逃げないための八時三十分
月曜の朝は、いつもより三十分早く会社に着いた。
まだ照明の半分しかついていない企画部フロアは、休日明けの匂いがした。コピー機の待機音、誰かが置きっぱなしにした付箋、窓の外に残る薄い雲。
私は自分の席にバッグを置き、まず修正版の企画書を開いた。
逃げないための予定は、八時三十分。
でも、その前に仕事から逃げたら、それはもう全面的に私の負けである。
いや、何と戦っているのか。自分の心臓か。心臓、強敵すぎる。
画面の右下の時計は、八時十四分。
私は深呼吸して、修正版のファイルを部長宛てに送信した。件名、添付、本文。三回確認してから、送信ボタンを押す。
すぐに既読がついたわけではない。
当たり前だ。部長はまだ部長室にいるかどうかもわからない。
そう思った瞬間、斜め前の部長室の扉が内側から開いた。
「結城」
「はいっ」
声が裏返った。
月曜の朝から、社会人としてかなり残念な音が出た。
霧島部長はいつもの紺のスーツで、片手にタブレットを持っていた。表情は普段通りに見える。けれど、目の下に少しだけ疲れがある気がした。
「修正版、受け取った。八時三十分に確認する」
「はい。よろしくお願いします」
仕事の返事はできた。
なのに、喉の奥が変に乾く。
部長室の扉が一度閉まる。私は席でファイル名を見つめたまま、残りの十五分を過ごした。
長い。
会議前の十五分より、終電前の十五分より、はるかに長い。
八時二十九分。
私は立ち上がった。膝が少しだけ頼りない。バッグからノートを取り出そうとして、やめた。
これは議事録じゃない。
メモを取れば冷静になれるかもしれないけれど、たぶん、書き留める前に聞かなきゃいけないことがある。
部長室の扉をノックすると、中から短く「入れ」と返ってきた。
「失礼します」
部屋の中は、いつもより少し明るかった。ブラインドが半分上がっていて、朝の光が机の端に落ちている。
応接用の小さなテーブルには、紙コップが二つ置かれていた。
片方から、湯気が上がっている。
「座って」
「はい」
向かいの席に座ると、部長が私の前に紙コップを滑らせた。
「熱い。気をつけろ」
「……ありがとうございます」
甘さ控えめのカフェオレだった。
自販機の紙コップなのに、なぜか七年前の缶コーヒーを思い出してしまう。湯気の向こうで、私の指先が小さく震えた。
部長はタブレットを閉じた。
「企画書は、よく直っている」
「ありがとうございます」
「白石部長代理に再提出しても問題ない。午後の定例で俺からも補足する」
仕事の話。
ほっとする。
同時に、少しだけ怖くなる。
このまま仕事の話だけで終わったら、私はまた逃げ道を見つけてしまうかもしれない。
部長も、たぶん同じことを考えていた。
短い沈黙のあと、彼は紙コップに触れずに言った。
「ここからは、業務外の話だ」
心臓が、一段高いところから落ちたみたいに鳴った。
「はい」
「嫌になったら、止めていい。答えたくないことは答えなくていい」
「それは、部長もですか」
つい聞き返すと、部長は一瞬だけ黙った。
「……俺も、逃げない範囲で答える」
「逃げない範囲って、便利な言葉ですね」
「今、自分でもそう思った」
その返事があまりにも真面目で、少しだけ息が抜けた。
けれど、笑うには胸がいっぱいだった。
私は紙コップを両手で包んだ。熱が手のひらに移ってくる。氷の部長が用意した飲み物は、いつもちゃんと温かい。
「私から、聞いてもいいですか」
「ああ」
七年前の雨の日。
大学の門の近く。濡れたアスファルト。紺色の傘。どうしようもなく好きで、どうしようもなく怖かった、あの瞬間。
ずっと聞けなかったことがある。
聞いたら、私の七年が変わってしまう気がしていた。
でも、変わらないために守ってきたものは、もうだいぶ傷だらけだ。
「再会した日」
声がかすれた。
私は一度息を吸って、言い直す。
「私が中途入社して、初めて挨拶した日。部長は『初対面だよね』って言いました」
部長の指が、机の上で止まる。
「はい」
「覚えて、いましたか」
聞いた。
たったそれだけの言葉なのに、体の奥から熱が引いていく。
この質問はずるい。
覚えていなかったと言われたら、七年前の私は本当にひとりで雨の中に立っていたことになる。
覚えていたと言われたら、今度は、どうして嘘をついたのかを知らなきゃいけなくなる。
どちらに転んでも痛い。
それでも、私は紙コップから手を離さなかった。
部長は、逃げなかった。
「覚えていた」
短い答えだった。
なのに、その一言で、胸の奥にあった古い鍵が音を立てた。
覚えていた。
私だけじゃなかった。
あの雨の日は、私の中だけに残っていたわけじゃなかった。
目の奥が熱くなる。泣くな、私。八時三十分の部長室で泣くのは、業務外にもほどがある。
「……最初から、ですか」
「ああ。エントランスで名前を聞いた時点で、わかった」
「じゃあ、どうして」
声が少し強くなった。
責めたいわけじゃない。
でも、責めたい気持ちが一ミリもないと言ったら嘘になる。
七年分の寂しさは、そんなに行儀よく並んでくれない。
「どうして、初対面のふりをしたんですか」
部長は、私から目をそらさなかった。
「君が、俺の部下になったからだ」
「それだけですか」
今度は、彼が息をのむ番だった。
私は自分の声に驚いていた。怖いくせに、踏み込んでいる。
逃げないって、こんなに足場が悪いんだ。
「それだけじゃない」
部長の声は低かった。
「上司として、過去を持ち出すべきじゃないと思った。君が俺のことを忘れている可能性もあった。もし覚えていたとしても、俺から言えば、君に答えを迫る形になる」
「はい」
「そこまでは、たぶん間違っていない」
彼は自分の言葉を、一つずつ机に置くみたいに続けた。
「だが、それを理由にすれば、自分が逃げていることも隠せた」
胸が痛んだ。
私の逃げ癖は、明るさとか丁寧語とか、そういうわかりやすい形をしている。
部長の逃げ癖は、正論の顔をしているのかもしれない。
「七年前の俺は、君にちゃんと断らなかった」
「ちゃんと、ですか」
「ああ」
部長は、そこで初めて紙コップを持った。飲むのではなく、ただ温度を確かめるように。
「君の気持ちに応えられない、とだけ言った。理由を言わなかった。言えば君を巻き込むと思っていたし、言わない方が君のためだと思っていた」
あの日の声がよみがえる。
ごめん。
君の気持ちには応えられない。
たったそれだけ。
私は、そこに自分で理由を足した。
迷惑だったんだ。
重かったんだ。
私の好きは、人の負担になるんだ。
「私、ずっと」
言いかけて、喉が詰まる。
部長の眉がわずかに動いた。
「ゆっくりでいい」
その言い方が、困る。
優しいのに、不器用で、距離を取っているのに、ちゃんとこちらを見ている。
七年前にそれを見せてくれていたら、私はきっと、もっと泣いて、もっと怒って、でも自分の気持ちをそこまで嫌いにならずに済んだかもしれない。
「ずっと、迷惑だったんだと思ってました」
言葉にした瞬間、胸の奥がひりついた。
「若かったし、何も知らなかったし。私の好きって、相手にとって重いものだったんだって。だから、できるだけ軽くしようって思って」
明るくする。
笑ってごまかす。
先に引く。
好きになりすぎる前に、逃げる。
そうやって作ってきた私を、霧島部長は黙って聞いていた。
やがて、彼ははっきりと言った。
「迷惑ではなかった」
時間が止まった。
「君の気持ちは、迷惑ではなかった」
二度目は、少しだけ強かった。
私は紙コップを握りしめた。熱い。熱いのに、離せない。
「……じゃあ、どうして」
その先を聞くのが怖い。
でも、もう質問は戻せない。
部長は机の引き出しを開けた。取り出したのは、黒い革の手帳だった。今使っているものではない。角が擦れて、ページの端が少し波打っている。
「七年前の手帳だ」
「持ってたんですか」
「捨てられなかった」
その言葉に、心臓が小さく跳ねた。
捨てられなかったもの。
私にもある。
紺色の傘。
けれど、今ここでそれを言う勇気はまだなかった。
部長は手帳を開き、一箇所で指を止めた。私に見せるわけではなく、自分で確認するように視線を落とす。
「君に告白された日」
私は息を止めた。
「あの日、俺は病院から大学に向かった」
「病院……」
「葵の主治医と話していた」
葵さん。
明るくて、遠慮がなくて、兄のことを雑に心配する、あの人。
七年前の彼女は、病室にいた。
知っていたはずなのに、具体的な日付と重なると、急に景色が変わった。
あの雨の日、私が傘の下で震えていた時間に、霧島部長は別の場所で、別の重さを抱えていた。
「その日は」
部長の声が、少しだけ低くなる。
「葵の治療方針を変えるかどうか、家族として決めなければならない日だった」
部屋の空気が、静かに沈んだ。
コピー機の音も、廊下の足音も、遠くなる。
私は、何も言えなかった。
部長は手帳を閉じた。
そして、初めて紙コップから手を離し、まっすぐに言った。
「七年前のあの雨の日、俺は葵の同意書にサインした帰りだった」
(第42話へ続く)




