返さなくていい言葉
会社に戻るまでの道で、私は何度もバッグの中を気にした。
白い封筒は、薄い。
なのに、やけに重かった。
中に入っているのは、紺色の傘の保証書と、古い紙ナプキン一枚だけ。
たったそれだけなのに、七年前の雨の日から今日まで、私の胸のどこかに引っかかっていたものが、いまさら音を立てて動き出した気がした。
『返さなくていい。雨の日に、困らないように』
あの人は、何も言わなかった。
言わないまま、私を切った。
でも、言わなかった言葉が、存在しなかったわけじゃない。
それを知ってしまったら、私はもう、七年前と同じ場所には立っていられない。
会社のエントランスに入ると、冷房の空気が濡れた頬を撫でた。傘の水滴を落としながら、私は深呼吸する。
大丈夫。
仕事中だ。
私は社会人。二十六歳。昼休みに初恋の墓を掘り返されて泣きかけた女ではない。ないったらない。
そう自分に言い聞かせて、企画部のフロアへ戻った。
「結城さん、おかえりなさい」
羽田くんが顔を上げた。
「ただいま。遅くなってごめんね」
「大丈夫です。午後イチの資料、三上さんが先に確認してくれてます」
「ありがとう」
いつもの会話。
いつもの机。
いつものキーボードの音。
なのに、部長席の方向だけが、どうしても見られなかった。
見たら、何かが顔に出る。
私の顔面は、こういう時にまったく信用できない。耳とか頬とか、勝手に全部しゃべる。社外秘の情報漏洩より危険である。
私は椅子に座り、バッグを足元に置いた。
その瞬間、封筒の存在を思い出してしまう。
だめだ。机の上に出したら終わる。
見つかったら説明できない。
でもバッグの中に入れっぱなしでも、足元から七年前が発熱している。
私はそっとファイルケースを取り出し、封筒を中に挟んだ。
仕事。仕事をしよう。
画面を開く。文字を打つ。数字を見る。
けれど、見積表の単価の間に、どうしてもあの一文が入り込んでくる。
返さなくていい。
それは、傘のことだけだったのだろうか。
それとも、私の気持ちのことも、少しだけ含まれていたのだろうか。
考えた途端、胸が苦しくなった。
都合よく解釈したい自分がいる。
でも、勝手に期待してまた傷つくのが怖い自分もいる。
七年前の私は、部長の「応えられない」という言葉だけを握りしめて帰った。
その裏に何があったのか、知るすべなんてなかった。
知らないことは、なかったことと同じじゃない。
でも、知らされなかった側の痛みも、ちゃんとある。
葵さんの言葉が、耳の奥によみがえる。
『兄の事情を知っても、結城さんが傷ついたことは消えません』
そうだ。
消えない。
消えないけれど、形は変わるのかもしれない。
ただの拒絶だと思っていたものに、別の輪郭があったと知った。
私の好きが重かったから捨てられたんじゃない。
あの人が、自分の重さを隠したかったのだ。
そう思ったら、七年前の私が少しだけ息をした。
「結城」
低い声に、心臓が跳ねた。
勢いよく顔を上げると、いつの間にか部長が私の席の横に立っていた。
近い。
いや、上司が部下の席に来る距離としては普通。普通なのに、今日は普通の距離が普通ではない。
「はいっ」
声が裏返った。
部長の眉が、わずかに動いた。
「……体調が悪いのか」
「いえ、大丈夫です」
出た。
葵さんに指摘されたばかりの、大丈夫じゃない時の大丈夫。
自分で言って、自分で墓穴に片足を突っ込んだ気がした。
部長は数秒黙ったあと、私の机に資料を置いた。
「午後の打ち合わせ、先方の担当が一人増える。想定質問を追加しておいてほしい」
「わかりました」
「急がなくていい。十六時までで間に合う」
いつもの指示。
短くて、無駄がなくて、少し冷たい。
でも、その声の奥に、いまは別のものを探してしまう。
七年前、病院の廊下で電話していた人。
妹の検査結果を待ちながら、仕事をしていた人。
誰にも頼れない顔で、誰かを守ろうとしていた人。
そして、私に渡すはずだった言葉を、結局渡せなかった人。
「あの」
気づいたら、呼び止めていた。
部長が振り返る。
どうしよう。
何を言うつもりだったの、私。
ここはオフィス。午後の業務中。恋愛感情の不法投棄現場ではない。
私は必死に仕事の顔を作った。
「午後の打ち合わせ、同席は三上さんもされますか」
「する。先方の追加担当は購買寄りだ。三上に詰めてもらう」
「承知しました」
逃げた。
完璧に逃げた。
でも、いまこの場で「七年前の紙ナプキンを見ました」なんて言えるわけがない。
部長は私を見たまま、少しだけ間を置いた。
「結城」
「はい」
「無理なら言え」
それだけ言って、部長は席へ戻っていった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
無理なら言え。
七年前の部長は、きっと誰にもそれを言えなかった。
だから、全部自分で抱えた。
抱えたまま、私を遠ざけた。
なら私は、同じことをしないほうがいいのだろうか。
でも、何を言えばいいのかわからない。
知りました、なんて言うのは簡単だ。
けれど、葵さんから聞いたことを、私が勝手に部長へ突きつけていいのか。
七年前の傷を理由に、今の部長を追い詰めたくない。
だけど、また何も言えないまま飲み込んだら、私はまた自分で自分を置き去りにしてしまう。
午後の打ち合わせは、驚くほど普通に進んだ。
部長はいつも通り淡々としていて、三上さんは鋭く先方の条件を整理して、私は追加資料を出すタイミングを間違えなかった。
仕事をしている間だけは、少しだけ救われる。
感情に名前をつけなくても、目の前のタスクには締切がある。締切は裏切らない。いや、時々とんでもない顔で襲ってくるけれど、少なくとも「どう思っているんですか」なんて聞いてこない。
打ち合わせが終わり、会議室を片づけていると、三上さんが小さな声で言った。
「葵ちゃんに会った?」
ファイルを落としそうになった。
「な、なぜ」
「顔に書いてある」
「私の顔、今日どれだけ情報漏洩してますか」
「社内規定なら始末書」
厳しい。
三上さんは椅子を戻しながら、少し声を落とした。
「聞いたんだね。七年前のこと、少し」
「……はい」
「全部じゃないと思う」
その言葉に、私は息を止めた。
三上さんは続けなかった。
ただ、会議室のドアのほうを見て、いつもの落ち着いた声で言った。
「でも、あなたが知っていいことだとは思う。霧島さんが自分で話すべきことだけど」
「部長は、話してくれるでしょうか」
「さあ」
あっさりしている。
「そこは励ましてくれるところでは」
「期待しすぎると、あの人は黙るから」
身も蓋もない。でも、妙に納得してしまう。
三上さんは最後の資料をまとめ、私に渡した。
「だから、聞き出すより先に、あなたがどうしたいか決めたほうがいい」
「私が、どうしたいか」
「うん。許すかどうかじゃなくて。知りたいのか、知りたくないのか。近づきたいのか、距離を置きたいのか」
その言葉は、静かに胸に沈んだ。
私は、どうしたいのだろう。
七年前の真相を知りたい。
でも、知ったらもう戻れない気がする。
部長を責めたいわけじゃない。
でも、何もなかったみたいに笑うこともできない。
そして、いちばん困るのは。
それでも、部長が心配で。
それでも、部長の声に反応して。
それでも、あの紙ナプキンの文字を、何度も読み返したいと思っている自分がいることだった。
夕方、雨は強くなった。
窓ガラスを細かく叩く音が、フロアの静かな空気に混じる。
定時を過ぎても、私は帰る準備ができずにいた。
ファイルケースの中の封筒を取り出す。
もう一度だけ、紙ナプキンを見た。
古いインクは少しかすれている。
それでも文字は残っていた。
返さなくていい。
雨の日に、困らないように。
「……困ってますよ」
小さくつぶやいた。
七年前も、今も。
私はあなたの言葉が足りなくて、困っている。
その時、スマホが震えた。
葵さんからだった。
『検査、問題なしでした。結城さんには言っておきたくて。兄には私から連絡します。あと、封筒のことは、結城さんが持っていてください』
続けて、もう一通。
『あれはたぶん、兄が渡せなかった勇気なので』
画面がにじんだ。
勇気。
あの人にも、渡せなかったものがあった。
私だけが、言えなかったわけじゃない。
私は紙ナプキンを封筒に戻し、ファイルケースにしまった。
そして立ち上がった。
部長席には、まだ明かりが残っている。
フロアには数人いるけれど、部長はモニターから目を離さず、いつもの硬い横顔で資料を確認していた。
近づくたびに、足が重くなる。
でも、ここで逃げたら、私はまた七年前の雨の中に戻ってしまう。
「部長」
声をかけると、部長が顔を上げた。
「どうした」
「今日、少しだけ、話せませんか」
部長の指が、キーボードの上で止まった。
私は逃げないように、バッグの持ち手を握りしめた。
「仕事のことでは、ありません」
自分の声が震えているのがわかった。
でも、言えた。
部長は何も聞き返さなかった。
ただ、ゆっくりとノートパソコンを閉じた。
「五分だけ待て」
その声は、いつもより低かった。
「俺も、話さなきゃいけないことがある」
雨音が、窓の向こうで強くなった。
私はその場で、初めて自分から待つことを選んだ。
(第33話へ続く)




