嫉妬でも、曲げない
十一時三十分までの一時間が、こんなに長いものだとは知らなかった。
白石部長代理の面談は一度解散になり、私は自席に戻った。けれど、パソコンの画面に並ぶ数字も、議事録の文字も、全部どこか遠い国の言葉みたいに見える。
羽田くん。
面談予定表に印字されていた名前が、頭の中で何度も点滅する。
彼が何かを言ったのだろうか。
彼が、私と部長のことを疑ったのだろうか。
そう考えた瞬間、胸がちくりと痛んだ。
違う。決めつけちゃだめだ。
羽田くんは、まっすぐな人だ。私に好意を伝えてくれたときも、逃げ道を塞ぐようなことはしなかった。困らせたいわけじゃないと言って、一歩引いてくれた。
だからこそ、怖い。
いい人だから、余計に。
彼の中に少しでも傷が残っていたなら。私が無自覚に、その傷を広げていたなら。
マウスを握る手に力が入る。
「結城さん」
斜め前から、低い声が落ちてきた。
顔を上げると、部長が私の机の横に立っていた。いつも通りの無表情。けれど、手に持った書類の角が、ほんの少しだけ曲がっている。
「十一時二十五分に、第一会議室へ」
「はい」
「無理に話そうとしなくていい。聞かれたことにだけ答えればいい」
短い言葉。
業務連絡みたいな声。
でも、その奥にある温度を、私はもう知っている。
知ってしまったから、余計に胸が苦しい。
「部長」
呼び止めると、彼はわずかに足を止めた。
「羽田くんが、何か悪いことをしたみたいに扱われるのは嫌です」
自分で言って、ああ、と思った。
私は怖がっていた。疑っていた。なのに、いちばん嫌なのは、彼を悪者にすることだった。
部長は一拍置いて、静かに頷いた。
「俺も同じだ」
それだけで、少しだけ呼吸が戻った。
十一時二十五分。
第一会議室の空気は、朝よりも乾いていた。机の上には録音用の小さな機械が置かれ、白石部長代理の前には聞き取り項目らしい紙が重なっている。
私は部長の隣ではなく、少し離れた席に座った。
距離。
たった椅子一つ分の距離なのに、今の私にはそれが必要だった。守るための距離。隠すためではなく、仕事としてここにいるための距離。
扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきた羽田くんは、いつもより背筋を伸ばしていた。ネクタイもきっちり締めて、髪も乱れていない。なのに、目の下だけが少し赤い。
私と目が合った瞬間、彼は小さく会釈した。
その普通さに、胸が痛くなる。
白石部長代理が口を開いた。
「羽田くん。今日は確認です。あなたに不利益が生じるものではありません。率直に答えてください」
「はい」
「最近、企画部内で霧島部長が結城さんを特別扱いしていると感じたことはありますか」
いきなり核心だった。
私は膝の上で手を握る。爪が手のひらに当たる。
羽田くんは、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
部長も動かない。
窓の外で、遠くの救急車の音が小さく伸びて、消えた。
「あります」
羽田くんの声は、まっすぐだった。
心臓が一瞬、音を失った。
「具体的には」
「レビューの回数が多いこと。霧島部長が、結城さんの資料を細かく見ていること。残業時に同じ会議室にいることがあったこと」
白石部長代理のペンが動く。
私は唇を噛みそうになって、やめた。
逃げない。
ここで表情を崩したら、羽田くんまで揺らしてしまう。
「それを不公平だと感じましたか」
羽田くんは、今度は少しだけ目を伏せた。
「最初は、感じました」
最初は。
その言葉が引っかかる。
「でも、案件に入ってわかりました。結城さんの担当範囲は、僕が思っていたよりずっと広かったです。前職で制作現場を見ていたから気づけることも多くて、クライアントへの確認も早い。レビューが多いのは、企画の難度が高いからだと思います」
羽田くんは、そこで初めて私を見た。
責める目ではなかった。
苦しそうで、でも逃げていない目だった。
「僕が悔しかったのは、結城さんが優遇されているからじゃありません。僕が同じだけ任される実力に、まだ届いていなかったからです」
喉の奥が熱くなった。
だめだ。泣く場面じゃない。
これは職場の聞き取りで、私は社会人で、議事録じゃなくても記録されているかもしれなくて、だから涙腺、今だけは職務放棄しないで。
白石部長代理は表情を変えずに続けた。
「では、霧島部長と結城さんの間に、業務上不適切な関係があると感じたことは?」
空気が、さらに薄くなる。
羽田くんの指が膝の上で一度だけ動いた。
「ありません」
即答だった。
「二人きりで会議室にいるところを見たのに?」
「会議室の予約ログを見れば、案件名が入っているはずです。資料も残っています。僕も途中から加わった会議がありますが、話していたのは見積もりと導線の修正でした」
「あなたの知らない時間もあります」
「それはあります。でも、知らないことを、あったことにはできません」
羽田くん。
胸の中で、名前だけがこぼれた。
白石部長代理のペンが止まる。
部長は黙っている。横顔はいつも通り硬い。けれど、その手は机の上で静かに組まれていた。何か言いたいのを、抑えている手だった。
「羽田くん。あなた自身の感情が、判断に影響している可能性はありませんか」
その質問に、私は思わず顔を上げた。
やめて。
それは、彼がここで言わなくていいことだ。
私の事情で、彼の気持ちまでさらされる必要はない。
「白石部長代理」
部長が低く口を開いた。
「業務評価に直接関係しない個人の感情まで、本人の同意なく掘り下げる必要はありません」
「必要があるかどうかはこちらが判断します」
白石部長代理の声は冷静だった。
部屋の温度が、一度下がった気がした。
そのとき、羽田くんが小さく息を吸った。
「あります」
私の指先が震えた。
「僕は、結城さんに個人的な好意を持っていました」
言葉が、会議室の中央に落ちた。
録音機の小さなランプが、赤く光っている。
「でも、それは僕の問題です。結城さんは、僕の気持ちを利用していません。期待を持たせる言い方もしませんでした。ちゃんと断ってくれました」
ちゃんと。
その一言で、視界がにじみかける。
私はちゃんとできていたのだろうか。
誰かを傷つけずに断るなんて、きっと無理だ。それでも、彼は今、私を責めずにいてくれる。
「だから、僕が霧島部長と結城さんを悪く言う理由があるとしたら、それは嫉妬です」
羽田くんは、まっすぐ白石部長代理を見た。
「でも、嫉妬で仕事の事実を曲げるのは、嫌です」
沈黙。
長い沈黙だった。
白石部長代理が眼鏡を外し、レンズを拭いた。朝から何度も見たその仕草が、今だけ少し迷いに見えた。
「わかりました。今日の証言は記録します」
「はい」
「ただし、業務時間外の会議室利用については、今後ルール化を検討します」
「承知しました」
部長が答えた。
私は遅れて頷く。
面談は、それで終わった。
廊下に出た瞬間、膝から力が抜けそうになった。壁に手をつく前に、羽田くんが少し離れた場所で立ち止まる。
「結城先輩」
その呼び方が、いつもより丁寧で、遠かった。
「ごめんなさい。余計なことまで言って」
「余計じゃないよ」
声が震えた。
私は深呼吸して、もう一度言う。
「余計じゃなかった。ありがとう」
羽田くんは困ったように笑いかけて、でも笑いきれずに視線を落とした。
「僕、かっこ悪いですね」
「そんなことない」
即答だった。
恋愛の答えは返せなかった。彼の気持ちには応えられなかった。
それでも、今日の彼がかっこ悪いなんて、絶対に言わせたくなかった。
「羽田くんは、ちゃんと仕事の人だったよ」
彼の目が少し揺れた。
そして、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、仕事の人として一つだけ言います」
「うん」
「僕、次の案件、逃げません。結城先輩と同じだけレビューされても、食らいつきます」
胸の奥が、少しだけ明るくなる。
「受けて立ちます」
「怖いなあ」
今度は少しだけ、本当に笑った。
その笑顔に、私は救われた。
羽田くんが自席の方へ戻っていく。私はその背中を見送ってから、ようやく大きく息を吐いた。
その直後だった。
廊下の角から、部長が現れた。
近すぎない距離で立ち止まり、私の手元を見た。気づけば私は、握りしめたままだった指先を開けずにいる。
「結城さん」
「はい」
「午後、三上も入れて案件の進め方を整理する。羽田にも負担が偏らない形にする」
「……はい」
仕事の話だ。
とても正しい。
なのに、今の私には、その正しさが少しだけ寂しかった。
甘えたいわけじゃない。慰めてほしいわけでもない。たぶん。
たぶん、って何。自分の心に確認印を押したい。
部長は一瞬だけ黙った。
そして、低い声で言った。
「君が守ろうとしたものを、羽田も守った」
それだけで、胸の奥がほどけた。
私は頷いた。
「はい」
「だから、次は俺が守る」
顔を上げる。
部長はもう、白石部長代理のいる会議室の方を見ていた。
「七年前のことを、これ以上君だけに背負わせない」
心臓が、静かに大きく鳴った。
その言葉の意味を聞き返す前に、部長は一歩、会議室へ向かって歩き出した。
私は反射的に、その袖口をつかんでいた。
「待ってください」
自分の声が、廊下に響く。
部長が振り返る。
私は彼の袖を握ったまま、息を吸った。
「話すなら、私も行きます」
(第45話へ続く)




