怒ってもいいですか
同意書。
その単語は、仕事で聞く「確認書」や「申請書」とは重さが違った。
紙一枚なのに、そこに人の体温も、命も、未来も、全部のしかかっているみたいで。
私は、言葉を失ったまま、霧島部長の手を見ていた。
七年前、葵さんの治療方針に同意する書類へサインした手。
その同じ手が、あの日、私に紺色の傘を差し出した。
そして、私の告白を断った。
頭では、別々の出来事だとわかっている。けれど胸の中では、雨粒みたいに全部が混ざって、どこから拭えばいいのかわからなかった。
「……そんな日に」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「私、告白したんですね」
言った瞬間、しまった、と思った。
責めたいわけじゃない。責められる立場でもない。なのにその言い方は、まるで七年前の私が、何も知らずに彼の傷口へ踏み込んだみたいで。
胸の奥で、昔の私が縮こまった。
十九歳の私。
傘の下で、震える声で、好きですと言った私。
あの子は、何も知らなかった。
知らなかったから、無邪気だった。無邪気だったから、残酷だったのかもしれない。
「結城」
霧島部長の声が、静かに落ちてきた。
「今、自分を責めたな」
「……責めた、というか」
「それは違う」
遮る声は強くなかった。けれど、逃げ道を塞ぐくらいには、はっきりしていた。
「君のせいじゃない」
私は紙コップを握る指に力を込めた。もう中のコーヒーはぬるくなっているのに、指先だけが熱い。
「でも、そんな大変な日に、私」
「君は何も知らなかった」
「はい」
「知らなかった人間が、誰かを好きだと言うことは、悪いことじゃない」
その言葉に、息が詰まった。
悪いことじゃない。
七年間、誰にも言われなかった言葉だった。
自分でも、言ってあげられなかった言葉だった。
「俺が言うべきだった」
部長は、閉じた手帳の表紙に指を置いた。古い革が、低い照明を吸い込んでいる。
「君の気持ちが迷惑だったわけじゃないと。俺の事情で、応えられないのだと。少なくとも、君が自分の気持ちを嫌いにならないように、言葉を尽くすべきだった」
「……言えなかったんですか」
問いかけたあとで、また胸が震えた。
聞いていいのかわからない。でも、聞かなければ、七年前の雨の中に置き去りにされたままの私が、いつまでも傘を閉じられない気がした。
部長は少し黙った。
土曜の本社は静かだった。廊下の向こうで空調が低く鳴り、会議室の窓には曇った街が映っている。雨はまだ降っていないのに、ガラスの外側は灰色で、あの日の空を薄く重ねたみたいだった。
「言えなかった、というより」
部長は、自分の言葉を選ぶように目を伏せた。
「言わない方が正しいと思っていた」
「正しい……」
「当時の俺は、葵の治療費と仕事で頭がいっぱいだった。病院からの電話に出られるように、夜も携帯を握ったまま眠っていた。会社では普通の顔をして、病院では家族の顔をして、家に帰ると、誰もいない部屋で次の支払いの計算をしていた」
淡々とした声だった。
淡々としているからこそ、胸に刺さった。
大げさに語らない人だ。自分の痛みを、他人に見える形で広げない人だ。だからきっと、当時も誰にも助けてと言えずに、ぎりぎりのところで立っていたのだろう。
三上さんが「戦友」と呼んだ意味が、遅れて私の中に沈んでいく。
「そんな生活に、誰かを入れる余白はなかった」
余白。
いつか葵さんが言っていた、五分だけの余白。
その言葉が、別の重さで胸に戻ってきた。
「まして、君は十九歳だった」
部長は続けた。
「大学に入ったばかりで、これからいくらでも選べる人だった。俺は三十一で、家族のことで身動きが取れなくて、先のことも約束できない。そんな俺が、君の気持ちに甘えるのは違うと思った」
「甘える……」
「君は優しいから、事情を知れば、引かなかったかもしれない」
胸が、きゅっと狭くなる。
たぶん、引かなかった。
十九歳の私は、何もできないくせに、何かしたいと言ったと思う。病院の場所を聞いて、できもしない支えになろうとして、勝手に傷ついて、勝手に泣いて、それでもそばにいたいと言ったかもしれない。
想像できてしまうから、苦しかった。
「それを、怖いと思った」
部長の声が、ほんの少し掠れた。
「君に背負わせたくないと言いながら、本当は、俺が怖かった。君の明るさに救われてしまうことも、君が俺の現実を知って離れていくことも、どちらも怖かった」
私は、何度も瞬きをした。
泣く場面じゃない。ここは会議室で、私は社会人で、彼は上司で、目の前にはぬるくなった紙コップがある。
なのに、まぶたの裏に、雨のにおいが戻ってくる。
「じゃあ、あの日」
声が震えた。
「私のこと、面倒だと思って断ったんじゃ、ないんですか」
七年間、何度も心の中で繰り返した問いだった。
聞くのが怖くて、聞けなくて、勝手に答えを作って、勝手に傷を深くしてきた問い。
部長は、すぐには答えなかった。
その沈黙に、心臓が変な跳ね方をする。
やめて。ここで長く黙らないでください。私の心臓は、会議室仕様ではありません。業務用でもありません。個人所有の小型で繊細なやつです。
心の中で必死にふざけたのに、全然笑えなかった。
やがて部長は、ゆっくりと顔を上げた。
「面倒だと思ったことは、一度もない」
それだけで、胸の奥の何かがほどけそうになった。
「ただ、眩しかった」
「まぶ……」
「君は、俺が失くしたと思っていた普通の日々の中にいた。写真の話をして、課題で悩んで、缶コーヒーの甘さに文句を言って、雨の日に走って笑っていた」
どうして、そんな細かいことまで覚えているんですか。
聞きたいのに、声にならない。
私の中の七年前が、彼の中にも別の形で残っていた。
それがうれしいのか、苦しいのか、まだ選べなかった。
「だから、余計に線を引かなければと思った」
部長は自嘲するように、ほんの少し息を吐いた。
「正しい判断のつもりだった。今考えれば、君を信用していなかったんだと思う」
「私を?」
「ああ。君が自分で選べる人間だと、見ていなかった。若いから守らなければならないと決めつけて、理由を奪って、納得する機会も奪った」
その言葉は、優しさよりも痛かった。
でも、痛いのに、どこかで息ができた。
七年前の私は、子ども扱いされたのだ。
拒絶されたのではなく、迷惑がられたのでもなく、守るという名目で遠ざけられた。
それはやっぱり傷つく。ちゃんと腹も立つ。今さらですが、霧島湊さん、だいぶ不器用すぎませんか。氷の部長というより、冷凍庫に説明書を入れ忘れた人では。
でも同時に、初めて傷の形が見えた。
形が見えると、痛みは少しだけ、名前を持つ。
「私、怒ってもいいですか」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
部長は、わずかに目を見開いた。
「もちろんだ」
「じゃあ、怒ります」
「ああ」
「七年前の私は、たぶん、理由を聞きたかったです」
言いながら、喉が熱くなる。
「重いなら重いって言ってほしかった。無理なら無理って、ちゃんと説明してほしかった。勝手に守られて、勝手に遠ざけられて、勝手に私のためみたいにされたのは、嫌です」
最後の一言で、声が少し震えた。
でも、言えた。
ずっと胸の底に沈めていた言葉を、七年越しに、やっと地上へ出せた。
部長は逃げなかった。
言い訳もしなかった。
ただ、深く頭を下げた。
「すまなかった」
上司が部下に、会議室で頭を下げている。
普通なら慌てる場面だ。やめてください部長、社内規定的にどうなんですか、とか言うべきかもしれない。
でも今だけは、止めなかった。
七年前の私が、やっと謝られた気がしたから。
「……はい」
私は小さく息を吸った。
「受け取ります。でも、すぐ全部なかったことにはできません」
「それでいい」
「あと」
私は紙コップを置いた。指先が少し震えている。でも、さっきよりはましだった。
「今の私も、勝手に守られるのは嫌です」
部長の肩が、ほんの少し動いた。
私はまっすぐに彼を見る。
「部下だからとか、年下だからとか、そういう理由で、私に何も言わないのはやめてください。私、もう十九歳じゃありません」
言ってから、耳が熱くなった。
しまった。かっこよく決めたつもりなのに、最後だけ妙に宣言っぽい。いや、でも本当のことだ。二十六歳です。税金も払っているし、残業代の計算もできます。たまに洗濯物を取り込むのは忘れますが、それは成人能力とは別問題です。
部長は、長い沈黙のあとで言った。
「わかった」
短い返事。
けれど、七年前の「ごめん」より、ずっと体温があった。
そのとき、低い振動音が沈黙を破った。
部長のスマートフォンだった。
画面を伏せていたそれが、机の上で二度震える。
部長は一瞬迷ってから、手に取った。表示を見た途端、その表情が仕事の顔に戻る。
「三上からだ」
「三上さん?」
土曜の本社。七年前の話。そこに三上さんの名前が落ちて、空気が少し変わった。
部長は短くメッセージを読んだあと、私に画面を向けた。
そこには、三上さんからの一文が表示されていた。
『白石部長代理が、月曜朝に結城さんを呼ぶと言っています。霧島部長との件で確認したいことがあるそうです』
心臓が、別の意味で跳ねた。
霧島部長との件。
その言葉が、会議室の静けさを一瞬で現実の職場へ引き戻す。
部長はスマートフォンを伏せた。
そして、七年前ではなく今の私を見て、低く言った。
「月曜の朝、君を一人では行かせない」
(第43話へ続く)




