表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
32/45

返さなくていい言葉

 会社に戻るまでの道で、私は何度もバッグの中を気にした。


 白い封筒は、薄い。

 なのに、やけに重かった。


 中に入っているのは、紺色の傘の保証書と、古い紙ナプキン一枚だけ。

 たったそれだけなのに、七年前の雨の日から今日まで、私の胸のどこかに引っかかっていたものが、いまさら音を立てて動き出した気がした。


『返さなくていい。雨の日に、困らないように』


 あの人は、何も言わなかった。

 言わないまま、私を切った。


 でも、言わなかった言葉が、存在しなかったわけじゃない。


 それを知ってしまったら、私はもう、七年前と同じ場所には立っていられない。


 会社のエントランスに入ると、冷房の空気が濡れた頬を撫でた。傘の水滴を落としながら、私は深呼吸する。


 大丈夫。

 仕事中だ。

 私は社会人。二十六歳。昼休みに初恋の墓を掘り返されて泣きかけた女ではない。ないったらない。


 そう自分に言い聞かせて、企画部のフロアへ戻った。


「結城さん、おかえりなさい」


 羽田くんが顔を上げた。


「ただいま。遅くなってごめんね」


「大丈夫です。午後イチの資料、三上さんが先に確認してくれてます」


「ありがとう」


 いつもの会話。

 いつもの机。

 いつものキーボードの音。


 なのに、部長席の方向だけが、どうしても見られなかった。


 見たら、何かが顔に出る。

 私の顔面は、こういう時にまったく信用できない。耳とか頬とか、勝手に全部しゃべる。社外秘の情報漏洩より危険である。


 私は椅子に座り、バッグを足元に置いた。

 その瞬間、封筒の存在を思い出してしまう。


 だめだ。机の上に出したら終わる。

 見つかったら説明できない。

 でもバッグの中に入れっぱなしでも、足元から七年前が発熱している。


 私はそっとファイルケースを取り出し、封筒を中に挟んだ。


 仕事。仕事をしよう。


 画面を開く。文字を打つ。数字を見る。


 けれど、見積表の単価の間に、どうしてもあの一文が入り込んでくる。


 返さなくていい。


 それは、傘のことだけだったのだろうか。

 それとも、私の気持ちのことも、少しだけ含まれていたのだろうか。


 考えた途端、胸が苦しくなった。


 都合よく解釈したい自分がいる。

 でも、勝手に期待してまた傷つくのが怖い自分もいる。


 七年前の私は、部長の「応えられない」という言葉だけを握りしめて帰った。

 その裏に何があったのか、知るすべなんてなかった。


 知らないことは、なかったことと同じじゃない。

 でも、知らされなかった側の痛みも、ちゃんとある。


 葵さんの言葉が、耳の奥によみがえる。


『兄の事情を知っても、結城さんが傷ついたことは消えません』


 そうだ。

 消えない。


 消えないけれど、形は変わるのかもしれない。


 ただの拒絶だと思っていたものに、別の輪郭があったと知った。

 私の好きが重かったから捨てられたんじゃない。

 あの人が、自分の重さを隠したかったのだ。


 そう思ったら、七年前の私が少しだけ息をした。


「結城」


 低い声に、心臓が跳ねた。


 勢いよく顔を上げると、いつの間にか部長が私の席の横に立っていた。


 近い。

 いや、上司が部下の席に来る距離としては普通。普通なのに、今日は普通の距離が普通ではない。


「はいっ」


 声が裏返った。


 部長の眉が、わずかに動いた。


「……体調が悪いのか」


「いえ、大丈夫です」


 出た。

 葵さんに指摘されたばかりの、大丈夫じゃない時の大丈夫。


 自分で言って、自分で墓穴に片足を突っ込んだ気がした。


 部長は数秒黙ったあと、私の机に資料を置いた。


「午後の打ち合わせ、先方の担当が一人増える。想定質問を追加しておいてほしい」


「わかりました」


「急がなくていい。十六時までで間に合う」


 いつもの指示。

 短くて、無駄がなくて、少し冷たい。


 でも、その声の奥に、いまは別のものを探してしまう。


 七年前、病院の廊下で電話していた人。

 妹の検査結果を待ちながら、仕事をしていた人。

 誰にも頼れない顔で、誰かを守ろうとしていた人。


 そして、私に渡すはずだった言葉を、結局渡せなかった人。


「あの」


 気づいたら、呼び止めていた。


 部長が振り返る。


 どうしよう。

 何を言うつもりだったの、私。


 ここはオフィス。午後の業務中。恋愛感情の不法投棄現場ではない。


 私は必死に仕事の顔を作った。


「午後の打ち合わせ、同席は三上さんもされますか」


「する。先方の追加担当は購買寄りだ。三上に詰めてもらう」


「承知しました」


 逃げた。

 完璧に逃げた。


 でも、いまこの場で「七年前の紙ナプキンを見ました」なんて言えるわけがない。


 部長は私を見たまま、少しだけ間を置いた。


「結城」


「はい」


「無理なら言え」


 それだけ言って、部長は席へ戻っていった。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 無理なら言え。


 七年前の部長は、きっと誰にもそれを言えなかった。

 だから、全部自分で抱えた。

 抱えたまま、私を遠ざけた。


 なら私は、同じことをしないほうがいいのだろうか。


 でも、何を言えばいいのかわからない。

 知りました、なんて言うのは簡単だ。

 けれど、葵さんから聞いたことを、私が勝手に部長へ突きつけていいのか。


 七年前の傷を理由に、今の部長を追い詰めたくない。

 だけど、また何も言えないまま飲み込んだら、私はまた自分で自分を置き去りにしてしまう。


 午後の打ち合わせは、驚くほど普通に進んだ。


 部長はいつも通り淡々としていて、三上さんは鋭く先方の条件を整理して、私は追加資料を出すタイミングを間違えなかった。


 仕事をしている間だけは、少しだけ救われる。

 感情に名前をつけなくても、目の前のタスクには締切がある。締切は裏切らない。いや、時々とんでもない顔で襲ってくるけれど、少なくとも「どう思っているんですか」なんて聞いてこない。


 打ち合わせが終わり、会議室を片づけていると、三上さんが小さな声で言った。


「葵ちゃんに会った?」


 ファイルを落としそうになった。


「な、なぜ」


「顔に書いてある」


「私の顔、今日どれだけ情報漏洩してますか」


「社内規定なら始末書」


 厳しい。


 三上さんは椅子を戻しながら、少し声を落とした。


「聞いたんだね。七年前のこと、少し」


「……はい」


「全部じゃないと思う」


 その言葉に、私は息を止めた。


 三上さんは続けなかった。

 ただ、会議室のドアのほうを見て、いつもの落ち着いた声で言った。


「でも、あなたが知っていいことだとは思う。霧島さんが自分で話すべきことだけど」


「部長は、話してくれるでしょうか」


「さあ」


 あっさりしている。


「そこは励ましてくれるところでは」


「期待しすぎると、あの人は黙るから」


 身も蓋もない。でも、妙に納得してしまう。


 三上さんは最後の資料をまとめ、私に渡した。


「だから、聞き出すより先に、あなたがどうしたいか決めたほうがいい」


「私が、どうしたいか」


「うん。許すかどうかじゃなくて。知りたいのか、知りたくないのか。近づきたいのか、距離を置きたいのか」


 その言葉は、静かに胸に沈んだ。


 私は、どうしたいのだろう。


 七年前の真相を知りたい。

 でも、知ったらもう戻れない気がする。


 部長を責めたいわけじゃない。

 でも、何もなかったみたいに笑うこともできない。


 そして、いちばん困るのは。


 それでも、部長が心配で。

 それでも、部長の声に反応して。

 それでも、あの紙ナプキンの文字を、何度も読み返したいと思っている自分がいることだった。


 夕方、雨は強くなった。


 窓ガラスを細かく叩く音が、フロアの静かな空気に混じる。

 定時を過ぎても、私は帰る準備ができずにいた。


 ファイルケースの中の封筒を取り出す。


 もう一度だけ、紙ナプキンを見た。


 古いインクは少しかすれている。

 それでも文字は残っていた。


 返さなくていい。

 雨の日に、困らないように。


「……困ってますよ」


 小さくつぶやいた。


 七年前も、今も。

 私はあなたの言葉が足りなくて、困っている。


 その時、スマホが震えた。


 葵さんからだった。


『検査、問題なしでした。結城さんには言っておきたくて。兄には私から連絡します。あと、封筒のことは、結城さんが持っていてください』


 続けて、もう一通。


『あれはたぶん、兄が渡せなかった勇気なので』


 画面がにじんだ。


 勇気。


 あの人にも、渡せなかったものがあった。

 私だけが、言えなかったわけじゃない。


 私は紙ナプキンを封筒に戻し、ファイルケースにしまった。

 そして立ち上がった。


 部長席には、まだ明かりが残っている。

 フロアには数人いるけれど、部長はモニターから目を離さず、いつもの硬い横顔で資料を確認していた。


 近づくたびに、足が重くなる。


 でも、ここで逃げたら、私はまた七年前の雨の中に戻ってしまう。


「部長」


 声をかけると、部長が顔を上げた。


「どうした」


「今日、少しだけ、話せませんか」


 部長の指が、キーボードの上で止まった。


 私は逃げないように、バッグの持ち手を握りしめた。


「仕事のことでは、ありません」


 自分の声が震えているのがわかった。

 でも、言えた。


 部長は何も聞き返さなかった。

 ただ、ゆっくりとノートパソコンを閉じた。


「五分だけ待て」


 その声は、いつもより低かった。


「俺も、話さなきゃいけないことがある」


 雨音が、窓の向こうで強くなった。


 私はその場で、初めて自分から待つことを選んだ。


(第33話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ