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逃げるための丁寧語

 十八時半までの時間は、いつもよりずっと遅く進んだ。


 企画部のフロアでは、午後の打ち合わせで出た修正が飛び交っている。資料の差し替え、先方への確認、数字の根拠、白石部長代理の「念のため」が三回重なる例のやつ。


 仕事をしているときの私は、意外と強い。


 いや、強いというより、やることが決まっていると迷わなくて済む。赤字を直す。数字をそろえる。メールを返す。確認を取る。


 感情と違って、仕事にはチェックボックスがある。


 ひとつずつ潰せば、終わりが見える。


 ……恋にもチェックボックスがあればいいのに。


 七年前の件を聞く。


 怒っていいと自分に許可する。


 優しくしすぎない。


 逃げない。


 以上、完了。


 そんなふうに済めば、私は今ごろ社内チャットの通知ひとつで胃をきゅっとさせたりしない。


「結城さん、顔が仕事してない」


 隣の席から、あかねが小声で刺してきた。


「してる。ものすごくしてる」


「画面、十五分くらい同じセル見てるけど」


「熟考」


「逃避でしょ」


 なぜ親友という生き物は、見なくていいところばかり高精度で見るのか。


 私は慌ててマウスを動かし、何かをしている風の動作をした。自分でもかなり雑な偽装だった。


 あかねは声を潜める。


「部長室?」


「……うん」


「葵さんのこと?」


「たぶん」


 そこまで言って、私は口を閉じた。


 葵さんから連絡があった。


 霧島部長の社内チャットには、そう書かれていた。


 あの短い文面の中に、温度はなかった。いつもの部長の文章だ。必要事項だけ。主語も感情も省略済み。


 けれど私は、その文字列を見た瞬間、足元に小さな穴が開いたような気がした。


 葵さんが何を伝えたのか。


 部長が何を聞いたのか。


 そして、私に何を言うつもりなのか。


「ひなた」


 あかねが私の名を呼んだ。会社では名字で呼ぶのに、こういう時だけ少しだけ境界線を越えてくる。


「逃げてもいいけど、逃げたって自分でわかる逃げ方はしなよ」


「何それ」


「『仕事があるので』とか『大丈夫です』で蓋しないってこと」


 痛い。


 今まさにその二つを心の中で磨いていた。


 仕事があるので。


 大丈夫です。


 社会人が持つ、最強の逃げ道である。角が立たず、誰も責められず、何も進まない。


「……努力します」


「その返事もやや逃げ」


「厳しい」


「愛」


 あかねはそれだけ言うと、何事もなかったように資料へ視線を戻した。


 愛、か。


 その言葉に、昼間の葵さんの顔が重なる。


 兄の過去を知っても、兄に優しくしなきゃって思わなくていい。


 怒っていいし、聞いていいし、嫌なら嫌って言っていい。


 なのに、私はもう考えている。


 部長もつらかったんだから。


 葵さんのことで大変だったんだから。


 私がこれ以上、何かを求めたら負担になるんじゃないか。


 七年前から少しも変わっていない自分に気づいて、胸の奥が冷えた。


 私は、気持ちを渡す前に、相手の迷惑を勝手に想像する。


 そして、きれいな顔をして引く。


 傷つかないために。


 相手を悪者にしないために。


 でもたぶん、それは誰のためでもなく、私が怖いだけだ。


 十八時二十九分。


 パソコンの右下の時計を見て、私は立ち上がった。


 部長室までの数メートルが、やけに長い。


 ドアの前で一度息を吸い、ノックした。


「結城です」


「入ってくれ」


 短い声。


 それだけで、心臓が余計な仕事を始める。残業代を請求したい。


 ドアを開けると、霧島部長はデスクの向こうで書類を閉じたところだった。ジャケットは椅子の背にかかっていて、シャツの袖が少しだけまくってある。


 仕事終わりのその姿に、七年前の記憶が不意に差し込む。


 雨の日、傘を差し出した手。


 濡れた袖口。


 静かな声。


 ごめん。


 君の気持ちには応えられない。


 胸の奥が、古い雨で濡れる。


「座って」


「はい」


 向かいの椅子に腰を下ろす。部長室はいつも静かだ。ガラス越しに見えるフロアの光が少し遠くて、この部屋だけ会社の中なのに別の時間で動いているみたいだった。


 霧島部長はすぐには話さなかった。


 沈黙。


 彼の沈黙は、怒っている時と考えている時と、言葉を選んでいる時の区別が難しい。


 私は膝の上で指を組んだ。


 聞く。


 逃げない。


 そう決めたはずなのに、喉の奥がきゅっと狭くなる。


「葵から連絡があった」


「……はい」


「昼に、三上と一緒に会ったと聞いた」


「はい」


「余計なことを言われたんじゃないか」


 余計なこと。


 その表現に、胸がちくりとした。


 葵さんがくれた言葉は、余計なものなんかじゃなかった。私が私の痛みを持っていいと、そう言ってくれた。


 でも、部長の声に責める響きはなかった。


 むしろ、自分を責める前の、硬い音がした。


「余計なことでは、なかったです」


 私はどうにか答えた。


「そうか」


 また沈黙。


 霧島部長はデスクの端に置かれた紙コップに手を伸ばしかけて、やめた。コーヒーを飲むのを忘れたみたいな、珍しい仕草だった。


「結城」


「はい」


「土曜日の約束だが」


 心臓が、音を立てて転んだ。


 土曜日。


 七年前のことを、本人に聞こうと思っていた日。


 私は顔を上げる。


 部長の表情はいつも通りに見えた。けれど、目元だけが少し疲れている。


「無理に来なくていい」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 冷房の風が首筋を撫でる。さっきまで平気だったのに、急に寒い。


「……え」


「葵から何を聞いたかは知らない。ただ、俺の家の事情や昔のことを、君が背負う必要はない」


 背負う。


 また、その言葉。


「土曜日も、仕事の打ち合わせとして設定したものだ。個人的な話にする必要はない。君が負担に感じるなら、予定は白紙にしていい」


 丁寧だった。


 とても、丁寧だった。


 上司として、部下に圧をかけないように。


 大人として、年下の私を困らせないように。


 霧島部長らしい、正しい線引きだった。


 正しすぎて、息が詰まった。


 違う。


 私は、聞きたい。


 あの日のことを、なかったことにしたくない。


 あなたの事情を背負うためじゃなくて、私の七年を返してもらうためでもなくて、ただ、今の私が前に進むために。


 言えばいい。


 たったそれだけのことだ。


 なのに、口から出たのは、磨き上げた逃げ道だった。


「……大丈夫です」


 自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。


 霧島部長の眉が、ほんのわずかに動いた。


「大丈夫、とは」


「葵さんからお話を聞いて、いろいろ納得できたので」


 違う。


 納得なんて、していない。


「部長が気にされる必要はありません」


 違う。


 気にしてほしい。


「土曜日も、仕事の件だけで大丈夫です」


 違う、違う、違う。


 私の中で、十九歳の私がドアを叩いている。


 聞いて。


 逃げないで。


 でも二十六歳の私は、社会人の顔で微笑んでしまった。


 霧島部長は黙って私を見ていた。


 その視線が痛い。


 覚えていないふりをしていた人。


 線を引くことで守ろうとする人。


 そして今、私も同じことをしている。


 大丈夫です、という線を引いて、これ以上傷つかない場所へ逃げようとしている。


「結城」


 低い声が、部屋に落ちた。


「本当に、それでいいのか」


 反則だと思った。


 そんなふうに聞くなら、最初から白紙にしていいなんて言わないでほしい。


 逃げ道を用意してから、本当に逃げるのか確認しないでほしい。


 私の弱さは、そんなに器用じゃない。


 指先に力が入る。膝の上で組んだ手が、少し冷たい。


 ここで言えばいい。


 よくないです。


 聞きたいです。


 七年前、どうして何も言ってくれなかったんですか。


 私のことを、少しでも覚えていましたか。


 言葉は胸の中にあった。


 でも、胸の中から外へ出すまでの距離が、ひどく遠い。


「はい」


 私はうなずいた。


「それで、大丈夫です」


 霧島部長の目が、一瞬だけ伏せられた。


 それは、落胆だったのか。


 安堵だったのか。


 それとも、また私を傷つけないために感情をしまっただけなのか。


 わからない。


 わからないまま、私は立ち上がった。


「では、資料の修正に戻ります」


「ああ」


 返事は短かった。


 ドアへ向かう。ノブに手をかけたところで、後ろから声がした。


「結城」


 振り返る。


 霧島部長はデスクの向こうに立っていた。近づいてはこない。その距離が、今の私たちそのものみたいだった。


「葵のことで、君に気を遣わせたなら悪かった」


 謝らないで。


 そう思った。


 謝られたら、私はまた、いい人の顔をしてしまう。


「お気になさらないでください」


 ほら。


 自分でも嫌になるくらい、なめらかに言えた。


 部長室を出た瞬間、廊下の明るさに目がしみた。


 フロアへ戻る足が重い。あかねがこちらを見る気配がしたけれど、私は気づかないふりをして席に座った。


 パソコンの画面には、途中まで直した企画書が開いたままだった。


 チェックボックスは減っていない。


 むしろ、増えた。


 逃げた。


 私は、逃げた。


 その事実だけが、きれいに胸へ刺さっている。


「ひなた」


 あかねが小さく呼んだ。


 私は画面から目を離さずに答えた。


「大丈夫」


 言った瞬間、あかねが息をのむ気配がした。


 自分でもわかった。


 今日の私は、その言葉を使いすぎている。


 大丈夫。


 便利で、薄くて、何も守ってくれない言葉。


 定時を過ぎても、私は席を立てなかった。仕事はあった。実際、修正も残っていた。


 でも本当は、帰り道で自分の気持ちと二人きりになるのが怖かっただけだ。


 十九時半を回った頃、フロアの人はまばらになった。


 霧島部長は会議に出たのか、部長室の灯りは消えている。


 私は社内チャットを開いた。


 宛先は、霧島部長。


 指が勝手に動く。


『土曜日の件ですが、やはり通常の打ち合わせとしてお願いいたします。個人的なお話は不要です』


 入力した文字を見て、胸が苦しくなった。


 不要。


 なんて冷たい言葉だろう。


 本当は、いちばん必要なのに。


 消そうとした。


 でも、その前に考えてしまった。


 これを送れば、部長は安心するかもしれない。


 私も、これ以上期待しなくて済むかもしれない。


 七年前みたいに、傷つく前に終われるかもしれない。


 逃げる理由は、いつだって丁寧な顔をしてやってくる。


 送信ボタンの上に指を置く。


 やめて。


 胸の奥で、誰かが言った。


 それでも私は、その声より先に、画面を押していた。


 送信済みの文字が表示される。


 取り消すには、数秒遅かった。


 その瞬間、スマホが震えた。


 霧島部長からではない。


 葵さんからだった。


『兄から聞きました。結城さん、今、逃げようとしてますよね?』


 私はデスクの前で、息を止めた。


(第37話へ続く)

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