雨の屋上で息をする
手首に触れた霧島部長の指は、冷たくなかった。
強くつかまれたわけじゃない。痛くもない。ただ、私が屋上へ続く扉を開ける前に、そこに一本の線を引くみたいに止められた。
外は雨だ。ひとりで行くな。
その言葉が、階段室の白い光の中で何度も反響する。
ひとりで。
行くな。
命令形なのに、胸の奥だけが妙にやわらかくなるのは反則だと思う。鬼上司のくせに、こういうときだけ言葉の温度調節が下手すぎる。
「……部長」
振り返ると、霧島部長は少し息を切らしていた。
ほんの少し。本当に、普段の彼なら隠しきれる程度の乱れだ。でも、私は見てしまった。ネクタイの結び目がわずかにずれていることも、会議用の資料らしき封筒を小脇に抱えたまま来たことも。
追いかけてきたのだ。
私を。
その事実だけで、階段を上がった分とは別のところが苦しくなる。
「すみません。屋上に行くだけです。逃げるわけじゃ……」
言いかけて、自分で止まった。
嘘だ。
逃げるわけじゃない、は便利な言葉だ。私はさっきからずっと、息をする場所を探していただけだと自分に言い聞かせていた。でも本当は、部長室の扉を叩く勇気がなかった。
仕事の顔でいられない自分を、見られたくなかった。
それはたぶん、立派に逃げだ。
霧島部長は私の沈黙を責めなかった。ただ、つかんでいた手を静かに離した。
離されたのに、手首に体温だけが残る。
「屋上へ行くなら、俺も行く」
「え」
「五分だろう」
「……聞こえてたんですか」
「廊下で来栖に会った。『五分で返してください』と言われた」
あかね。
私の味方なのか、監督なのか、もはや職場における私の保護者なのか。ありがたいけど、今だけは心の中で両手を合わせつつ頭を抱えたい。
霧島部長は扉の前に立ち、屋上用の鍵を取り出した。
「雨が強い。奥のひさしの下までなら濡れない」
「詳しいですね」
「喫煙者だった時期がある」
「えっ」
「昔の話だ。今は吸っていない」
知らない部長が、またひとつ落ちてくる。
七年前の彼も、今の彼も、私が知っているのはほんの一部でしかない。なのに私は、その一部だけで勝手に傷ついて、勝手に決めつけて、勝手に逃げようとしていた。
重い。いや、私の思考が重い。雨の日に考えごとをすると、湿気で心まで膨張する気がする。
扉が開くと、夜の空気が流れ込んできた。
雨音が近い。
屋上は濡れて、非常灯の赤い光が水たまりににじんでいる。都会のビルの明かりは雨にぼやけて、遠くの道路を走る車の音も少しくぐもっていた。
霧島部長は先に出て、私に手で合図した。
「足元、滑る」
「はい」
こういうところだ。
冷たい顔で、言葉は短くて、でも最初に濡れた床を確かめるのは自分。危ない場所をさりげなく塞ぐのも自分。
ひさしの下に並ぶと、雨は目の前に透明な幕みたいに落ちていた。
二人分の距離は、肩が触れないくらい。仕事なら適切。心臓には不適切。労基に訴えたい。いや、何を。
私は濡れたフェンスの向こうを見ながら、小さく息を吐いた。
「さっきのチャット、すみませんでした」
「どちらの」
「最初のほうです。打ち合わせを通常通りに、って送ったほう」
「謝る必要はない」
「あります。あれ、仕事のふりをした逃げでした」
口に出した瞬間、胸の中の結び目が少しだけほどけた。
怖い、と認めるよりも、逃げた、と認めるほうが痛い。でも、痛い分だけ本当の場所に近い気がする。
霧島部長は雨を見たまま、しばらく黙っていた。
いつもの沈黙なら、私はたぶん不安になる。怒らせたかもしれない、呆れられたかもしれないと、勝手に悪いほうへ走ってしまう。
けれど今日の沈黙は、少し違った。
言葉を選んでいる沈黙だとわかった。
「俺も、逃げている」
低い声だった。
雨音に混ざって、でも確かに私の耳に届いた。
私は思わず隣を見上げる。
霧島部長はまっすぐ前を向いていた。横顔だけでは表情が読みにくい。けれど、資料の封筒を持つ指に力が入っているのが見えた。
「……部長が、ですか」
「ああ」
「どこから」
聞いてしまってから、早かったかもしれないと思った。
土曜日に話すと言われている。通常の打ち合わせでは済ませない、とも言われた。ここで急かしたら、また私は自分の不安を相手に押しつけてしまうのではないか。
でも霧島部長は、少しだけ目を伏せただけだった。
「七年前から、と言えばいいのかもしれない」
心臓が、雨音より大きく鳴った。
七年前。
その言葉を、彼の口から聞くたびに、私は十九歳の自分の手を思い出す。濡れた傘の柄を握って、好きですと言ったときの震え。ごめんと返されたときの、世界が静かに遠ざかる感じ。
それでも今は、あの頃とは違う。
私は二十六歳で、仕事で失敗もして、胃を痛める締切も越えて、嫌なことから完全には逃げ切れないことも知った。
そして、隣にいる人も三十八歳の上司で、七年前の先輩社会人ではない。
同じ雨でも、同じ場所には戻れない。
「土曜日に話す」
霧島部長が続けた。
「ただ、今日ひとつだけ先に言っておく」
「はい」
「君が送った訂正のチャットは、俺にとって都合のいいものじゃなかった」
喉が、きゅっと縮む。
都合がいいものじゃない。
それはどういう意味だろう。困った、ということだろうか。重い、ということだろうか。
またあの古い言葉が、頭の奥で顔を出しかける。
私の気持ちは、人の重荷になる。
霧島部長は、私の考えを読んだみたいに、すぐに言葉を足した。
「楽になれなかった、という意味だ」
「……楽に?」
「君が完全に仕事の線へ戻ると言えば、俺はそれに従えばよかった。上司としては、そのほうが正しい」
雨がひさしの端を叩く。
「でも君は、逃げたことを訂正した。個人的な話も聞きたいと言った。だから俺も、上司という位置だけに隠れられなくなった」
胸の奥が、熱くなる。
隠れられなくなった。
それは、迷惑とは違う。重荷とも違う。少なくとも、私がずっと怖がっていた拒絶の形ではなかった。
「それは……困りますか」
我ながら、情けない声だった。
でも聞きたかった。
葵さんは、兄がまた逃げたら追いかけてと言った。追いかけるには、まず自分の足がどこにあるか確かめないといけない。
霧島部長は私を見た。
雨の匂いが濃くなる。
「困る」
胸が一瞬だけ落ちる。
けれど彼は、逃げ道を塞ぐみたいに次の言葉を置いた。
「困るが、嫌ではない」
ずるい。
本当に、この人はずるい。
短い言葉で心臓の足場を抜いてくる。しかも顔はほとんど変わらない。こちらだけが内側で大騒ぎしている。社内の温度差がひどい。
私は視線を雨へ戻した。そうしないと、耳まで赤くなっているのを見られそうだった。
「私も、困ってます」
「何に」
「部長が、怖いのに優しいところです」
言った。
言ってしまった。
もう少し社会人らしい表現があったはずだ。配慮が一貫していて戸惑う、とか。業務外の気遣いに心拍数が対応できません、とか。後半は完全に不審者だ。
霧島部長は黙った。
今度の沈黙は、少しだけ長い。
やっぱり変なことを言った。怖いのに優しいって何だ。小学生の読書感想文でももう少し整う。
「すみません、今のは忘れてください」
「無理だ」
「即答しないでください」
「忘れたふりは、もうしたくない」
息が止まった。
その言葉は、雨より静かに落ちたのに、私の中では大きな音を立てた。
忘れたふり。
部長がその言葉を自分で使った。
つまり、やっぱり。
やっぱり、覚えていた。
全部じゃなくても。少なくとも、忘れたふりをしていたことを、彼自身が認めた。
私は唇を開いた。でも声が出ない。
聞きたいことが多すぎた。どうして初対面みたいに言ったんですか。七年前、何を思っていたんですか。私は、あなたにとって本当に何だったんですか。
けれど、その全部を今ぶつけたら、私たちはたぶん壊れる。
まだ土曜日がある。
この雨の屋上は、答えを奪い取る場所じゃない。逃げずに立つ練習をする場所だ。
私は胸の前で、きゅっと手を握った。
「じゃあ、私も忘れたふりはやめます」
声は震えた。
でも逃げなかった。
「七年前のことも、今のことも。怖いです。でも、なかったことにはしたくないです」
霧島部長の喉が、小さく動いた。
「……わかった」
その一言だけで、今日の私はたぶん十分だった。
関係が進んだわけじゃない。告白でもない。答え合わせでもない。
ただ、二人で同じ雨の前に立って、忘れたふりをやめると決めただけ。
それなのに、足元が少しだけ確かになった気がした。
「戻ろう」
霧島部長が言った。
「来栖との約束を破ると、明日面倒だ」
「そこは怖いんですね」
「怖い」
思わず笑ってしまった。
部長も、ほんの少しだけ口元をゆるめた。雨の夜だから見間違いかもしれない。でも、見間違いでもいいと思った。
屋上の扉へ戻る途中、水たまりを避けようとして足が滑った。
「あっ」
反射的に伸びた手を、霧島部長が受け止めた。
今度は手首ではなく、手のひらだった。
一瞬だけ、指が重なる。
温かい。
そう思った瞬間、部長はすぐに離した。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫です」
大丈夫ではない。足元は大丈夫。でも心拍が全然大丈夫ではない。社内健康診断に項目があったら要再検査だ。
階段室に戻ると、雨音が少し遠くなった。
蛍光灯の白い光の下で、さっきまでの屋上が夢みたいに思える。でも手のひらには、まだ触れた感覚が残っていた。
霧島部長は部長室へ戻る前に、私を呼び止めた。
「結城」
「はい」
「土曜日の場所を変える」
「場所、ですか」
「ああ。会社ではないほうがいい」
また心臓が変な音を立てる。
会社ではないほうがいい。
それはつまり、上司と部下の顔だけでは話さないということだ。
霧島部長は資料の封筒から一枚のメモを取り出し、私に差し出した。
そこに書かれていたのは、見覚えのある店名だった。
古い喫茶店、灯。
玲子さんと話し、葵さんと会い、少しずつ過去の輪郭を受け取った場所。
私はメモを受け取った。
紙の端が、雨に触れたみたいに少しだけ湿っている。
「十一時。仕事の資料も持ってきていい。ただし、先に個人的な話をする」
霧島部長は、逃げない声で言った。
「七年前、俺が君に言わなかったことを話す」
(第39話へ続く)




