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七年ぶんの傘

 フロアの扉を抜けた瞬間、いつもの朝の音が私を出迎えた。


 キーボードの乾いた連打。コピー機のうなり。誰かの「おはようございます」。給湯室の方から漂ってくる、淹れたてのコーヒーの匂い。何ひとつ変わらない、月曜日の企画部。


 変わっているのは、私だけだ。


 右手に、青空の下では明らかに浮いている紺色の長傘。左胸の奥で、朝からずっと暴れ続けている心臓。そして、たぶん、赤くなっている耳。


(落ち着け、落ち着け、私)


 この傘を握って家を出たときから、私はずっとこの調子だった。玄関の鏡に映った自分が、快晴の窓を背に長傘を抱えているのを見て、一度は棚に戻しかけた。それでも、戻せなかった。戻したら、たぶん私は今日も、何も言えないまま一日を終える。そういう自分に、いいかげん飽きていた。


 自分の席に向かって歩きながら、私は目の端で斜め前をうかがう。窓を背にした、いちばん奥の席。霧島部長は、もういた。


 背筋をまっすぐ伸ばして、ノートパソコンの画面を見つめている。少しだけ癖のある前髪。まくった袖から覗く腕。マグカップから、細い湯気が一本立ちのぼっている。今朝も、自分で淹れ直したのだろう。給湯室で誰にも気づかれないように、静かにケトルを傾けるあの人の後ろ姿を、私は何度か見たことがある。


 その横顔を見た途端、握っていた傘の柄が、じんわりと汗ばんだ。


(渡す。ううん、置く。今日、置く)


 電車の中で、改札の前で、エレベーターの中で、何十回も繰り返した言葉。ここまでは、決意だけで運んでこられた。青空に浮いてまで、隠さないために持ってきた。あとは、あの席まで、たった数メートル歩くだけ。


 なのに。


 私の足は、自分の椅子の前で、ぴたりと止まってしまった。


「おはよ、ひなた」


 隣の席から、来栖さんが顔を上げた。それから、私の腕の中の傘を見て、きれいに描いた眉を片方だけ上げる。


「……今日、どこの土砂降り?」


「え、あ、これは……」


「快晴だよ? 洗濯日和だよ?」


「わ、わかってます。わかってて、持ってきたんです」


 早口になった。緊張すると出る、私の癖。来栖さんはそれを見逃さない人だ。彼女はしばらく私の顔と傘を見比べていたけれど、やがて何かを察したみたいに、ふっと目もとをゆるめた。


「……そ。まあ、いいんじゃない。今日は、そういう日ってことで」


 余計なことは言わずに、また自分の画面に戻る。深くは訊かない。でも、見ていないふりもしない。その背中の押し方が、来栖さんらしくて、私はほんの少しだけ、呼吸ができた。


 そういう日。そう、今日は、そういう日にするんだ。


 私は傘を、そっと自分の机の脇に立てかけた。石突きが床に触れる、こつ、という小さな音。それを合図にするように、私はパソコンを立ち上げ、メールを確認するふりをしながら、機会をうかがった。


 この傘には、私しか知らない意味がある。七年前、まだ大学一年生だった私は、写真サークルのOBとして時々顔を出していた霧島さんに、半年かけて片想いをしていた。あの日は雨で、傘を持っていなかった私に、あの人は何も言わずに自分の紺色の傘を押しつけて、自分は濡れたまま歩いていった。大学の正門前から、駅へと続く道。白いシャツの肩が、みるみる色を変えていくのを、私はただ見送ることしかできなかった。その優しさに勝手に勇気をもらって、私は告白して――そして、静かに振られた。傘を返そうとしても、「持っていろ」の一言で終わり。次に会えた日も、その次も、差し出す傘を、あの人は受け取らなかった。


 あれから七年、私はこの傘を、ずっと返せずにいる。骨の一本、生地のほつれの一つまで、いつのまにか覚えてしまった。返す口実で、あの人のそばにいたかったのだと、認めるのが怖くて。だから今日は、返しにいくんじゃない。私の七年を、あの人の机に、置きにいく。


 朝一番は、部長のところに人が絶えない。決裁の判子、昨日の報告、今日の予定。冷たい声で、必要なことだけを短く返す部長の周りには、いつも小さな行列ができる。あの流れが途切れる、ほんの数分の隙間。その隙間に、傘を持って、あの席まで歩く。そして、机の端に、そっと置く。それだけでいい。


(それだけ、なのに)


 九時。九時十五分。人の波は、寄せては返して、なかなか途切れない。私は何度も傘の柄に手を伸ばしては、また引っ込めた。そのたびに、心臓が一段ずつ、階段を上るように高鳴っていく。


 九時半。行列が、途切れた。


 今だ。


 私は傘を掴んで立ち上がった。膝が、少しだけ笑っている。心臓の音が、耳の奥でどくどくと鳴る。斜め前の席まで、一歩、二歩。部長の横顔が、だんだん近づいてくる。伏せられた長いまつげ。無駄のない指が、キーボードの上を滑る。近づくほどに、コーヒーの匂いに混じって、あの人の気配が濃くなる気がした。


 もう少し。あと三歩。頭の中で、何度も練習した動きをなぞる。柄を横にして、書類の邪魔にならない机の端に、音を立てずに。そして、一言だけ。「これ、お返しします」。たったそれだけの言葉が、七年ぶんの重さで、喉の奥につかえている。


 言葉なんて、いらないのかもしれない。ただ、置くだけ。七年前のあなたに、やっと追いつくだけ。あの、色の薄くなった柄を、あの人の机の端に――


「霧島部長」


 私の声じゃない、低い声が、フロアの空気を割った。


 入口の方から、白石部長代理が大股で歩いてくるところだった。五十がらみの、いつも眉間に皺を寄せた人。その後ろには、見慣れないスーツの一団。


「例の件、先方が前倒しで来られた。今すぐ第一会議室へ。君にも同席してもらう」


 部長は、一瞬だけ動きを止めた。それから、静かにパソコンを閉じ、椅子を引いて立ち上がる。


「わかりました」


 立ち上がった部長と、傘を抱えて棒立ちになった私の距離は、たった一メートル。手を伸ばせば、届いてしまう。それなのに、その一メートルが、七年ぶんの遠さで私の前に横たわっていた。


 あの人の視線が、ほんの一瞬だけ、私の腕の中の紺色に落ちた――気がした。何か言いかけるように、唇がわずかに動いた――気もした。


 でも、それだけだった。


「結城さん」


 通り過ぎざま、部長は足を止めずに、ただ低く言った。


「午後の企画会議、十五分遅らせる。俺が戻り次第、始める」


 それは、いつもの業務連絡だった。冷たくて、無駄がなくて、私の心臓のことなんて一ミリも知らない声。


「……はい」


 やっと絞り出した返事は、たぶん、あの人の背中には届いていない。


 白石部長代理たちと連れ立って、部長はフロアを出ていった。会議室の扉が閉まる、遠い音。


 私は、その場に取り残された。


 フロアはまた、いつもの朝に戻っていく。キーボードの音。コピー機のうなり。誰かの笑い声。その真ん中で、私だけが、時間を止めたように立ち尽くしていた。来栖さんが、ちらりとこちらを見て、何も言わずに、また画面に戻る。「今日は、そういう日」。その言葉が、今はやけに遠い。


 あと三歩、届かなかった。たった一メートルの距離が、あの人が会議室の扉の向こうに消えた瞬間、また七年ぶんに戻ってしまった。


 それでも、私は傘を棚に戻したりしない。午後の企画会議は、十五分遅れて始まる。あの人が戻り次第、始まる。だったら私は、それまでに、もう一度だけ勇気を握り直す。次に隙間が訪れたら、今度こそ。


 両腕に、七年ぶんを包んだ、置き場所のなくなった紺色の傘を抱えたまま。


(第48話へ続く)

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