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逃げないための企画書

 土曜日の本社は、平日とは別の建物みたいだった。


 照明は半分だけ点いていて、エントランスの床だけが妙に白く光っている。受付の人も少なく、エレベーターの到着音が、いつもより大きく響いた。


 私は資料の入ったバッグを抱え直す。


 隣を歩く霧島部長は、いつもの黒いスーツ姿だった。休日にまで完璧に仕事の顔をしているのが、らしいと言えばらしい。


 でも私は知ってしまった。


 この人が、七年前の写真を捨てられずにいたこと。


 写真の中で、私の横顔を見ていたこと。


 知ってしまったあとで隣に立つと、たった数十センチの距離が、とんでもなく危険な幅に感じる。


 仕事。仕事だ、結城ひなた。


 今ここで胸を押さえている場合ではない。


「資料、確認する時間はあるか」


 エレベーターに乗る直前、部長が低く言った。


「はい。十五分くらいなら」


「白石さんは数字を突いてくる。想定より根拠を聞かれたら、補足資料の三枚目を使え」


「三枚目、ですね」


「俺が説明してもいいが」


 その言葉に、私は顔を上げた。


 部長は、淡々としているように見えた。けれど、その目の奥に、私を案じる色がある。


 守られるのは、嬉しい。


 たぶん、ものすごく嬉しい。


 でも、守られた場所からしか見えない景色があるように、自分で立たないと越えられない場所もある。


「私が話します」


 言い切ると、喉が少し乾いた。


「部長は、足りないところがあったら助けてください」


 部長は一瞬黙ったあと、短く頷いた。


「わかった」


 たったそれだけなのに、背中を押された気がした。


 会議室には、白石部長代理と、経営企画の課長が二人座っていた。休日出勤の空気とは思えないほど、机の上には資料がきっちり並んでいる。


 白石部長代理は、私を見るなり眉を上げた。


「結城さんも来たのか」


「はい。担当者として説明させていただきます」


「休日だが」


「私の企画ですので」


 自分の声が思ったより震えていなくて、少し驚いた。


 白石部長代理は、ふん、と鼻で息を落とす。


「では、聞こうか」


 そこからの三十分は、正直あまり記憶がない。


 いや、ないというのは嘘だ。


 全部、変に鮮明だった。


 プロジェクターの光。手元の紙の角。白石部長代理がペンで机を叩く音。経営企画の課長が、数字のページでだけ身を乗り出したこと。


 私は、企画の狙いを説明した。


 既存顧客の離脱率。試算した購入頻度。広告費を抑えた場合の導線。現場から拾った声。


 何度か言葉が詰まりかけた。


 そのたびに、視界の端に霧島部長の手元が入った。


 彼は口を挟まなかった。


 ただ、私が補足資料に移るべきタイミングで、ほんの少しだけペン先を三枚目に向けた。


 それだけ。


 でも、それで十分だった。


 助けてもらっているのに、奪われていない。


 私の言葉は、ちゃんと私のものとして置かれている。


「つまり」


 白石部長代理が、資料を一枚めくった。


「この企画は、若手社員の感覚頼みではないと?」


 きた。


 心の中で、あかねが「はい来たー!」と叫んだ気がした。ありがとう、脳内あかね。今は黙っていて。


「はい」


 私は、補足資料の三枚目を出した。


「感覚ではなく、過去三年の購買データと、直近二か月の問い合わせ内容をもとにしています。若年層向けの切り口に見えますが、実際の想定購買層は三十代後半から四十代前半です」


「根拠は」


「こちらです」


 指先が震えた。


 でも、紙は落とさなかった。


 白石部長代理は資料に目を通し、しばらく黙った。会議室の空調音だけが聞こえる。


 沈黙が長い。


 長すぎる。


 心臓が、机の上に飛び出しそうだ。飛び出したらどうする。議事録に「結城、心臓を提出」と書かれる。嫌すぎる。


「霧島部長」


 白石部長代理が、急に矛先を変えた。


「君はこの企画を通すつもりか」


 部長は、迷わず答えた。


「通す価値があります」


「君の評価ではなく、会社としての判断を聞いている」


 その言い方に、胸の奥がひやりとした。


 会社として。


 つまり、感情を挟むな、という意味に聞こえた。


 私は、膝の上で拳を握る。


 部長は表情を変えなかった。


「会社として、試す価値がある数字です。担当者の説明も十分です」


「担当者の説明、ね」


 白石部長代理の視線が、私に戻る。


「結城さん。君は霧島部長の推薦でこの企画に入ったと聞いている」


 呼吸が止まりかけた。


 推薦。


 その言葉が、会議室の空気を少しだけ濁らせる。


 私の実力じゃない、と言われたみたいだった。


 部長が何か言いかける気配がした。


 その前に、私は口を開いた。


「はい。最初に機会をいただいたのは、霧島部長からです」


 声が、少しだけ震えた。


 でも、逃げない。


「ですが、この企画の調査、仮説、資料作成は私が担当しました。足りない部分はご指摘いただきたいです。霧島部長の推薦ではなく、企画の中身で判断していただきたいです」


 言い終えた瞬間、指先が冷たくなった。


 言った。


 言ってしまった。


 会社の上層部相手に、私は今、わりと生意気なことを言ったのでは。


 胃が縮む。ついでに身長も縮んだ気がする。たぶん三センチくらい。


 白石部長代理は、じっと私を見た。


 やがて、資料を机に置く。


「月曜の会議にかける」


 その一言で、肩から力が抜けそうになった。


 でも、まだ終わりじゃない。


「ただし、予算は当初案の七割だ。その条件で再提出。月曜朝一番までに修正版を出せ」


「承知しました」


 即答したあとで、月曜朝一番、という言葉の重さが遅れて落ちてきた。


 今日は土曜日。


 つまり、明日は日曜日。


 休日とは。


 日本語辞典を引き直したい。


 会議室を出た瞬間、私は廊下の壁に背中を預けたくなった。けれど、本当にやったら立てなくなる気がして、必死に踏みとどまる。


「結城」


 部長の声がした。


「はい」


「よく言った」


 たった五文字だった。


 けれど、その五文字は、今日のどんな承認よりまっすぐ胸に届いた。


 私は、変な顔になりそうで、慌てて資料を見下ろす。


「ありがとうございます。でも、七割です。七割って、けっこう削れますよね」


「ああ」


「ですよね。ですよねじゃない。どうしよう」


「今からやれば間に合う」


「部長、休日という概念をご存じですか」


「知っている」


「知っていてその発言」


 思わずいつもの調子で返してしまい、はっと口を押さえた。


 部長が、ほんの少しだけ目元をゆるめる。


 やめてほしい。


 その顔は、会議後の疲れた心臓に効きすぎる。


「休憩するか」


「……五分だけ、ください」


 そう言うと、部長は何も聞かずに非常階段のほうへ歩いた。


 ついていくと、屋上へ出る扉の前で立ち止まる。


「風に当たるだけだ」


「はい」


 屋上に出ると、空は雨上がりの薄い灰色だった。


 水たまりに、午後の光がぼんやり映っている。昨日の雨の匂いが、まだ少し残っていた。


 私は手すりの近くまで歩いて、息を吐いた。


 逃げなかった。


 逃げずに、言えた。


 その事実が、今さら怖くなってくる。


「私」


 自分でも驚くほど、小さな声が出た。


「さっき、部長が言ってくれるのを待ちそうになりました」


 隣に立つ部長は、黙って聞いている。


「白石部長代理に、推薦のことを言われたとき。部長なら、きっとちゃんと返してくれるって思って。それで一瞬、後ろに隠れたくなりました」


 手すりを握る。


 冷たい金属が、手のひらに食い込んだ。


「でも、それをしたら、七年前と同じだと思ったんです」


 部長の気配が、わずかに変わった。


 私は、空を見たまま続ける。


「傷つくのが怖くて、聞かなかった。怖いから、明るくしてごまかした。怖いから、丁寧語で距離を取った」


 胸の奥に、ずっとしまっていた言葉がある。


 雨の日から、七年分。


「私は、霧島部長の前だと逃げたくなります」


 言ってから、心臓が跳ねた。


 これは、仕事の話じゃない。


 でも、恋の告白でもない。


 もっと手前の、情けなくて、みっともない本音だ。


「逃げたくなるのに、逃げたくないです」


 風が吹いた。


 書類を入れたバッグの持ち手が、腕に当たる。


 部長はしばらく黙っていた。


 沈黙が怖い。


 でも、今度は自分から埋めない。


 やがて、彼は低く言った。


「俺もだ」


 息が止まった。


「俺も、逃げていた」


 その声は、会議室で白石部長代理に返したときより、ずっと静かだった。


「君を守るためだと思っていた。立場を考えた結果だとも思っていた。だが、それだけじゃない」


 部長は、手すりの上に置いた自分の手を見下ろす。


「俺は、七年前の自分を見られるのが怖かった」


 胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。


 七年前の続き。


 その扉の前まで、私たちは来ている。


 でも、まだ全部は開かない。


 開けてしまえば、何かが変わる。


 変わるのが怖いのは、きっと私だけじゃない。


「霧島部長」


「何だ」


「私は、聞きます」


 声は震えていた。


 それでも、逃げ道にはしなかった。


「怖くても、ちゃんと聞きます。だから、部長も……途中で仕事に逃げないでください」


 言った瞬間、しまったと思った。


 上司に向かって、なんてことを。


 しかし部長は怒らなかった。


 むしろ、痛いところを突かれた人みたいに、少しだけ息を吐いた。


「努力する」


「そこは断言してください」


「……逃げない」


 短い言葉だった。


 けれど、今の私には十分すぎた。


 屋上の風が、頬の熱を少しだけさらっていく。


 私はバッグからスマートフォンを取り出した。震える指で、カレンダーアプリを開く。


「じゃあ、予約します」


「予約?」


「逃げないための予定です。月曜は朝一番で修正版提出なので、そのあと」


 仕事の予定みたいに言えば、少しだけ怖くない。


 いや、普通に怖い。


 でも、怖いまま指を動かした。


 月曜、八時三十分。


 場所は、部長室。


 件名を入力するところで、手が止まる。


 七年前のこと。


 そう打つには、指先が震えた。


 けれど私は、消さなかった。


 保存ボタンを押す。


 すぐ隣で、部長のスマートフォンが小さく震えた。


 画面に表示された通知を見て、彼が息をのむ気配がした。


 私は顔を上げずに言った。


「月曜の八時半、逃げたら欠席扱いにします」


 霧島部長は、少し間を置いて答えた。


「了解した。欠席はしない」


 その声が、雨上がりの屋上に静かに落ちた。


 私はようやく、手すりから手を離した。


(第41話へ続く)

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