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妹の記憶

 十二時十分の「灯」は、昼休みのざわめきから少しだけ外れた場所にあった。


 会社から歩いて七分。古いビルの一階にある喫茶店で、扉を開けると、焙煎した豆の香りと、磨かれた木の床の匂いがした。


 三上さんは、奥の二人掛けの席にいた。


 その向かいに座っていた女性が、私に気づいて立ち上がる。


 白いブラウスに、薄いグレーのカーディガン。肩までの髪は、少し癖があって柔らかく揺れた。写真で見た面影よりずっと血色がよくて、でも手首は細い。


 目元が、霧島部長に似ていた。


 似ているのに、表情の温度がまるで違う。


「結城ひなたさん、ですよね」


「はい。あの、初めまして」


「霧島葵です。兄がいつもお世話になっています」


 妹さんに、会社の定型文で先制された。


 しかも兄が部長。情報量が多い。


「こちらこそ、霧島部長にはお世話になっています」


 私も社会人として正しい角度で頭を下げた。恋心が絡んでいなければ、たぶん百点の挨拶だった。絡んでいるので、心の中では採点不能である。


 三上さんが苦笑する。


「二人とも固い。座って」


 促されて、私は葵さんの隣ではなく、三上さんの隣の椅子に腰を下ろした。向かい合う形になる。


 店員さんが水を置いてくれる。グラスの中の氷が、からん、と鳴った。


 その音で、少しだけ息ができた。


「急に呼び出してごめんなさい」


 葵さんが先に言った。


「本当は、土曜日に兄と会うって聞いてたから、その前に余計なことを言うのはどうかなって思ったんですけど」


「聞いてた……んですか」


「はい。兄、そういう大事な予定ほど、普通の業務連絡みたいに言うんです。『土曜、少し外す』って」


 容易に想像できた。


 外す、ではない。誰から何を。


 私の脳内ツッコミはさておき、葵さんはカップに目を落とした。


「玲子さんに相談しました。結城さんが何も知らないまま兄と向き合うのは、少し不公平かもしれないって」


 三上さんが静かにうなずく。


「ただ、今日話すのは葵さん本人のことだけ。部長の気持ちを代わりに説明するためじゃない」


 その線引きが、三上さんらしかった。


 私は背筋を伸ばした。


「はい。聞かせてください」


 葵さんは小さく息を吸った。


「七年前、私はほとんど病院にいました」


 言葉は思ったより穏やかだった。


「入退院を繰り返していて、手術もして、治療費もかかって。両親はいなかったので、兄が全部やってくれていました。仕事をしながら、病院に来て、書類を書いて、先生の話を聞いて、私の前では平気な顔をして」


 平気な顔。


 その言葉だけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 今の霧島部長の顔が、七年前の病室に重なる。無駄のない声。感情を削ったみたいな横顔。けれど削ったのではなく、削らないと立っていられなかったのかもしれない。


「兄は、優しい人です」


 葵さんは言った。


「でも、自分が大変だって言うのが下手です。下手というか、言わないことを美徳だと思い込んでる節があります」


「……わかります」


 つい即答してしまった。


 葵さんがぱちりと瞬きをして、それから少しだけ肩の力を抜いた。


「ですよね」


 私は慌てて口を押さえた。


「すみません、上司に対して」


「いえ、妹としては全面的に同意なので」


 三上さんまで小さく笑った。


 その一瞬だけ、空気がやわらいだ。


 でも、葵さんの次の言葉で、また静かに重くなる。


「七年前の兄は、兄じゃなくて、保護者で、稼ぎ手で、付き添いで、家族代表でした。私の前では強くて、病室を出るときだけ、たまに顔色が悪かった」


 湊さん。


 呼びそうになって、私は唇を閉じた。


 ここは会社の近くの喫茶店で、私はまだ部下で、彼は上司だ。


 でも心の中では、もうとっくに名前で呼んでしまっている。


「私、ずっと知らなかったんです」


 葵さんの指が、カップの取っ手に触れた。


「兄にも、病院の外の人生があるって。仕事以外にも、誰かと会ったり、何かを好きになったり、そういう時間があるはずだって」


 胸が痛かった。


 その痛みは、部長がかわいそうだから、だけじゃない。


 七年前の私も、何も知らなかった。


 雨の日、告白して、断られて、傷ついて。


 もちろん、私の痛みは本物だ。なかったことにはならない。


 でも、あの日の向こう側に、病室の灯りがあったのだとしたら。


 私は、ずっと一枚の写真だけを見ていたのかもしれない。


「結城さん」


 葵さんがまっすぐ私を見た。


「私、あなたに謝りたいわけじゃないんです。兄の代わりに謝るのは違うと思うから」


「……はい」


「でも、知っておいてほしかった。兄は七年前、誰かを大事にできる状態じゃなかった。大事にしたくなかったんじゃなくて、たぶん、自分が誰かに手を伸ばすこと自体を怖がっていました」


 怖がっていた。


 氷の部長に、いちばん似合わない言葉なのに。


 いちばん腑に落ちてしまった。


 私はグラスを両手で包んだ。冷たい水滴が指に移る。


「それを聞いたら、私が傷ついたことまで、なかったことにしなきゃいけない気がしていました」


 声が少し震えた。


 三上さんも葵さんも、何も挟まなかった。


 だから私は続けられた。


「でも、違うんですよね。部長に事情があったことと、私が悲しかったことは、別で」


 葵さんの目元が、ほんの少し赤くなった。


「はい」


「私は、ちゃんと悲しかったです。七年前」


 口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 初恋を断られた十九歳の私が、ようやく顔を上げた気がした。


 あの時、言えなかった言葉。


 痛かった。


 悲しかった。


 理由を聞きたかった。


 それを誰かにぶつけるためじゃなく、私が私の痛みをちゃんと持つために。


「だから土曜日、聞こうと思います」


 私は葵さんを見た。


「部長本人に」


 葵さんは、泣きそうな顔で笑った。


「兄、逃げるかもしれません」


「……でしょうね」


 即答してしまった。二回目である。


 三上さんが今度は隠さず笑った。


「結城さん、だいぶわかってきたわね」


「わかりたくてわかったわけじゃないです」


 口ではそう言ったけれど、嫌ではなかった。


 霧島部長の不器用さを、欠点としてだけではなく、輪郭として知っていく。そのことが怖くて、少しだけうれしい。


 うれしい、なんて。


 七年前の傷の話をしているのに。


 私の心は本当に忙しい。労働基準法を適用したい。


 葵さんはバッグから小さな封筒を取り出した。


「これ、私の連絡先です。兄に言うと怒られそうなので、怒られる前提で渡します」


「えっ」


「土曜日のあと、もし困ったら連絡してください。兄の取扱説明書は、妹が一番詳しいので」


「取扱説明書……」


「ただし、兄を擁護するためじゃありません。結城さんが一人で抱え込まないためです」


 その言葉に、朝の羽田くんの声が重なった。


 苦しい時に、一人で抱え込むのはやめてください。


 優しさは、いろんな方向から来る。


 全部に同じ形で返せなくても、受け取っていいのかもしれない。


 私は封筒を両手で受け取った。


「ありがとうございます」


 葵さんはそこで、少しだけ真面目な顔になった。


「それと、最後にひとつだけ」


「はい」


「兄は、私のために人生を止めたんじゃありません。勝手に止めたんです」


 息をのんだ。


「だから、結城さんが遠慮する必要はありません。兄の過去を知っても、兄に優しくしなきゃって思わなくていい。怒っていいし、聞いていいし、嫌なら嫌って言っていい」


 今度こそ、目の奥が熱くなった。


 どうしてだろう。


 葵さんは霧島部長の妹なのに、私の味方みたいなことを言う。


 いや、違う。


 誰かの味方というより、たぶん、七年前から動けなくなっている全員を、少しずつ前に押そうとしている。


「……はい」


 私はうなずいた。


「ちゃんと、自分の言葉で話します」


 昼休みの終わりを告げるように、店の壁時計が一時に近づいていた。


 会社へ戻る道で、三上さんは急ぎの電話が入って先に行き、私は葵さんと二人でビルの前まで歩いた。


 六月の空は曇っていて、雨の匂いがした。


「降りそうですね」


 私が言うと、葵さんが空を見上げた。


「兄、傘持ってますよ。昔から、雨の日だけは用意がいいんです」


 胸が小さく跳ねた。


 紺色の傘。


 でも私は、その言葉を飲み込んだ。


 今はまだ、聞くべき相手が違う。


 会社のエントランスに戻ると、スマホが震えた。


 画面には、霧島部長からの社内チャット通知。


『今日の十八時半、部長室に来てくれ。葵から連絡があった』


 私は立ち止まった。


 土曜日まで、あと二日。


 その前に、逃げ道のない扉がひとつ開いた。


(第36話へ続く)

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