五分だけの余白
五分、という時間は、待つ側にとっては案外長い。
部長がノートパソコンを閉じ、資料を整え、関係部署へ短いチャットを送る。その一つひとつを、私は部長席の横で固まったまま見ていた。
いや、見ていたというより、見ないように必死だった。
だって、横顔がいつもより硬い。キーボードを打つ指が少しだけ速い。あの人にも、動揺する時があるのだと知ってしまうと、胸の奥が変な音を立てる。
落ち着け、結城ひなた。
今からするのは、恋愛イベントではない。上司への詰問でもない。七年前の亡霊との面談である。
……面談、嫌すぎる。
「結城」
「はいっ」
声が裏返った。社内規定どころか、人生の規定違反である。
部長は何も言わず、フロアの奥を示した。
「給湯室でいいか。会議室はまだ使っている」
「はい」
給湯室。
二人きりになりやすくて、逃げ道がひとつしかなくて、湯気と距離感がやたら仕事をする場所。
心臓に悪い。
でも、逃げないと決めたのは私だ。
蛍光灯の白い光の下、給湯室はいつもより狭く感じた。窓の外では雨が強く、排水溝へ落ちる水音が絶え間なく聞こえている。部長は紙コップを二つ取り出し、何も聞かずに片方へお湯を注いだ。
「コーヒーでいいか」
「あ、はい。……あの、部長」
「砂糖は入れない」
私は言葉を失った。
私の好みを、昔から知っているみたいに言う。
それが今さら怖くて、でも少しだけうれしくて、腹が立つ。
「そういうところです」
思わず口から出た。
部長の手が止まる。
「そういうところ、とは」
「何も言わないのに、知っているみたいにするところです」
言った瞬間、喉の奥が熱くなった。
「知らないふりをするのに、知っているみたいにするから、私はずっと混乱します」
部長は紙コップを置いた。薄い湯気が、二人の間をゆっくり上っていく。
「……そうだな」
それだけだった。
否定しない。
言い訳もしない。
その静けさが、かえって胸に刺さった。
「今日、葵さんに会いました」
「ああ」
「ご存じだったんですか」
「さっき連絡が来た」
「怒ってますか」
「誰に」
「私に、です」
部長は少しだけ眉を寄せた。
「なぜ」
「勝手に、部長の家族のことを聞いたから」
「葵が話したなら、葵の判断だ」
短い言葉。
けれど突き放しているわけではないと、今なら少しだけわかる。
部長は私の前に紙コップを置いた。
「熱い。気をつけろ」
「……そういうところもです」
「今のもか」
「今のもです」
こんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。
部長も困ったように目を伏せる。
その表情を見たら、胸の中で固くなっていたものが、ほんの少しだけほどけた。
「葵さん、検査は問題なかったって」
「ああ。聞いた」
「よかったです」
私が言うと、部長はすぐには答えなかった。
紙コップの縁を見つめる横顔に、仕事中には見えない疲れが滲んでいた。
「……そうだな」
その一言が、やけに深かった。
七年前。
この人は、こういう「よかった」を何度も待っていたのだろうか。
検査の結果。熱の上下。治療の予定。請求書の金額。仕事の締切。
私が大学のサークル室で、好きな人の横顔に勝手にときめいていた頃。
この人は、病院の廊下で、鳴らない電話を握りしめていたのかもしれない。
そこまで想像して、胸が痛くなった。
「部長」
「何だ」
「七年前のことを、全部聞きたいわけじゃありません」
言ってから、あれ、と思った。
違う。聞きたい。ものすごく聞きたい。
でも、今この場で全部を引きずり出したいわけじゃない。
私は言葉を選び直した。
「聞きたいです。でも、無理やり聞き出したいわけじゃないです」
部長の目が、静かに私へ向いた。
「ただ、私だけが勝手に傷ついて、勝手に覚えていて、勝手に困っていたんだと思うのが、しんどかったんです」
指先が紙コップを握る。熱い。けれど離せなかった。
「葵さんから、紙ナプキンのことを聞きました。返さなくていいって、書いてあったことも。あれを、部長が渡せなかったことも」
部長の表情が、わずかに変わった。
痛みに似たものが、目の奥をかすめる。
「……葵は、余計なことを」
「私は、余計だと思いませんでした」
今度は、すぐに言えた。
「渡されなかった言葉でも、残っていたなら、なかったことにはならないと思ったんです」
部長は黙った。
雨音だけが、給湯室の薄い壁に染みていく。
やっぱり、聞くのは怖い。
この人の沈黙は、七年前の私には大きすぎた。今の私だって、平気なわけじゃない。
でも、沈黙の中に何もないわけではないと、少しだけ知ってしまった。
「結城」
「はい」
「俺は、七年前のことを、忘れていない」
息が止まった。
知っていた。
もう、たぶんそうだとわかっていた。
それでも、本人の口から聞くと、世界の輪郭が変わる。
給湯室の白い壁も、雨の音も、紙コップの熱も、全部が急に近くなる。
「……はい」
声が小さくなった。
部長は続けた。
「あの日の傘も、君の言葉も、覚えている」
胸が、ぎゅっと縮んだ。
泣くな。
ここは会社だ。しかも給湯室だ。給湯室で泣く二十六歳、だいぶ扱いに困る。
でも、目の奥が熱い。
「じゃあ、どうして」
問いかけは、最後まで形にならなかった。
どうして忘れたふりをしたんですか。
どうして初対面みたいに言ったんですか。
どうして、私は何度も一人で七年前に戻らなきゃいけなかったんですか。
言いたいことはたくさんあった。
ありすぎて、ひとつもきれいに出てこない。
部長はその全部を拾うみたいに、低く息を吐いた。
「怖かった」
「……部長が、ですか」
「ああ」
あまりに意外で、思わず顔を上げた。
氷の部長。
無駄がなくて、厳しくて、誰より仕事ができて、いつも先回りして人を助けてしまう人。
その人が、怖かったと言った。
「今の俺は、君の上司だ。過去を持ち出せば、君に余計な負担をかけると思った」
「それは……」
「きれいな理由だな」
部長は自分でそう言った。
その声が苦くて、私は言葉を飲み込んだ。
「本当は、あの日の自分を見られるのが嫌だった。最低な切り方をした。君が傷つくとわかっていて、何も説明しなかった」
胸の奥が、また痛んだ。
責めたいわけじゃない。
でも、傷つかなかったことにはできない。
七年前の雨の日、私は確かに一人で立っていた。傘だけを抱えて、返す相手を失ったみたいに。
「説明してくれたら、私は納得できたんでしょうか」
自分でも驚くほど静かな声だった。
部長は答えなかった。
たぶん、答えなんてない。
十九歳の私が納得できたかどうかなんて、誰にもわからない。
でも、二十六歳の私は、今ここで知っている。
この人にも、言えなかった言葉があった。
それは私の痛みを消さないけれど、痛みの形を少し変える。
「葵さんのこと」
私はゆっくり言った。
「七年前、大変だったんですね」
部長の目が、ほんの少し揺れた。
「……ああ」
「それだけで全部わかった、みたいな顔はしたくないです」
「しなくていい」
「でも、少しだけ、見えました。部長がどうしていつも自分のことを後回しにするのか」
部長は何かを言いかけて、やめた。
その沈黙が、肯定みたいだった。
私は紙コップを両手で包んだ。
「私は、部長を許すとか許さないとか、まだ言えません」
「ああ」
「でも、知らないふりをされるのは、もう嫌です」
そこだけは、はっきり言えた。
部長が私を見た。
職場の上司としての距離を保ったまま、それでも逃げずに、真正面から。
「わかった」
たった四文字。
けれど、今の私には十分だった。
「ただ」
部長は少しだけ声を落とした。
「今ここで全部話すのは、違うと思う」
胸が一瞬、冷えた。
また線を引かれるのかと思った。
でも、部長は続けた。
「会社の給湯室で、五分で済ませていい話じゃない」
その言葉に、呼吸がほどけた。
逃げるための先送りではない。
ちゃんと扱うための、保留。
そう受け取っても、いいのだろうか。
「では、いつならいいですか」
自分で聞いて、自分で驚いた。
すごい。今日の私は、逃げないどころか踏み込んでいる。
明日の私が布団の中で悶絶する未来が見える。けれど今は、引き下がりたくなかった。
部長は一瞬黙った。
そして、胸ポケットからスマホを取り出す。
「明後日の土曜、午前なら時間がある」
「土曜」
「場所は、会社の外がいい。嫌なら断っていい」
嫌じゃない。
嫌じゃないから困る。
上司と部下。七年前の初恋の人。妹の病気。渡されなかった言葉。
いろいろな線が足元に引かれているのに、その向こうへ一歩進みたいと思ってしまう。
「……灯は、どうですか」
口に出してから、心臓が跳ねた。
古い喫茶店「灯」。三上さんと話し、葵さんとも会った場所。
七年前に直接つながるわけではないけれど、今の私が少しずつ過去を受け取った場所。
部長は静かにうなずいた。
「わかった。十時でいいか」
「はい」
約束ができてしまった。
土曜の午前十時。
会社の外で、部長と会う。
これはデートではない。面談でもない。いや、どちらでもないから余計に難しい。
私の心臓、週末まで持つだろうか。
その時、給湯室の入口から足音が近づいた。
反射的に一歩下がろうとした私の手元で、紙コップが傾いた。
「あっ」
熱いコーヒーが指先に跳ねる、と思った瞬間、部長の手が私の手首を支えた。
近い。
指先ではなく、手首。
強くも弱くもない、仕事で書類を受け取る時とはまるで違う温度。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫です」
声が小さくなる。
大丈夫ではない。心臓が。
入口に現れたのは羽田くんだった。
彼は私と部長の距離を見て、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
「あ、すみません。お邪魔しました」
「羽田」
部長がすぐに手を離した。
その速さが、逆に何かを隠したみたいに見えて、私は余計に顔が熱くなる。
「給湯室は共有スペースだ。使っていい」
「いえ、資料室のポット使います」
羽田くんは明らかに気を遣った顔で、くるりと方向転換した。
待って。
その判断、社会人として正しいけれど、今の状況では非常にまずい。
「羽田くん、違うの、これは」
何が違うのか、自分でも説明できない。
羽田くんは振り返り、少しだけ困ったように笑った。
「結城先輩、明日の朝イチの資料、机に置いておきました。あとで確認お願いします」
「あ、ありがとう」
「お疲れさまです」
それだけ言って、彼は去っていった。
雨音が戻ってくる。
給湯室の空気は、さっきとは別の意味で熱かった。
「……戻るぞ」
「はい」
部長は先に歩き出した。
私は少し遅れて、紙コップを持ち直す。
手首に、さっきの温度が残っていた。
逃げないと決めたのに、今すぐ逃げたい。
でも、土曜の十時を取り消したいとは思わなかった。
フロアに戻ると、私の机の上には羽田くんの資料が置かれていた。
その一番上に、小さな付箋が貼ってある。
『先輩、無理してませんか。明日、少し話したいです』
私はその付箋を見つめたまま、息を止めた。
土曜の約束より先に、明日の朝が来る。
(第34話へ続く)




