朝イチの付箋
翌朝、私はいつもより二十分早く会社に着いた。
早く来たかったわけではない。眠れなかっただけだ。
ベッドの中で目を閉じるたびに、給湯室の湯気と、部長の指先と、羽田くんの困ったような笑顔が交互に現れた。
そして最後に、机の上の付箋。
『先輩、無理してませんか。明日、少し話したいです』
あれは、見なかったことにできる種類の文字ではなかった。
会社のビルに入ると、エントランスの床はまだ清掃後の匂いがして、外の湿った空気とは違う冷たさがあった。梅雨の朝は、雨が降っていなくても何かを含んでいる。傘を持つべきか迷わせる、あの中途半端な重さ。
企画部のフロアは、まだ半分眠っていた。
蛍光灯が一列だけついていて、コピー機の待機音がやけに大きい。私は自分の席に鞄を置き、昨日の資料を手に取った。
羽田くんが作ってくれた朝イチの資料。
表紙には、必要な確認箇所が付箋で細かく整理されていた。昨日のあの空気のあとに、ここまで丁寧な仕事を残していくなんて、社会人力が高すぎる。いや、感謝すべきところなのに、私はなぜ心の中で採点しているのか。
たぶん、落ち着かないからだ。
ページをめくると、数字の根拠も、競合比較の修正点も、昨日私が口頭で言った細かい違和感まで反映されている。
羽田くんは、ちゃんと見ている。
仕事も、人も。
だから昨日の給湯室も、ただの偶然として流せなかったのだと思う。
「結城先輩」
背後から声をかけられて、肩がびくっと跳ねた。
振り返ると、羽田くんが紙袋を片手に立っていた。いつもの明るい顔より少しだけ表情が薄い。寝不足なのは私だけではないらしい。
「おはよう。早いね」
「先輩こそ」
「私は、その……資料を確認したくて」
「ありがとうございます」
羽田くんは私の机の上を見て、少しだけほっとしたように目を細めた。
「修正、変なところありました?」
「ない。むしろ完璧。ありがとう、すごく助かった」
「よかったです」
それで会話が終われば、どれだけ楽だっただろう。
でも、羽田くんは紙袋を机の端に置くと、ほんの少し声を落とした。
「先輩、今、五分だけいいですか」
五分。
昨日、部長と給湯室で使った時間と同じ長さ。
たった五分なのに、最近の私の人生はこの単位で揺れすぎではないだろうか。五分ってもっと、エレベーターを待つとか、コンビニでおにぎりを選ぶとか、そういう平和な時間だったはずだ。
「うん。会議室、空いてるかな」
「給湯室じゃないほうがいいですよね」
「……はい」
即答してしまった。
羽田くんが一瞬だけ笑う。その笑い方がいつもより控えめで、胸の奥がちくりとした。
小会議室はまだ誰も使っていなかった。
窓の外には、低い雲に押しつぶされそうなビルの群れが見える。机を挟んで向かい合うと、仕事の打ち合わせみたいで少しだけ助かった。距離があると、言葉を置く場所ができる。
「昨日のことなんですけど」
羽田くんが切り出した。
私は膝の上で手を握った。
「うん」
「部長が先輩の手首を掴んでたのを見て、びっくりしました」
「掴んでたというか、支えてくれたというか、コーヒーがこぼれそうで」
説明しながら、自分の声が早口になるのがわかる。
違う。弁解したいのは、やましいからではない。たぶん、羽田くんに変な心配をさせたくないからだ。
「すみません、責めたいわけじゃないです」
羽田くんはまっすぐ私を見た。
「ただ、先輩が無理してないか確認したくて」
「無理?」
「部長って、怖いじゃないですか」
あまりにも率直で、私は少しだけ笑ってしまった。
「うん。まあ、怖いね」
「仕事では尊敬してます。でも、近くにいる人ほど断りづらいことってあると思うんです。相手が上司なら、なおさら」
その言葉に、笑いが止まった。
羽田くんは何も知らない。
七年前の雨も、紺色の傘も、私が部長に告白して、静かに断られたことも知らない。
それでも彼は、今の私を見て心配してくれている。
上司と部下。
その線を、私より冷静に見ている。
「羽田くん」
「はい」
「心配してくれて、ありがとう」
まず、それだけはちゃんと言いたかった。
羽田くんの肩から、少し力が抜ける。
「でも、昨日のことは、無理やりとか、そういうのじゃないよ」
「本当ですか」
「本当」
私は膝の上の手を開いた。
手首には、もちろんもう何の跡もない。なのに感覚だけが残っている。体温の記憶というのは、どうしてこんなに厄介なのだろう。
「コーヒーをこぼしそうになって、部長が止めてくれただけ」
「それだけ、ですか」
その問いは、責めるというより、確認に近かった。
私は一瞬、答えに詰まった。
それだけ。
事実だけなら、そうだ。
でも私の中では、それだけではなかった。手首を支えられた瞬間、七年前から今まで、ずっと触れられずに置いていた気持ちが、少しだけ輪郭を取り戻した。
けれど、それをここで羽田くんに言うのは違う。
私が答えを探していると、羽田くんが先に視線を落とした。
「すみません。聞き方、嫌でしたよね」
「嫌じゃないよ。ただ、うまく説明できないだけ」
「先輩って、そういう時に笑ってごまかすから」
心臓の変なところを突かれた。
「……そんなにわかりやすい?」
「わかりやすいです。少なくとも俺には」
少なくとも俺には。
その言い方に、胸が小さく揺れた。
恋の告白ではない。まだ、そう名付けるには早い。けれど、ただの後輩の心配にしては、少しだけ温度が高い。
私はその温度に気づいてしまった。
気づいてしまったから、逃げるわけにはいかなかった。
「羽田くん」
「はい」
「私は、無理はしてない。でも、迷ってはいる」
言った瞬間、喉が乾いた。
こんな中途半端な答え、相手に渡していいものなのか。社会人としても先輩としても、もっときれいな言葉があるはずなのに。
でも、きれいに整えた嘘よりはましだと思った。
「部長のことで?」
私は小さくうなずいた。
羽田くんは息を吸って、吐いた。
「じゃあ、俺からひとつだけ言っていいですか」
「うん」
「先輩が迷ってるなら、急いで答え出さなくていいと思います。でも、苦しい時に一人で抱え込むのはやめてください」
彼の声は、驚くほどまじめだった。
「俺じゃなくてもいいです。来栖さんでも、三上さんでも。ちゃんと誰かに言ってください」
「……うん」
「あと」
羽田くんは、少しだけ迷ってから言った。
「部長が相手でも、嫌なものは嫌って言っていいと思います」
胸の奥に、静かに落ちる言葉だった。
嫌なものは嫌。
当たり前のことなのに、七年前の私はそれができなかった。断られた理由も聞けず、痛かったとも言えず、ただ紺色の傘を握りしめて帰った。
今の私は、二十六歳の社会人だ。
あの頃とは違う。
部長が上司でも、十二歳年上でも、七年前の初恋の人でも、私は自分の気持ちを自分で選んでいい。
「ありがとう、羽田くん」
今度は、ちゃんと笑えた気がした。
「それ、すごく大事なことだった」
羽田くんは少しだけ目を見開いて、それから照れたように首の後ろをかいた。
「いや、なんか偉そうですみません」
「偉そうじゃないよ。助かった」
「ならよかったです」
会議室の外から、少しずつ出社してきた人たちの声が聞こえ始める。朝が本格的に動き出す音だ。
話はここまで。
そう思った時、羽田くんが紙袋をこちらに押し出した。
「これ、駅前のパン屋のやつです。朝ごはん食べてなさそうだったんで」
「え、なんでわかるの」
「顔に書いてあります」
「そんな高性能な顔してる?」
「してます」
いつもの調子が少し戻って、私もほっとした。
けれど紙袋を受け取る指先に、申し訳なさが残る。優しさをもらうことは、うれしい。うれしいのに、全部に同じ形で返せるわけではない。
それを知っているから、苦しい。
小会議室を出ると、フロアにはもう何人かが来ていた。
自席へ戻る途中、部長室のドアが開く音がした。
霧島部長が中から出てくる。
いつも通り、無駄のないスーツ姿。手には資料の束。表情は淡々としている。
けれど私と羽田くんが並んで会議室から出てきたのを見た瞬間、部長の足が一拍だけ止まった。
本当に一拍だけ。
見逃そうと思えば見逃せる程度の間。
でも、見逃せなかった。
「おはようございます」
私が先に頭を下げる。
「おはようございます」
羽田くんも続いた。
部長はいつもの声で返した。
「おはよう」
それだけ。
それだけなのに、空気が少しだけ張った。
職場の朝。上司と部下。何もおかしなことはない。
なのに、昨日まで見えていなかった線が、床に薄く引かれたみたいだった。
私が部長を見上げると、部長は資料の角を指でそろえた。
動揺すると、部長はものを整える。
私はそんな癖まで知ってしまっている。
「結城」
「はい」
「九時半からの会議、資料の最終版を持ってきてくれ」
「承知しました」
仕事の声。
その距離に、少しだけ助けられた。
羽田くんは自席へ戻り、私は机に着いた。紙袋を引き出しにしまい、資料を開く。
すると、社内チャットの通知が画面の右下に出た。
差出人は三上玲子さん。
『結城さん、朝からごめん。今日の昼、少し時間ある? 葵さんの件で、あなたに先に伝えておきたいことがあります』
葵さんの件。
心臓が、別の音を立てた。
土曜に部長と話す前に、またひとつ扉が開こうとしている。
私は画面を見つめたまま、返信欄に指を置いた。
逃げない。
昨日そう決めたばかりだ。
『あります。聞かせてください』
送信した瞬間、三上さんからすぐに返事が来た。
『十二時十分、灯で。葵さん本人も来ます』
私は息を止めた。
土曜を待つ前に、今日、葵さんに会う。
(第35話へ続く)




