妹の昼休み
翌朝、私はいつもより三十分早く会社に着いた。
理由は明白である。
寝不足の顔を、少しでも人間の形に戻すためだ。
女子トイレの鏡の前で、私は自分の目元にコンシーラーを丁寧に叩き込んだ。えらい。社会人は、感情の動揺を肌色で隠す技術まで求められる。求人票に書いておいてほしい。
葵さんからのメッセージは、昨夜から何度も読み返した。
『明日のお昼、兄には内緒で会えますか。私の病気のことを、結城さんに直接話したいです』
病気。
その二文字が、七年前の雨の日までまっすぐ糸を伸ばしている気がした。
部長が、私の告白を断った日。
静かな声で「ごめん」とだけ言って、何も説明してくれなかった日。
私はずっと、自分の気持ちが重かったのだと思っていた。
好きだと言ったことが、あの人を困らせたのだと。
けれど、三上さんの話を聞いて、玲子さんが恋敵ではなく戦友だったと知って、少しずつ見えてきたものがある。
部長は、私の知らないところで、誰かを必死に守っていた。
その誰かが、葵さん。
「……落ち着け、私」
鏡の中の自分に小声で言う。
落ち着けと言われて落ち着くなら、人類はもう少し平和だ。
フロアに戻ると、部長はすでに席にいた。白いシャツに紺のネクタイ。いつも通り隙がない。氷の部長、本日も通常運転である。
けれど、私の目はどうしても、昨夜の傘の下の距離を思い出してしまう。
手の上に、触れないぎりぎりで添えられた指。
低い声。
真ん中でいい、という言葉。
いや、違う。今は仕事。企画部の朝は恋愛回想に優しくない。
「結城さん」
「はいっ」
返事が大きすぎた。
近くの羽田くんが、ぱちっと瞬きをする。あかねは口元を押さえた。笑うな。いや、笑っている。完全に笑っている。
部長は一瞬だけ私を見たあと、資料を差し出した。
「午後の先方確認、数字だけ先に見ておいてくれ」
「はい。十時までに確認します」
「無理なら言え」
「大丈夫です」
反射で答えた私に、部長の目が少し細くなる。
「本当に大丈夫な時の顔じゃない」
心臓が変な跳ね方をした。
なんで、そういうところだけ見逃さないんですか。
そして私は、今すぐ鏡に戻って「顔、仕事しろ」と説教したい。
「寝不足なだけです」
「昨日、遅かったか」
「いえ、その……考えごとを」
部長の指が、資料の端で止まる。
昨夜、私は部長に約束した。
ちゃんと聞きたい、と。
部長も、ちゃんと話す、と言った。
でも今日、私が会うのは部長ではなく、葵さんだ。
兄には内緒で。
その事実が、胸の奥を少しだけ痛ませた。
「昼休み、外に出ます」
私は、できるだけ普通の声で言った。
「そうか」
「一時間で戻ります」
「誰かと会うのか」
さらりと聞かれて、息が詰まった。
部長の声に詮索の色はない。上司としての確認に近い。たぶん。たぶん、たぶん。
けれど私は、葵さんとの約束を思い出して、小さく首を縦に振った。
「はい。少し」
「わかった」
部長はそれ以上聞かなかった。
その優しさが、かえって痛い。
聞かれないことにほっとしているのに、隠していることが苦しい。人間の心、仕様が複雑すぎる。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、私はバッグを手に取った。
「あ、ひなた」
あかねが椅子ごとこちらに寄ってくる。
「今日、顔が“これから大事な話を聞きます”って顔」
「顔に字幕出てる?」
「出てる。太字」
「消したい」
「無理。行ってきな」
あかねは軽く手を振ったあと、少しだけ声を落とした。
「聞いてしんどくなったら、戻ってきてから給湯室集合ね」
その言葉だけで、背中が少し温かくなる。
「ありがとう」
私は会社を出て、古い喫茶店『灯』へ向かった。
梅雨の空は、今にも泣き出しそうな灰色だった。傘を持っているか確認して、バッグの中の水色の折りたたみ傘に触れる。
葵さんがくれた傘。
昨夜、部長と一緒に入った傘。
それを思い出すだけで、耳が熱くなる。だめだ。傘に罪はない。
『灯』のドアを開けると、ベルが控えめに鳴った。
奥の席で、葵さんが手を振っていた。
「結城さん、こっちです」
霧島葵さん、二十五歳。
明るい色のブラウスに、短めの髪。笑うと目元が部長に少し似ている。でも雰囲気は全然違う。部長が氷なら、葵さんは炭酸水だ。ぱちぱちしている。
「急に呼び出してすみません」
「いえ。こちらこそ、時間作っていただいて」
「兄には?」
「言ってません」
「えらいです」
褒められた。
しかし内容が“上司に内緒で上司の妹と会う”なので、社会人的には本当にえらいのか怪しい。
注文を済ませると、葵さんは両手で水のグラスを包んだ。
「兄、昨日ちゃんと帰りました?」
「あ、はい。一時間で退勤連絡を入れるって言っていて、本当に五十八分後に来ました」
「律儀すぎて怖いですね」
「少し思いました」
葵さんが笑う。
その笑い方は軽いのに、すぐに静かになった。
「結城さんに、先に謝っておきます」
「え?」
「私が話すことは、兄が話したくないことかもしれません。でも、兄が話さないままだと、結城さんがまた自分を責める気がして」
また。
その一語に、喉がきゅっと狭くなる。
「葵さんは……私が七年前のことを、知っているんですか」
「全部ではないです。でも、兄が昔、誰かをすごく傷つけたことがあるっていうのは、知っています」
カップを置く音が、遠くで鳴った。
葵さんは視線を落としたまま、続ける。
「七年前、私は入院していました。病名を細かく言うと長くなるんですけど、免疫の病気で、治療が長引いて。良くなったと思ったら悪くなって、退院の予定が延びて、また検査して……そういうのを繰り返してました」
明るい声ではなかった。
でも、悲劇ぶってもいなかった。
事実を、ひとつずつ机に置いていくような話し方だった。
「両親はもういなかったので、保証人も、手続きも、先生との話も、全部兄でした。兄は昼間会社に行って、夜に病院に来て、私が寝たあと廊下でノートパソコン開いてました」
胸の奥が、静かに沈んでいく。
七年前の部長。
三十一歳の部長。
今の私より五つ年上なだけの人が、仕事と妹の命と生活を、全部ひとりで抱えていた。
「三上さんが、よく差し入れを持ってきてくれました。兄の分のおにぎりとか、着替えとか。私、最初は彼女さんかと思ってました」
「私も、少し……そう思っていました」
「ですよね。わかります。距離が近いから」
葵さんは苦笑した。
「でも、あれは恋人の距離じゃなくて、倒れそうな人の襟首をつかんで引き戻す距離でした」
その表現に、三上さんの顔が浮かんだ。
背筋の伸びた、有能な人。
部長の無茶を、現実の側から止めていた戦友。
「兄、弱音を吐かないんです。吐かないというより、吐き方を知らない。自分が我慢すれば回ると思ってる。実際は全然回ってないのに」
わかる。
わかってしまう。
今の部長も、少し目を離すと仕事を抱える。大丈夫じゃない顔で、大丈夫だと言う。
「七年前の兄には、本当に余白がありませんでした」
葵さんの声が、少し震えた。
「朝起きて、仕事して、病院に来て、私の前では笑って、帰ってまた仕事して。自分の食事も睡眠も、後回し。誰かと出かける時間どころか、好きな人に好きって言われて喜ぶ余裕も、たぶんなかった」
好きな人。
その言葉が、私の中に落ちる。
私は思わず顔を上げた。
「葵さん、それは」
「ごめんなさい。私の想像です」
葵さんは、すぐにそう言った。
「兄は何も言いませんでした。ただ、ある雨の日の夜、病院に来た兄が、傘を持っていなかったんです。肩が濡れていて、いつもより顔色が悪くて。私が聞いたら、貸したって」
指先が冷たくなる。
紺色の傘。
私が、七年返せずにいる傘。
「誰に、とは言いませんでした。でもその日、兄はずっとぼんやりしてました。私の点滴の残り時間を三回も聞いて、看護師さんに注意されて」
あの部長が。
点滴の残り時間を、三回。
胸がぎゅっと痛んで、少しだけ笑いそうになって、でも笑えなかった。
「そのあと、兄が廊下で電話しているのを聞きました」
葵さんは、グラスから手を離した。
「“これ以上、巻き込めない”って。誰に話していたのかはわかりません。たぶん三上さんだと思います」
巻き込めない。
その言葉は、やさしさに似た刃物みたいだった。
私の気持ちが重かったんじゃない。
部長は、重い現実を私に見せるのが怖かったのかもしれない。
でも、それで切られた私は、七年間ずっと、自分のほうが悪いと思っていた。
それもまた、事実だった。
「……私は」
声を出すと、少しかすれた。
「何も知りませんでした」
「知れなかったんです。兄が隠したから」
葵さんは、はっきり言った。
「兄は優しいです。でも、優しさの使い方を間違えます。相手に選ばせないで、勝手に守った気になる」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
部長を責めたいわけじゃない。
七年前の彼がどれほど追い詰められていたのか、今なら少し想像できる。
でも、痛かったと言っていいのだろうか。
私は傷ついたと、認めてもいいのだろうか。
「結城さん」
葵さんが、まっすぐ私を見た。
「兄の事情を知っても、結城さんが傷ついたことは消えません」
息が止まった。
「兄のこと、許してあげてくださいって言いに来たんじゃないです。私が病気だったから仕方なかったんです、って免罪符を渡したいわけでもないです」
葵さんは小さく息を吸った。
「ただ、結城さんが“私の好きが重かったんだ”って思い続けているなら、それは違うって言いたかった」
視界がにじむ。
まずい。ここは喫茶店だ。大人は公共の場で泣く時、せめてハンカチを出す猶予がほしい。
私は慌ててバッグを探った。
すると、葵さんが先に紙ナプキンを差し出してくれた。
「すみません」
「いえ。兄より先に泣かせてしまいました」
「部長は、泣かせる予定なんですか」
「できれば一回くらい泣けばいいと思ってます」
兄妹、遠慮がない。
でも、その遠慮のなさに救われる。
私は紙ナプキンを受け取り、目元をそっと押さえた。
七年前の私に言ってあげたい。
あなたの気持ちは、誰かを壊すものじゃなかったよ。
ただ、届いた相手が、自分の壊れそうな場所を見せられなかっただけなんだよ、と。
昼休みの残り時間は、もう半分を過ぎていた。
葵さんは伝票を手に取ろうとしたけれど、私は慌てて止めた。
「今日は私が払います」
「え、だめです。呼び出したの私です」
「でも話してくださったので」
「じゃあ割り勘にしましょう。兄に似て頑固な人が増えると困るので」
「私、部長に似てますか」
「少し。大丈夫じゃない時に大丈夫って言うところとか」
ぐうの音も出ない。
店を出ると、空から細かい雨が落ち始めていた。
私はバッグから水色の傘を出す。葵さんがそれを見て、少しだけ目を丸くした。
「使ってくれてるんですね」
「はい。助かっています」
「兄と入りました?」
なぜわかる。
「……入りました」
「よし」
「よし?」
「いえ、こちらの話です」
葵さんは満足そうに頷いたあと、駅とは反対方向を指した。
「私は病院の定期検査があるので、こっちです」
「今も通っているんですか」
「経過観察だけです。元気です。兄が聞いたら心配で固まるので、結城さんからは言わないでください」
固まる部長が容易に想像できて、私は小さく笑った。
「わかりました」
「それと」
葵さんは、バッグの中から白い封筒を取り出した。
表には、何も書かれていない。
「これ、結城さんに渡すか迷ってました」
「私に?」
「七年前、兄の病室のロッカーに入っていたものです。最近、荷物を整理していたら出てきました」
雨音が、急に近くなる。
葵さんは封筒を私の手に置いた。
中には、紺色の傘の保証書と、古い喫茶店『灯』の紙ナプキンが一枚。
その紙ナプキンの端に、見慣れないけれど今ならわかる筆跡で、短く書かれていた。
『返さなくていい。雨の日に、困らないように』
七年前、私に渡されなかった言葉だった。
(第32話へ続く)




