逃げ道を塞ぐメッセージ
葵さんからのメッセージを、何度も読み返した。
『兄から聞きました。結城さん、今、逃げようとしてますよね?』
逃げようとしてますよね。
疑問形の顔をしているのに、疑っていない文章だった。
スマホの画面が、まるで小さな鏡みたいに私を映している。疲れた顔。強張った口元。社会人としてはぎりぎり合格、恋する人としては完全に落第の顔。
いや、恋する人って自分で言った。
そこをまず取り消したい。取り消せない。さっきの社内チャットと同じで、送ってしまったものは戻らない。
私は机の下でスマホを握りしめた。フロアには、キーボードを叩く音と、複合機の低い作動音だけが残っている。あかねは少し離れた席で電話をしていて、こちらを気にしながらも踏み込んでこない。
ありがたい。
そして、少しだけ怖い。
踏み込まれなければ、私はいくらでも平気なふりができてしまう。
『ち、違います』
反射で打って、すぐ消した。
違わない。全然違わない。
私は今、全力で逃げている。しかも仕事の言葉を盾にして、ものすごく丁寧に逃げている。逃走経路にビジネスマナーを敷き詰める女、結城ひなた二十六歳。笑えない。
再び画面に文字を打つ。
『すみません。そうかもしれません』
送信するまでに、指が三回止まった。
でも、送った。
数秒で既読がつく。葵さんの返信は早かった。
『やっぱり』
やっぱり、じゃないです葵さん。
いや、やっぱりですけど。
『兄、昔からそういうところあります。相手のためって顔で、自分が先に下がるんです。結城さんも、今それをやってます』
胸の奥を、細い指で押されたみたいだった。
霧島部長が、相手のためって顔で自分が先に下がる人だということは、少しずつわかってきた。
七年前のことまでは、まだ何も知らない。
でも今の部長なら知っている。
会議で誰かのミスを淡々と受け止めて、責める前に次の手を決める人。終電の時間を見ていないふりで見ている人。部長室で白紙にしていいと言いながら、本当は何かを飲み込んでいた人。
私は、その人と同じことをしている。
そう気づくのは、なかなかに痛かった。
あの人の不器用さに胸を痛めていたくせに、自分の不器用さには「大丈夫」というラベルを貼って棚に上げていたのだから。
『でも、私が踏み込むことで、部長を困らせるかもしれません』
送ってから、しまったと思った。
これでは相談ではなく、言い訳だ。
葵さんからの返信は、少し間が空いた。
その間に、私は送信済みの社内チャットを開いた。
『土曜日の件ですが、やはり通常の打ち合わせとしてお願いいたします。個人的なお話は不要です』
不要。
見れば見るほど、冷たい。
私が言われたら、たぶん一週間は布団の中で反省会を開く。いや、社会人なので起きるけれど、心は布団から出てこない。
取り消しボタンを探した。メニューを開く。そこに表示されたのは、「削除」だけだった。
削除。
自分の画面から消えるだけで、相手の画面からは消えないやつ。
世の中には、消したいものほど消えない法則でもあるのだろうか。七年前の雨とか。借りたままの紺色の傘とか。好きだった人の声とか。
スマホが震える。
『困らせるかどうかは、兄が決めることです』
その一文に、私は目を止めた。
『結城さんが決めることじゃないです』
短いのに、逃げ道の真正面に置かれた看板みたいな言葉だった。
私は、部長を困らせたくないと思っている。
それは本当だ。
でもその奥には、部長に困った顔をされたくない、という自分勝手な怖さがある。
断られたくない。
重いと思われたくない。
七年前と同じように、静かに終わらされたくない。
だから私は、先に終わらせようとした。
相手のためという名前で、自分を守ろうとした。
「……最低だ」
声に出してしまって、慌てて口を押さえた。
隣の島にいた経理の人がちらっとこちらを見たけれど、すぐに画面へ戻った。助かった。今の最低は、締切に対してでも印刷機に対してでもない。私の恋愛耐性に対してである。
あかねの電話が終わった。
こちらへ来る足音がして、私は反射的に画面を伏せた。まるで悪いことをしているみたいに。
「ひなた」
「うん」
「その顔で大丈夫って言ったら、次から罰金ね」
「罰金制度、急に導入しないで」
「初回無料にしてあげる」
軽い言い方なのに、目は笑っていなかった。
私は肩の力を抜く。たぶん、今の私は、あかねのそういう優しさにすら泣きそうになるくらい弱っている。
「あかね」
「なに」
「私、さっき部長に、個人的な話は不要ですって送った」
言った瞬間、あかねの眉が見事に跳ねた。
「それはまた、鋭利な敬語を投げたね」
「自覚はあります」
「で、ほんとは?」
私は唇を結んだ。
ほんとは。
ほんとは、聞きたい。
葵さんのことも、七年前のことも、部長が何を覚えていて、何を覚えていないふりにしてきたのかも。
聞きたいし、怖い。
怖いし、聞きたい。
どちらか片方だけなら、もう少し簡単だったのに。
「……不要じゃない」
小さく言うと、あかねは一度だけうなずいた。
「じゃあ、訂正しな」
「今?」
「今」
「でも、部長、会議かもしれないし」
「返信を待てとは言ってない。自分の言葉を送れって言ってる」
まっすぐだった。
葵さんとは違う角度で、逃げ道を塞いでくる。親友という存在はありがたい。ありがたいけれど、時々、心の内側に遠慮なく踏み込んでくるので寿命が縮む。
私は社内チャットを開いた。
霧島部長の名前が、画面の上に表示される。
その名前だけで心臓が忙しくなるの、本当にやめてほしい。上司の名前で動悸がするのは、仕事のストレスという診断で片づけられるのだろうか。たぶん片づかない。
入力欄に指を置く。
『先ほどの件ですが』
固い。
固すぎる。
私の心の温度が氷点下に見える。
消す。
『不要ではありません』
うん。正直だ。でも、これだけ送られたら部長も困る。主語がない。何が不要ではないのか。修正依頼か。追加資料か。恋か。最後のは絶対に書けない。
また消す。
あかねが隣で黙って待っている。急かさないのが、逆に逃げられない。
私は深呼吸をした。
『先ほどのチャットは、私が怖くなって送ったものです。土曜日、通常の打ち合わせとして伺います。ただ、もし部長が話してくださるなら、個人的なお話も聞かせてください』
打ち終わって、指が止まる。
たったこれだけの文章なのに、喉が渇いた。
怖い。
怖いけれど、これは私の言葉だ。
誰かのためのふりをした予防線じゃない。傷つかない場所へ逃げ込むための丁寧語じゃない。
私は送信ボタンを押した。
画面に表示された送信済みの文字を見て、力が抜ける。
「送った」
「えらい」
「今、褒められると泣く」
「じゃあ褒めない。仕事戻るよ」
あかねはそう言って、自分の席へ戻っていった。
ありがたい。
そして、やっぱり少しだけ泣きそうだった。
葵さんにも返信する。
『さっきのチャット、訂正しました。怖いですけど、逃げるのを少しやめました』
すぐに返事が来た。
『少しで十分です。兄も一気には無理な人なので』
思わず、口元がゆるんだ。
一気には無理な人。
それは、なんだかとても霧島部長らしい。
冷たく見えて、急に近づくと自分で驚いてしまう人。線を引くくせに、その線のこちら側へ缶コーヒーだけ置いていく人。
画面を見つめていると、もう一通、葵さんから届いた。
『でも、ひとつだけ。兄がまた逃げたら、結城さんが追いかけてください。私、もう病人じゃないので、兄の逃げ癖の言い訳に使われるのはごめんです』
息が、少しだけ止まりかけた。
病人じゃない。
その言葉の強さに、葵さんの七年がにじんでいる気がした。
私は葵さんの闘病を知らない。病室の匂いも、夜の長さも、湊さんがどんな顔でそこにいたのかも、何も知らない。
でも、葵さんは今、自分の足で兄の言い訳から降りようとしている。
なら私も、自分の傷を言い訳にしてばかりはいられない。
そのとき、社内チャットの通知が鳴った。
霧島部長からだった。
心臓が一拍、変な跳ね方をした。
『了解した。土曜日、話す』
それだけ。
短い。
短すぎる。
でも、そのあとにもう一行、続いていた。
『ただし、通常の打ち合わせでは済ませない』
画面の文字が、静かな夜のフロアで熱を持ったみたいに見えた。
私は思わず立ち上がった。椅子が小さく鳴る。あかねが顔を上げたけれど、今度は説明する余裕がなかった。
部長室の灯りがついている。
会議から戻ったのだろうか。いつからいたのだろう。もしかして、私が訂正のチャットを送ったときには、もうあの部屋にいたのだろうか。
距離は、廊下を挟んで十数メートル。
それなのに、スマホの中の言葉のほうが先に私へ触れた。
私はスマホを握ったまま、席を離れた。
「ひなた?」
あかねの声に、私は振り返らずに答える。
「五分だけ、席外す」
向かう先は、部長室ではなかった。
今あのドアを叩いたら、たぶん私は仕事の顔を保てない。泣くか、早口で自滅するか、どちらかだ。どちらも避けたい。人としての尊厳を守りたい。
だから私は、エレベーターホールの横を抜け、非常階段へ向かった。
屋上へ。
七年前の雨ではない、今日の夜の空気の中で、ちゃんと息をしたかった。
階段を一段ずつ上がる。蛍光灯が白く光って、手すりが冷たい。スマホには、霧島部長の短い言葉がまだ残っている。
通常の打ち合わせでは済ませない。
その意味を考えるたびに、胸の奥が怖くて、少しだけ温かい。
屋上へ続く扉の前で、私は立ち止まった。
ノブに手をかける。
その瞬間、下の階から、低い声が私の名前を呼んだ。
「結城」
振り返るより先に、足音が近づいてくる。
霧島部長の手が、私の手首を強くはない力で止めた。
「外は雨だ。ひとりで行くな」
(第38話へ続く)




