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同じ、紺色

 翌朝、私は紺色の傘を持って家を出た。


 天気予報は快晴。降水確率ゼロパーセント。


 朝のニュースキャスターは、洗濯物がよく乾きますね、なんて明るい声で言っていた。梅雨明けの、抜けるような青空。誰がどう見ても、傘のいらない日だ。


 玄関を出る直前まで、私は傘立ての前で迷っていた。


 持っていくと宣言したのは、昨日の私だ。


 七年前に借りた、紺色の傘です――屋上でそう口にした瞬間は、胸の奥で何かがきれいに決まった気がしていた。


 けれど一晩眠ったら、決意にはしっかり現実が追いついてきた。


(本当に持っていくの? これを? 快晴の通勤電車に?)


 傘立ての前で腕を組み、三分。いったん手に取り、戻して二分。靴まで履いたところで、もう一度手に取った。


 我ながら往生際が悪い。


 それでも最後には、傘を握ったまま玄関の扉を開けた。


 返すかどうかは、まだ決めていない。昨日も自分にそう言い聞かせた。ただ、隠したままにはしない。それだけは決めたのだ。


 外へ出ると、朝の光が容赦なく紺色の布を照らした。


 七年もクローゼットの奥にいた傘は、思ったより傷んでいない。昨夜、乾いた布で埃を拭き、骨が曲がっていないか一本ずつ確かめた。留め具の糸が少しほつれていたから、慣れない手つきで縫い直した。針を指に刺したのは二回。


(傘一本持っていくだけで、何をしてるんだろう、私)


 そう思いながらも、きれいになった傘を見たとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 電車の中で、私は案の定、浮いていた。


 折りたたみ傘ならまだしも、私が持っているのは立派な長傘だ。隣に立ったサラリーマンが、私の傘と窓の外の青空を二度見した。それから、この人は雨女なのだろうか、とでも言いたげに、そっと半歩だけ距離を取った。


(見ないでください。私にも事情があるんです。かなり長くて、説明すると七年かかる事情が)


 心の中で言い訳をしながら、私は傘の柄を握り直した。


 手のひらに汗がにじんでいる。冷房の効いた車内なのに、指先だけが妙に熱い。


 七年ぶりに、この傘を人前へ出した。


 柄は、握るところだけ色が薄くなっている。石突きの先も、少し丸くなっていた。アスファルトを意味もなく突きながら歩いた夜が、いくつもあったからだ。


 最初のうちは、本当に返そうとしていた。


 次にサークル棟であの人が顔を出した日、私は思いきって傘を差し出した。けれど、あの人はそれを受け取ろうとしなかった。


『持っていろ』


 それだけだった。


 その次に会えた日も、また次も試した。返すたびに短く断られ、しまいには『予備がある』と言われた。


 その言葉を都合よく受け取って、私は返すのをやめた。


 本当は、返す口実を失いたくなかったくせに。


 傘が手元にあれば、いつかまた会える気がした。今度こそ、きちんとお礼を言える日が来ると思っていた。


 なのに、あの日を境にあの人はもうサークルへ顔を出さなくなって、私は何も言えないまま取り残された。


 それからずっと、クローゼットの奥に立てかけてきた。引っ越しのたびに捨てるか迷って、結局連れてきたもの。段ボールへ詰めるのはためらわれて、いつも最後に、そっと腕に抱えて運んだ。


 返せない気持ちの形をした、紺色。


 電車が大きく揺れた。


 吊り革へ伸ばしかけた手で、私はとっさに傘を体へ引き寄せる。胸元に触れた布越しに、昨日差し出された白いハンカチを思い出した。


 今朝、洗ってアイロンをかけたそれは、鞄の内ポケットに入っている。


 傘とハンカチ。返せていないものと、返す約束をしたもの。


(私、借り物を増やしてどうするの)


 内心で突っ込んだら、少しだけ肩の力が抜けた。


 昨日、部長は七年前の本当の理由を話してくれた。


 私の気持ちに気づいていたこと。年齢も立場も違う私から距離を取ったこと。それを正しさではなく、自分が逃げただけだと言ったこと。


 あの人が十二歳上の上司であることは、今も変わらない。だからこそ、私は部下として守られるだけの場所にいたくなかった。


 私は二十六歳だ。


 誰を好きになるかも、何を伝えるかも、自分で決められる。受け取るかどうかを決めるのは部長だけれど、差し出す前から私の気持ちをなかったことにはさせない。


 ――七年前の雨の日を、私はまだ忘れていない。


 突然の夕立に立ち尽くしていた私に、無言で差し出された、この傘。


 大学の正門前、傘を持たずに軒下で雨脚をやり過ごそうとしていた私。その手に傘を押しつけると、霧島さんは自分だけ雨の中へ歩いていった。


 白いシャツの肩がみるみる濡れていくのを、私は声も出せずに見送った。


 冷たい人だと思っていた。


 なのに、手渡された柄にはあの人の体温が残っていた。


 たったそれだけの温度が、七年かけて、じわじわと私の中へ染み込んだ。私がつらい日に踏ん張れた理由の、全部ではない。でも、確かな一つだった。


 だから、この傘はただの借り物ではなくなった。


 だからこそ、もうお守りにしたまま隠しておきたくなかった。


 返してしまえば、忘れ物のやり取りで終わる気がして怖かった。でも、昨日の部長の言葉を聞いた今は、少し違う。


 この傘を見せることは、終わらせることではない。


 七年前から止まっていた話を、今の私たちで始め直すことだ。


 電車がホームへ滑り込んだ。


 見慣れたアナウンスとともに扉が開き、降りる人の波に押されるように、私はプラットフォームへ足を下ろした。


 改札を抜けると、朝の光がまっすぐ差し込んできて、思わず目を細める。傘なんて、本当に、これっぽっちも必要のない朝だ。


 それでも私は、畳んだ傘をお守りのように握っていた。


 会社が入っているビルが見えてくる。


 ガラス張りの、いつものエントランス。あの何階かに、もう部長はいるはずだ。


 霧島湊、三十八歳。


 冷たい目をして、必要なことしか言わなくて、それでもときどき、どうしようもなく不器用にやさしい、私の上司。


 好きだった人。


 今も好きな人。


 昨日まで、その間には「たぶん」を挟んでいた。


 今日は、もう挟まない。


 自動ドアを抜けたところで、出勤してきた同じフロアの男性社員とすれ違った。彼は私の傘を見て、反射的にガラスの向こうの空を確認した。


「今日、降るんでしたっけ?」


「降りません」


 きっぱり答えると、相手は不思議そうな顔をした。


 私は小さく頭を下げ、そのままエレベーターホールへ向かった。


(今日、渡すんだ)


 いや――違う。


 それを、今日、あの人の前に置く。


 返すためではない。


 この傘を突き返して、七年ぶんの気持ちに、きれいな区切りをつけたいわけでもない。


 ずっと隠してきたものを、もう隠さないためだ。


 青空の下で長傘を持って浮いてまで、私は、あの日から続いている自分の気持ちを、あの人の目の前へ差し出したかった。


 エレベーターのボタンを押す指が震える。


 上を示す数字が、ひとつ、またひとつと下りてきた。心臓の音が、それに合わせて速くなる。


(大丈夫。見せるだけ。ううん、机に置くだけ)


 自分へ言い聞かせても、ちっとも大丈夫ではない。


 だって、これは傘ではない。


 畳まれた紺色の布の中に、私は七年ぶんの自分を、まるごと包んで持ってきてしまったのだから。


 軽い音を立てて扉が開いた。


 乗り込み、行き先のボタンを押す。扉が閉まり、鏡張りの壁に、紺色の傘を抱えた私が映った。


 顔は緊張で強張っている。それでも、七年前の私はもう一人ではなかった。


 今の私が、ここにいる。


 エレベーターが上がっていく。階数表示が切り替わるたび、逃げ道が一つずつ消えていくようだった。


 やがて到着を告げる音が鳴る。


 扉の向こうから、キーボードを打つ音と、社員たちの挨拶が聞こえてきた。


 私は傘の柄を握り直した。


 色の薄くなった場所。七年前、あの人が握っていた場所に、自分の指を重ねる。


 扉が開く。


 一歩目だけは、七年前の私のために。


 二歩目からは、今の私のために。


 私は傘を隠さず胸の前に抱え、霧島部長のいるフロアへ踏み出した。


(第47話へ続く)

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