灯の席で、名前を呼ぶ
土曜日の朝、私はクローゼットの前で十五分固まった。
仕事の打ち合わせなら、迷わない。白いブラウスに紺のジャケット、足元は歩きやすいパンプス。資料を入れるバッグは黒。以上。社会人の制服は強い。考える余白を奪ってくれる。
でも今日は違う。
古い喫茶店、灯。十一時。仕事の資料も持ってきていい。ただし、先に個人的な話をする。
昨日の霧島部長の声が、朝からずっと耳の奥に残っていた。
個人的な話。
その単語だけで、心臓が勝手に会議室から屋上まで全力疾走する。落ち着け。私は二十六歳の社会人。土曜日に上司と喫茶店で話すくらいで、服に人生を委ねるな。
そう思いながら、結局、淡い水色のブラウスを選んだ。七年前の私なら、たぶん白いワンピースを選んでいた。憧れの人に少しでも可愛く見られたくて、雨の日に似合わない靴を履いて、見事に足を痛めた。
今の私は、ちゃんと歩ける靴を選ぶ。
それだけで、少しだけ大人になった気がした。
バッグに仕事の資料を入れる。迷った末に、古い紺色の傘は置いていった。
返すためではなく、見せるためでもなく。
今日は、傘に頼らずに行きたかった。
灯に着いたのは、十時五十分だった。
駅から少し外れた路地にあるその店は、相変わらず時間から半歩だけ取り残されている。木の扉、真鍮の取っ手、雨上がりの匂いが染みたような看板。ガラス窓の向こうで、低い照明がまだ昼前なのに夕方みたいな色をしていた。
扉を開けると、ベルが小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
マスターが顔を上げ、私に気づいて軽く会釈する。奥の二人席に、すでに霧島部長がいた。
早い。
予想はしていた。むしろ遅刻する霧島部長なんて、世界線が違う。でも十分前に来た私より先にいるのは反則だと思う。心の準備というものがある。
部長は黒いジャケットを椅子の背にかけ、薄いグレーのシャツ姿だった。会社より少しだけ柔らかいのに、背筋はいつも通りまっすぐで、テーブルの上には封筒と小さなメモ帳が置かれている。
仕事の匂いがする。
でも、彼の前にはコーヒーが二つあった。
片方は、まだ手つかずのミルク入り。
「早かったな」
「部長こそ」
「落ち着かなかった」
さらりと言われて、私は椅子を引く手を止めそうになった。
ずるい。
こういうところだ。冷たい顔で、急に体温のある本音を差し込んでくる。こちらの防御姿勢が間に合わない。
「私もです」
どうにか座って答えると、部長は一瞬だけ目を伏せた。
「だろうな」
「そこで納得されるのも複雑です」
「悪い」
謝り方が速い。仕事なら助かる速度だけど、今は少し困る。怒る暇がない。
私はミルク入りのカップを見た。
「これ、私のですか」
「ああ。甘すぎないほうがよかったと思って」
胸の奥が、きゅっと縮む。
甘すぎない。
七年前、大学の自販機の前で、私が何気なく言った言葉。甘いのは好きだけど、甘すぎる缶コーヒーは少し苦手。そんな、本人ですら忘れかけていた小さな好み。
この人は、覚えている。
忘れたふりをしていたくせに、こういうところだけずっと残している。
「……ありがとうございます」
カップを両手で包むと、指先に温度が移った。昨日の屋上で触れた手のひらを思い出してしまい、慌てて視線をコーヒーに落とす。
湯気まで余計な仕事をしないでほしい。雰囲気を作るな。私はまだ平常心の出勤打刻を済ませていない。
部長はしばらく黙っていた。
会社の沈黙は怖い。判断を待つ沈黙だから。
でも、この店の沈黙は違う。逃げ場を作ってくれているような静けさだった。マスターが豆を挽く音、遠くの席で新聞をめくる音、カップが皿に触れる小さな音。全部が、急がなくていいと言っているみたいだった。
「結城」
「はい」
「今日は、部長として話す時間と、個人として話す時間を分けたい」
その言い方に、背筋が伸びる。
「はい」
「仕事の話は後でいい。先に、昨日言ったことを話す」
私はカップから手を離し、膝の上で指を重ねた。
逃げない。
今日は、逃げない。
部長は封筒には触れなかった。ただ、テーブルの木目を見るように視線を落とした。
「七年前、君に言わなかったことがある」
心臓が一拍、遅れる。
「俺は、君を覚えていた」
知っていた。
昨日、ほとんど聞いたも同然だった。
それでも、本人の口からはっきり言われると、胸の奥にしまっていた七年分の箱が、一斉に音を立てて開くみたいだった。
大学の中庭。雨の匂い。濡れた前髪。紺色の傘。勇気を振り絞った自分の声。
ごめん。
君の気持ちには応えられない。
あの言葉だけが、ずっと私の中に残っていた。
「入社面接の資料で名前を見たとき、まさかと思った。初日に顔を見て、すぐにわかった」
「……じゃあ、どうして」
声がかすれた。
責めたいわけじゃない。でも、聞かずにいられなかった。
「どうして、初対面みたいに言ったんですか」
部長は答える前に、ゆっくり息を吐いた。
「卑怯だったからだ」
短い言葉だった。
でも、逃げていない言葉だった。
「俺は君の上司になる立場だった。過去を持ち出して、君の仕事に影響を与えるべきじゃないと思った」
「それは……わかります」
「だが、それだけじゃない」
部長の指が、カップの取っ手に触れて離れた。
「七年前の自分に、合わせる顔がなかった」
胸が痛んだ。
彼の声が、いつもより少し低い。
「あの日、俺は君の気持ちを、正面から受け取らなかった。傷つけないようにしたつもりで、いちばん傷つける断り方をした」
私は何も言えなかった。
違います、と言いたかった。
でも違わない。
あの日の私は、あの短い言葉でちゃんと傷ついた。泣かないように笑って、傘を返せないまま逃げた。自分の気持ちは誰かの迷惑になるのだと、勝手に心の奥へしまい込んだ。
その痛みを、なかったことにはしたくない。
同時に、この人がそれをわかっていたことにも、胸が揺れた。
「私、ずっと思ってました」
口に出した瞬間、膝の上の指に力が入った。
「私の気持ちが、重かったんだって。迷惑だったんだって。だから、社会人になってからも、誰かにちゃんと好きって思うのが怖かったです」
部長の顔が、静かに強ばった。
言い過ぎたかもしれない。
でも、ここで引いたら、また同じ場所へ戻ってしまう。
「でも、昨日思いました。私も忘れたふりをしていたんだと思います。傷ついたことも、まだ覚えていることも、全部」
喉が熱い。
泣きたいわけじゃない。泣いたら、この話が私の涙に回収されてしまいそうで嫌だった。
だから、息を整える。
「だから今日は、ちゃんと聞きに来ました」
部長は、私を見た。
会社で指示を出す時の目ではない。上司として評価する目でもない。
ただ、ひとりの人間として、私の言葉を受け取ろうとしている目だった。
「すまなかった」
その一言は、思っていたより重くなかった。
軽いという意味ではない。
私の肩に乗っていたものを、少しだけ彼が持ってくれたような重さだった。
「七年前の君の気持ちは、迷惑じゃなかった」
息が止まる。
「重荷でもなかった」
カップの湯気が揺れる。
店内の音が遠くなる。
「俺が、受け取る勇気を持てなかっただけだ」
七年前、いちばん聞きたかった言葉だったのかもしれない。
好きだったとか、どう思っていたとか、そんな答えより先に。
迷惑じゃなかった。
重荷じゃなかった。
その二つだけで、十九歳の私が、ようやく息をした気がした。
「……遅いです」
声が震えた。
「はい」
「七年遅いです」
「わかってる」
「わかってるなら、もう少し早く言ってください」
「本当に、その通りだ」
あまりにも素直に受け止めるから、怒りの置き場に困る。私は一度だけ鼻をすすり、慌ててカップを持った。
泣いていない。
これは湯気のせい。喫茶店の湿度のせい。もしくはコーヒー豆の粉塵。医学的根拠はないけど、今はそれで通す。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「七年前、どうして断ったのかは……今日、聞いてもいいことですか」
部長の指が止まった。
空気が、ほんの少しだけ変わる。
踏み込みすぎた、とすぐに思った。でも、聞くために来たのも事実だった。
部長はしばらく沈黙したあと、首を横に振らなかった。
「話す。だが、順番を間違えたくない」
「順番」
「俺の事情を話す前に、君に返すべき言葉があった。君の気持ちは迷惑じゃなかった。それを先に言わないまま事情を並べれば、また俺は言い訳をする」
胸の奥が、また少し痛む。
この人は不器用だ。
不器用で、たぶん真面目すぎて、順番を間違えると自分で自分を許せなくなる人だ。
でも、その真面目さに私は何度も振り回されている。そこは忘れてはいけない。ときめきで全部を美化するのは危険。脳内議事録に赤字で記載。
「じゃあ、次は聞かせてください」
私は言った。
「事情も、言い訳も、部長が言い訳にしたくないことも。私、勝手に結論を出したくないです」
部長が小さく息を吸った。
「結城」
「はい」
「その前に、俺から頼みがある」
頼み。
また心臓が身構える。仕事ではない頼み、というだけで危険度が高い。私の中の警報機が、控えめに鳴る。
部長はテーブルに置いていた封筒を、ようやく私のほうへ差し出した。
白い封筒。表には何も書かれていない。
「これは」
「七年前の写真だ」
指先が固まった。
「写真、ですか」
「ああ。大学の写真サークルで撮ったものが一枚だけ残っていた。君が写っている」
私は封筒を見つめた。
開けたい。
でも怖い。
十九歳の私がそこにいる。雨の日に告白して、傷ついて、それでもたぶん、まだ何も知らずに笑っている私。
「どうして、持っていたんですか」
問いかけると、部長は目を逸らさなかった。
「捨てられなかった」
静かな答えだった。
それだけで十分すぎるほど、心臓に悪かった。
私は封筒に触れた。紙は少し厚くて、角がきれいにそろっている。きっと何度も出して、何度も戻したのだろうと思った。そんな想像をしてしまう自分が、少し悔しい。
「今、見てもいいですか」
「君が見たいなら」
私は封を開けた。
中から出てきたのは、少し色あせた一枚の写真だった。
大学の中庭。新緑の季節。ベンチのそばで、私はカメラを首から下げて笑っている。今より少し頬が丸くて、髪も短い。隣には数人のサークル仲間がいて、その端に、三十一歳の霧島湊が立っていた。
会社の部長ではない。
氷の部長でもない。
少し若くて、今より柔らかい顔をした、私の初恋の人。
写真の中の私は、彼のほうを見ていない。
けれど彼は、カメラではなく、私の横顔を見ていた。
胸が、痛いほど鳴った。
「これ……」
「その写真を見つけたのは、葵の退院後だ」
葵さんの名前が出た瞬間、空気の温度が変わった。
私は顔を上げる。
部長は封筒の端を見つめていた。
「七年前の話には、葵のことが関係している」
ついに、そこへ触れるのだと思った。
玲子さんから聞いた。葵さん本人にも会った。けれど、霧島部長の口から、その時期の話を聞いたことはまだない。
私は写真を両手で持ったまま、ゆっくり頷いた。
「はい」
その時だった。
テーブルの上の部長のスマートフォンが震えた。
一度。
二度。
画面に表示された名前を見て、部長の表情が仕事のものに戻る。
白石部長代理。
嫌な予感がした。
部長は短く断って電話に出た。
「霧島です」
数秒の沈黙。
彼の眉間に、わずかにしわが寄る。
「今日ですか」
胸がざわついた。
土曜日。白石部長代理。今日。
よくない単語の組み合わせだ。
「……わかりました。十四時に伺います」
電話が切れる。
部長はスマートフォンを伏せ、私に向き直った。
「すまない。午後、急に本社へ呼ばれた」
「仕事、ですか」
「ああ。来週の企画会議の前倒しだ。白石部長代理が、君の担当企画について直接説明を求めている」
私の背中に、冷たいものが落ちた。
私の担当企画。
つまり、昨日まで必死に整えていた資料。まだ部長チェックの途中で、月曜に最終確認する予定だったもの。
「私も行きます」
言葉は、考えるより先に出ていた。
部長が少し目を見開く。
「土曜だ。君は休みだ」
「でも、私の企画です」
写真を封筒に戻し、バッグから資料を取り出した。
手は震えていた。でも、逃げる震えではなかった。
「部長だけに説明させたら、私はまた後ろに隠れることになります。仕事の話は後でいいって言いましたけど、今ならできます」
部長はしばらく私を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「わかった。同行してくれ」
その言葉に、胸の奥で何かが決まる。
七年前の話は、まだ途中だ。
でも私はもう、途中だからといって逃げない。
霧島部長は伝票を手に取り、立ち上がった。私も資料と封筒を抱えて席を立つ。
店を出る直前、部長が足を止めた。
「結城」
「はい」
「続きは、必ず話す」
私は、古い写真の入った封筒を胸に抱きしめた。
「はい。私も、必ず聞きます」
そう答えて、私は霧島部長と並んで、土曜日の本社へ向かった。
(第40話へ続く)




