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七年前の、本当の理由

 袖口をつかんだ指に、自分の体温が全部集まっている気がした。


 部長のシャツは、いつもみたいにきちんとアイロンがかかっていて、私の震えだけが場違いだった。


「話すなら、私も行きます」


 もう一度言うと、部長は少しだけ眉を寄せた。


「結城さん」


「止めたいんじゃありません」


 喉がからからだった。


 それでも、ここで黙ったら、また私は七年前の雨の中に戻ってしまう気がした。


「あの話は、私のことでもあります。私だけが聞かない場所で、私の昔が説明されるのは嫌です」


 部長の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 怒っているわけじゃない。困っているわけでもない。


 たぶん、痛いところを押された顔だった。


「……わかった」


 低い声でそう言って、部長は私の手元に視線を落とした。


 私は慌てて袖を離す。


 今さらだけど、上司の袖を廊下でつかむ部下。監査対象が増える。白石部長代理のメモ帳が火を噴く。


 そんな現実逃避をしていないと、息ができなかった。


 部長は会議室の扉をノックした。


「失礼します。補足しておきたいことがあります」


 白石部長代理は、まだ中にいた。録音機も、ノートも、そのまま机の上にある。


 私が一緒に入ると、白石部長代理の視線がわずかに鋭くなった。


「結城さんも?」


「はい」


 自分で答えた。


「私に関係することなら、同席します」


 声は震えなかった。えらい。今の私、かなりえらい。心の中だけで自分に小さな拍手を送る。


 部長は椅子には座らなかった。私も座らない。白石部長代理だけが、机の向こうでペンを持ち直した。


「七年前、結城さんと私は面識がありました」


 部長の声は、いつもの会議の報告みたいに平らだった。


 でも、その横顔の顎が少しだけ固いことに、私は気づいてしまう。


「大学の写真サークルで、私はOBとして何度か顔を出していました。その時期に、個人的なやり取りがありました」


「個人的なやり取り、とは」


「結城さんから好意を伝えられました」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 七年前の私が、急にこの会議室の隅に立った気がした。


 安いビニール傘からはみ出した肩。濡れた靴下。精一杯の勇気。返ってきた短い「ごめん」。


 白石部長代理のペン先が止まる。


「それで?」


「私は断りました」


 部長は続けた。


「その後、連絡は取っていません。今回の配属で再会しましたが、上司と部下という関係を優先し、過去の件を業務に持ち込まないようにしてきました」


「最初から申告しなかった理由は?」


 正論だった。


 痛いくらい、正論だった。


 私の背筋が勝手に伸びる。


 部長は少し沈黙した。


「私の判断ミスです」


 その一言に、思わず横を見た。


 違います、と言いかけた。


 私だって黙っていた。私だって、怖かった。覚えていないふりに合わせた。傷つかない場所に逃げ込んだ。


 でも部長は、私の言葉を止めるように、ほんの少しだけ手を上げた。


「ただし、結城さんの評価、案件の割り振り、羽田の担当調整について、私的感情で優遇または不利益な扱いをした事実はありません。必要であれば、三上、来栖、関係者を含めて業務ログとレビュー履歴を提出します」


 仕事の人の声だった。


 冷たくて、硬くて、逃げ道を作らない声。


 でも私は知っている。


 この人は今、自分だけが矢面に立つために、こんな声を出している。


 白石部長代理はしばらく部長を見ていた。


「わかりました。まずは事実関係として記録します。追加確認が必要な場合はこちらから連絡します」


「承知しました」


「結城さん」


 急に名前を呼ばれて、肩が跳ねそうになった。


「はい」


「あなたも、過去の面識があったことは認めるのですね」


「はい」


 息を吸う。


「でも、今の仕事で評価してほしいです。過去に何があっても、今ここで作った企画書と、会議で出した結果は、私のものです」


 言ってから、指先が熱くなった。


 言えた。


 七年前の私では、たぶん言えなかった。


 白石部長代理は表情を変えず、短く頷いた。


「その点も確認します」


 面談は、今度こそ終わった。


 廊下に出た瞬間、私は肺の中の空気を全部吐き出した。


「……心臓、どこかに置いてきたかもしれません」


「持っている」


 部長が即答した。


「顔色が悪いだけだ」


「それ、持ってる判定なんですか」


「倒れていない」


「基準が厳しい」


 こんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。


 笑いそうになって、でもすぐに喉の奥が詰まった。


 部長は私を見下ろし、静かに言った。


「少し、外の空気を吸うか」


 屋上へ続く階段は、昼休みの終わりが近いせいか誰もいなかった。


 扉を開けると、雨上がりの匂いがした。灰色の雲の切れ間から、薄い光がビルの窓に反射している。


 フェンスの向こうで、道路の水たまりが小さく光った。


 七年前も、雨だった。


 今日も雨の後だ。


 しつこいな、私の人生の天気。


 部長はフェンスから少し離れた場所で立ち止まった。私との距離は、会議室より近い。でも、触れない距離。


 その距離が、今はありがたくて、少しだけ寂しい。


「結城さん」


「はい」


「七年前、俺が君を断った理由を、ちゃんと話していなかった」


 心臓が一拍遅れて鳴った。


 ついに来た、と思った。


 知りたいと思っていた。ずっと、怖くて知りたくなかった。


「葵のことは、少し聞いています」


「ああ」


 部長はフェンスの向こうを見た。


「当時、葵は長期入院していた。手術の同意書、治療費、仕事、家のこと。俺には、自分以外の誰かを大事にする余白がないと思っていた」


 知っていたはずの言葉なのに、本人の口から聞くと重さが違った。


 余白がない。


 それは、恋愛どころじゃなかった、という意味だけではない。


 息をする隙間も、自分を振り返る場所も、きっとなかったということだ。


「君は十九歳だった」


 部長の声が少し低くなる。


「これからいくらでも世界が広がる年齢で、俺は三十一だった。十二違う。妹の病気を抱えて、生活も心も荒れていた。そんな俺が君の気持ちに応えたら、君の未来を狭めると思った」


 喉の奥が熱くなる。


 七年前の私は、その説明が欲しかった。


 でも今の私は、少しだけ違うこともわかる。


 それは優しさだったかもしれない。


 でも、決めたのは彼だ。


 私の未来を、私に聞かずに。


「それで、あんなふうに断ったんですか」


 自分でも驚くくらい、静かな声だった。


「『応えられない』って、それだけで」


 部長がこちらを向いた。


「そうだ」


 風が吹いて、屋上の端に残っていた雨粒がぱたぱたと落ちる。


「君を遠ざけるのが正しいと思った。理由を話せば、君は優しいから、きっと気にする。助けようとする。待とうとする。そうなれば、君に重荷を背負わせると思った」


 重荷。


 その言葉が、七年間ずっと私の胸の底に沈んでいた石の名前だったのだと、今さらわかった。


 私は自分の気持ちが重かったのだと思っていた。


 好きと言ったことが、迷惑だったのだと思っていた。


 明るくして、平気なふりをして、先に逃げて。


 そうすれば誰かの負担にならずに済むと、本気で思っていた。


「違ったんですか」


 声がかすれた。


「私の気持ちが、重かったんじゃないんですか」


 部長の顔が、痛みに耐えるみたいに歪んだ。


 そんな顔を見たかったわけじゃない。


 でも、目をそらせなかった。


「違う」


 短い言葉だった。


 なのに、七年分の雨音を止めるみたいに、まっすぐ届いた。


「君が重荷だったわけじゃない。君の気持ちが迷惑だったわけでもない」


 部長は一度、息を吸った。


「俺が怖かった」


 風が止まった気がした。


「葵を失うかもしれない現実も、君に惹かれている自分も、どちらも怖かった。君を大事にできない自分を見せるのも、君に選ばれるのも怖かった。だから、君のためという言い方で、自分が逃げた」


 惹かれている。


 その言葉だけが、遅れて胸に落ちてきた。


 七年前の私に聞かせたら、たぶんその場で泣き崩れている。


 今の私だって、かなり危ない。社会人の涙腺、昼休みに決壊しないでほしい。午後の打ち合わせがある。マスカラは防水じゃない。


「……ずるいです」


 やっと出た言葉は、それだった。


「はい」でも「許します」でもなく。


 部長は受け止めるように頷いた。


「ずるかった」


「七年も、私、勘違いしてました」


「ああ」


「私が好きって言ったから、困らせたんだって。だから、もう本気で誰かを好きになるのはやめようって」


 言葉にした瞬間、胸の奥の石が割れた。


 痛い。


 でも、軽い。


 割れた破片が、涙になって目のふちまで上がってくる。


「君は何も悪くなかった」


 部長の声が、いつもより近くで聞こえた。


 見ると、彼は半歩だけ近づいていた。


 半歩。


 それだけで、私の心臓は全力疾走を始める。単純すぎる。今、人生のかなり大事な話をしているのに、半歩でこれ。私の心臓、仕事を選んで。


「悪かったのは、俺の断り方だ」


「でも」


「言い訳はしない」


 部長は静かに首を振った。


「葵の病気も、年齢差も、当時の状況も、本当の理由ではある。けれど、君に何も説明せず傷つけたことの免罪符にはならない」


 まっすぐすぎる言葉に、逃げ場がなくなる。


 責めたい気持ちがないわけじゃない。


 でも、責めるより先に、聞きたいことがあった。


「再会したとき」


 私は袖ではなく、自分のスカートの端を握った。


「覚えていましたか」


 部長の答えは、すぐだった。


「覚えていた」


 息が止まる。


「初めて企画部に来た日から?」


「エレベーターで見た瞬間に」


 そんなの。


 そんなの、反則だ。


 こっちは「初対面だよね?」で床にめり込むくらい傷ついて、でも大人だから笑って、名刺を渡して、帰ってから枕に顔を埋めたのに。


「どうして、知らないふりをしたんですか」


「上司だったからだ」


 部長は目を伏せた。


「過去を持ち出せば、君は拒みにくい。俺が謝りたいから謝るのも、覚えていると言うのも、立場を使って君に反応を強いることになると思った」


「それも、私のためですか」


 少しだけ、意地悪な言い方になった。


 部長は逃げなかった。


「半分は。半分は、俺が合わせる顔がなかった」


 正直な答えだった。


 胸が痛くて、でもその痛みは、七年前のものとは違った。


 今度は、ちゃんと二人分の痛みだ。


「俺はまた逃げた」


 部長が言う。


「君に選ばせると言いながら、最初の選択肢を隠した。すまなかった」


 屋上の空気が、少し冷える。


 私は鼻の奥をつんとさせながら、必死で息を整えた。


 謝ってほしかった。


 でも、謝られたら終わると思っていた。


 過去に名前がついて、蓋が閉まって、それで私たちはまた上司と部下に戻るのだと思っていた。


 でも違った。


 蓋が閉まるどころか、七年前から続いていた扉が、今ようやく開いた気がした。


「私」


 声が震える。


「まだ、整理できません」


「それでいい」


 即答だった。


「急がなくていい。答えを出さなくていい。俺の話で、君に何かを迫るつもりはない」


 その言い方が、ずるいくらい優しかった。


 迫られたら逃げられたのに。


 急がなくていいと言われると、逃げられなくなる。


 私は雨上がりの空を見上げた。


 雲の端が、少しだけ明るい。


「部長」


「何だ」


「七年前の私に、言ってあげたいです」


 涙が一粒だけ落ちた。


 でも、拭かなかった。


「あの気持ちは、迷惑じゃなかったよって」


 部長は何も言わなかった。


 ただ、ポケットからハンカチを出して、私に差し出した。


 指先が触れそうで触れない距離。


 私はそれを受け取る。


 白いハンカチは、少しだけコーヒーの匂いがした。


「ありがとうございます」


「ああ」


 ハンカチで目元を押さえながら、私は思った。


 この人は、七年前の雨の日に傘を貸した人だ。


 何も言わずに遠ざけた人で、今、逃げたと言える人だ。


 どちらも同じ人だ。


 好きだった人。


 今も、たぶん、好きな人。


 たぶん、なんて言葉で逃げるのは、もうだいぶ苦しい。


「結城さん」


 部長が、仕事の声に戻した。


「午後の打ち合わせ、無理なら三上に任せる」


「出ます」


 即答したら、部長が少し驚いた顔をした。


「出ます。今ここで倒れてないので」


「基準を採用したのか」


「部長基準です」


 少しだけ笑えた。


 泣いたあとに笑うと、胸が変なふうに痛む。でもその痛みは、生きている感じがした。


 昼休みの終わりを知らせるチャイムが、遠くで鳴った。


 屋上の扉へ向かいながら、私は足を止めた。


「部長」


「何だ」


「ハンカチ、洗って返します」


「ああ」


「それと」


 言いかけて、喉が詰まる。


 七年前から、返せていないものがある。


 返さなくていいと言われた。


 でも、返すためじゃなく、もう一度向き合うために持っていきたい。


「明日、持ってきます」


 部長が足を止めた。


「何を」


 私は振り返らずに答えた。


「七年前に借りた、紺色の傘です」


 その言葉を口にした瞬間、胸の中で何かが静かに決まった。


 返すかどうかは、まだわからない。


 でも、隠したままにはしない。


 もう、雨の日の私を一人にしない。


(第46話へ続く)

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