかなくなりそうでしたし、会議中も靴に当たるたび心臓が止まりそうでした」


「それは……すまない」


「部長が謝るところですか?」


「俺の傘だろう」


 あまりに真面目な返事で、張り詰めていた息が少しだけほどけた。


 笑いそうになる。でも、笑って終わらせてはいけない。


 私は顔を上げた。


 部長の目が、すぐ近くにある。


「七年前の私は、霧島さんに好きになってもらえたら、それで全部うまくいくと思っていました」


 十九歳だった私。好きだと伝えるだけで精いっぱいで、その人の生活も、抱えているものも、何も知らなかった。


「今は、そんなに簡単じゃないってわかっています。私たちは上司と部下で、十二歳違って、考えなきゃいけないこともたくさんある。私だけの気持ちで決められないことも」


 部長の喉が、小さく動いた。


「それでも」


 声が震える。


 怖い。


 七年前より、ずっと怖い。失うものを知っているから。好きなだけでは届かない距離があると、もう知ってしまったから。


 けれど、怖いままでも言葉にできる。


 気持ちは重荷じゃない。


 伝えることは、相手を縛ることじゃない。


 答えを選ぶ権利ごと、あの人に渡せばいい。


 私は机の上の紺色の傘に触れた。反対側から伸びた部長の指先が、同じ柄に触れる。


 ほんの一瞬、指と指が重なった。


 逃げなかった。


 部長も、手を引かなかった。


「霧島さん」


 七年ぶんの雨を越えて、私はもう一度、その人の名前を呼んだ。


「私、もう一度、あなたを好きになってもいいですか?」


(第49話へ続く)

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