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一人では行かせない

 月曜の朝のオフィスは、いつもより少しだけ白く見えた。


 蛍光灯のせいか、寝不足のせいか、それとも私の心臓が朝から全力疾走しているせいか。


 受付横の時計は八時二十分を少し過ぎている。エレベーターの扉に映った自分は、いつも通りのブラウスに、いつも通りの社員証を下げて、いつもより明らかに硬い顔をしていた。


 大丈夫。大丈夫です、結城ひなた。


 白石部長代理に呼ばれただけ。まだ何も決まっていない。会社員として、確認に答えればいい。深呼吸して、背筋を伸ばして、余計なことは言わず、必要なことだけを――。


「結城」


 低い声に、肩がびくっと跳ねた。


 振り返ると、霧島部長がエントランスの自動ドアを抜けてきたところだった。濃紺のスーツ。少し湿った前髪。外は小雨らしく、コートの肩に細かい水滴がついている。


 たったそれだけなのに、胸の奥が変な音を立てる。


 いや、朝の上司です。出勤してきただけです。ここでときめくのは勤務態度としてどうなの、私。


「おはようございます」


「おはよう」


 部長は私の顔を一度見て、眉をわずかに寄せた。


「眠れたか」


「……そこそこです」


「嘘が下手だな」


「部長ほどではありません」


 言ってから、自分で驚いた。


 七年前の話を聞く前なら、絶対に飲み込んでいた言葉だ。部長も一瞬だけ黙ったあと、困ったように息を吐いた。


「それは、反論できない」


 その短い返事に、少しだけ緊張がほどける。


 でも、エレベーターの上昇表示が一階ずつ増えていくたびに、ほどけたはずの糸がまた喉元に絡まっていった。


 白石部長代理。


 霧島部長との件。


 土曜日に本社へ来たことだろうか。会議室で話していたことだろうか。それとも、もっと前から何かを見られていたのだろうか。


 考え出すと、全部が怪しく思えてくる。給湯室の缶コーヒー。雨の日の傘。屋上での会話。終電までの残業。会社員としてセーフですか、アウトですか、誰か判定表をください。


 エレベーターが管理部フロアに着く直前、部長が言った。


「結城」


「はい」


「俺が同席する。だが、君の代わりに話すつもりはない」


 思わず顔を上げる。


「土曜に、言われたからな。勝手に守るな、と」


 扉が開いた。


 朝の静かな廊下に、私たちの靴音が並ぶ。


 隣にいる。


 でも、前に立って隠すのではなく、横にいる。


 それだけで、胸の奥に熱いものが落ちた。泣くところではない。管理部フロアで泣いたら完全に情緒不安定な社員である。私は鼻から息を吸い、できるだけ普通の声で答えた。


「はい。私も、自分で話します」


 部長は小さく頷いた。


 白石部長代理の部屋の前には、すでに三上さんが立っていた。淡いグレーのジャケットに、いつものきちんとした低いヒール。手には薄いファイルを持っている。


「おはようございます」


「おはよう、結城さん。霧島部長も」


 三上さんの声は落ち着いていた。けれど、ファイルを持つ指に少しだけ力が入っているのが見えて、私は背筋を伸ばし直す。


「三上さんまで……」


「同席はしないわ。念のため、土曜日の入館記録と会議室予約の控えを持ってきただけ。白石さんは“印象”で話を進めることがあるから」


 印象。


 その言葉が、妙に重かった。


 恋愛かどうか。特別扱いかどうか。上司と部下として適切かどうか。


 事実より先に、周りの目が名前をつけることがある。


 七年前、部長は私の気持ちに勝手に名前をつけた。若いから、守るべきだから、巻き込んではいけないから。


 今度は会社が、私たちの距離に別の名前をつけようとしているのかもしれない。


「結城さん」


 三上さんが私にファイルを差し出した。


「あなたが答えるべきことだけ答えればいい。答える必要のないことまで差し出さなくていいから」


「はい」


「それと、怖くなったら一度水を飲みなさい。沈黙は負けじゃないわ」


 その実務的すぎる励ましに、少し笑いそうになった。


 でも助かる。ものすごく助かる。恋愛相談も仕事の危機管理も、三上さんはいつも温度がちょうどいい。


 ノックの音が廊下に響いた。


「どうぞ」


 中から返った声は、思ったより穏やかだった。


 白石部長代理は、大きな机の向こうで書類に目を落としていた。五十代らしい落ち着いたスーツ姿。穏やかな顔つきなのに、視線だけが妙に細かく人を測る。


「朝からすまないね、結城さん。霧島部長も、同席を希望されたと聞いています」


「はい。部下に関する確認でしたので」


「過保護ですね」


 さらりと投げられた言葉に、空気が一段冷える。


 部長は表情を変えなかった。


「管理責任です」


 管理責任。


 上司の言葉としては正しい。正しいのに、胸のどこかがちくりとした。


 私はその痛みを、今は横に置く。


 白石部長代理は眼鏡を外し、私に視線を移した。


「結城さん。土曜日、本社に入館していますね」


「はい」


「目的は?」


「週明け提出分の企画書の修正です。第一会議室を使用しました」


「霧島部長と二人で?」


「途中からです。資料の確認と、企画内容について相談しました」


 声は震えていない。


 よし。えらい。自分で自分を小さく褒める。今の私は、会議室で議事録を読むくらいの落ち着きで話せている。たぶん。心拍数だけなら全力坂道ダッシュだけど。


「業務時間外に、上司と部下が二人きりで会議室にいる。誤解を招くとは思いませんでしたか」


 来た。


 胸の奥がぎゅっと縮む。


 部長が何か言いかけた気配がした。でも私は、その前に口を開いた。


「思慮が足りませんでした」


 部長の気配が止まる。


 白石部長代理の眉が少し上がった。


「認めるんですね」


「はい。ただ、業務上必要な確認でした。私的な目的で会社の設備を使用したわけではありません」


 言い切る。


 だって、それは事実だ。


 七年前の話をした。怒った。謝られた。胸が熱くなった。


 でもそれを、この場に差し出す必要はない。三上さんの言った通りだ。答えるべきことと、守るべきことは違う。


 白石部長代理は机の上の紙を一枚めくった。


「最近、企画部内で霧島部長が結城さんを特別に見ているのではないか、という声があります」


 胃が、床に落ちた気がした。


 誰が。


 いつから。


 頭の中でいくつもの顔が浮かんでは消える。あかね、羽田くん、隣のチームの人、会議で一緒になった営業の誰か。


 違う。今それを探しても仕方ない。


「特別、というのは具体的にどういう意味でしょうか」


 自分の声が、思ったより硬い。


「案件の割り振り、レビューの頻度、残業時の同席。若手の中には、不公平だと感じる者もいるかもしれません」


 若手。


 その単語に、羽田くんの顔が浮かんでしまった。


 まっすぐで、いい子で、私のことを好きだと言ってくれた後輩。


 違う。羽田くんが言ったと決まったわけじゃない。決めつけるな、私。


 部長が静かに口を開いた。


「案件の割り振りは、各自の経験と進捗に基づいています。結城には前職での制作経験があり、今回の企画に必要な視点があった。レビュー頻度は案件難度によるものです」


「なるほど。では結城さんは、霧島部長から不適切な接触や圧力を受けたことはありませんか」


 不適切。


 その言葉が、まるで冷たい水のように落ちてきた。


 傘の下で近かった距離。屋上で向き合った時間。会議室で聞いた七年前の真実。


 どれも私にとっては、大切で、痛くて、やっと手にした言葉だった。


 でも会社の書類の上では、一瞬で別の形に切り取られる。


 私は膝の上で手を握った。


「ありません」


 はっきり言った。


「霧島部長は、上司として必要な指導をしています。私が困ったときに助けていただいたことはありますが、それを圧力だと感じたことはありません」


 白石部長代理は私を見ていた。


 私は逃げなかった。


 七年前、理由を聞けなかった私。日曜の夜、怖くて眠れなかった私。今朝、エレベーターの鏡で硬い顔をしていた私。


 全部連れて、ここに座っている。


「ただ」


 自分の口から出た言葉に、自分で少し驚いた。


 部長の視線が横から届く。


「誤解を招く行動があったなら、私自身も改めます。今後、業務時間外の打ち合わせは原則複数名で行う、会議室利用の目的を記録するなど、必要なルールがあれば従います」


 これは逃げではない。


 隠すためでもない。


 私がこの会社で、ちゃんと仕事を続けるための言葉だ。


 白石部長代理はしばらく黙っていた。それから、ゆっくり眼鏡をかけ直す。


「結城さんは、思ったより冷静ですね」


 思ったより、は余計です。


 心の中でだけ丁寧に突っ込む。口に出さない私は大人だ。二十六歳、社会人六年目です。


「今日のところは確認です。処分や注意を決める段階ではありません」


 肩の力が、少し抜けかけた。


 その瞬間だった。


 白石部長代理が、机の端に置いていたもう一枚の紙をこちらへ滑らせた。


「ただ、念のため関係者にも聞き取りをします。まずは、同じ案件に入っている羽田蓮くんから」


 息が止まった。


 紙の上には、面談予定の欄があった。


 十一時三十分、羽田蓮。


 私の指先から、血の気が引いていく。


 白石部長代理は淡々と続けた。


「結城さん、あなたも同席してください。彼の口から、あなたと霧島部長の関係について聞きます」


(第44話へ続く)

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