表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
30/43

戦友の距離

 部長の「次は、俺から話す」という声のあと、テーブルの上に静かな間が落ちた。


 古い喫茶店「灯」の照明は、夕方になると少しだけ濃くなる。窓の外では、まだ雨は降っていない。けれど空気は重く湿っていて、ガラスの向こうの街灯だけがぼんやり滲んで見えた。


 三上さんが、飲みかけの紅茶のカップをそっと置く。


「私は席を外しましょうか」


「いや」


 部長は短く答えた。


「三上にも、聞いていてほしい」


 その言い方が、仕事の報告みたいに硬いのに、どこか頼るようにも聞こえて、私は思わず膝の上の水色の傘を握りしめた。


 七年前の紺色ではない。

 今日借りた、軽い折りたたみ傘。


 でも、手のひらに残る緊張は同じだった。


「まず、誤解させたなら謝る」


 部長が私を見た。


「三上とは、そういう関係だったことは一度もない」


 ……直球。


 心臓が変な音を立てた。いや、そこからですか。いえ、そこからで助かります。助かるけど、助かりすぎて顔の置き場がない。


「そ、そういう、というのは」


 わざわざ聞き返すな私。社会人の確認力を今ここで発揮しなくていい。


 部長は一拍黙り、少しだけ眉間にしわを寄せた。


「恋愛関係ではない」


「はい」


 即答してしまった。


 三上さんが横で小さく咳払いをした。笑いを隠したようにも見えたけれど、私は見なかったことにする。今の私は、冷静な大人の女性。たぶん。耳は熱いけれど。


 部長は視線をテーブルに落とした。


「七年前、俺は仕事をかなり抱えていた。家のこともあって、急な早退や欠勤が増えた時期がある」


 家のこと。


 その言葉だけで、葵さんの顔が浮かんだ。


 明るくて、遠慮がなくて、部長を兄と呼ぶ声が自然だった人。あの人が七年前、部長の生活の中心にいた。


 でも、どんな事情だったのかまでは、まだ語られない。

 私は、聞きたい気持ちを胸の奥でそっと押さえた。


 急がない。

 逃げないために、急がない。


「その時、部署の穴を埋めてくれたのが三上だった」


 三上さんは静かに頷いた。


「当時は私も若かったので、偉そうなことは言えません。ただ、霧島さんが倒れる前に止める人間が必要だったんです」


「倒れる前、ですか」


「はい。倒れてからでは遅いので」


 淡々とした声だった。


 でも、その言葉の重さは、砂糖を入れていない紅茶みたいにじわりと苦い。


 部長が、苦々しそうに口を結んだ。


「俺は、誰かに頼るのが下手だった」


「今もです」


 三上さんがすぐに言った。


 部長が一瞬だけ黙る。


「……否定はしない」


 氷の部長が、部下に真顔で刺されている。

 職場で見たら全員が息を止める場面だ。けれどここでは、不思議と怖くなかった。


 三上さんの言葉には、長年の怒りと、呆れと、それでも見捨てなかった時間が混ざっていた。


 恋ではない。

 でも、薄くもない。


 それが少しだけ、わかった。


「三上は、戦友だ」


 部長が言った。


 第26話で聞いたその言葉が、今度は目の前で形を持つ。


「俺が勝手に抱え込んで、仕事も生活も崩しかけた時に、隣で現実を見てくれた。甘やかされたわけじゃない。叱られたし、仕事も取り上げられた」


「取り上げましたね」


「メールの返信まで監視された」


「深夜三時に返信する人には必要な措置です」


 さらっと出てきた深夜三時という単語に、私は思わず部長を見た。


 部長は視線をそらした。


 そらした。


 今そらしましたよね、部長。


 仕事ができて、いつも定時の十手先まで読んでいるような人が、七年前にはそんなふうに壊れそうになっていた。


 その事実が、胸に重く触れる。


 私は七年前、雨の中で告白して、断られた。

 その瞬間だけを、ずっと抱えていた。


 でも部長の七年前は、あの雨の日だけではなかった。

 もっと長い夜や、病院の廊下や、誰にも見せない疲れがあったのかもしれない。


 そこまで想像して、私は指を止める。


 勝手に決めつけない。

 勝手に可哀想にしない。

 この人が自分の口で話す時まで、私は待つ。


「結城さん」


 呼ばれて、背筋が伸びた。


「はい」


「君に、三上とのことで余計な不安を持たせたなら、俺の説明不足だ」


「……不安、というか」


 言いかけて、喉が詰まった。


 どう言えばいいのだろう。


 恋人だったのかな、と勝手に傷ついていました。

 隣にいる三上さんが大人で、仕事もできて、部長の過去を知っていて、私は勝手に比べて勝手に落ち込んでいました。


 言えるわけがない。

 言ったら、私の胸の内側が会議資料みたいに全部開示されてしまう。


 私はカップの縁を見つめた。


「私が、勝手に想像したところもあります」


「それでも、俺が曖昧にした」


 すぐに返ってきた声が低くて、逃げ道を作らない響きをしていた。


「上司として、過去の私情を職場に持ち込むべきではないと思っていた。だが、隠すことと、説明しないことは違う」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。


 部長はいつも線を引く。

 上司だから。

 年上だから。

 過去があるから。


 きっとその線は、私を遠ざけるためだけではなく、自分を罰するためのものでもあったのだと思う。


「部長」


「なんだ」


「三上さんが戦友だってことは、わかりました」


 言葉にすると、少しだけ息がしやすくなった。


「でも、戦友って、すごく強い言葉ですね」


 部長の目がわずかに揺れた。


 三上さんが、私をまっすぐ見る。


「強いですよ。恋愛より長持ちする場合もあります」


「三上」


「事実です」


 部長がまた負けた。


 私は笑いそうになって、でも笑えなかった。


 だって三上さんの声には、冗談の形をした本音があったから。


「結城さん」


 三上さんが、今度は私に向き直った。


「私は霧島さんの味方です。けれど、霧島さんが間違えた時は、間違えたと言います」


「はい」


「だから、あなたが何かを知りたいと思った時、私を遠慮しないでください。恋敵ではありませんので」


 恋敵。


 単語がテーブルの上に置かれた瞬間、私は盛大にむせかけた。


「こ、こい……」


「三上」


 部長の声が低くなる。


「すみません。少し言いすぎました」


 少しですか。かなりでは。


 でも、三上さんは涼しい顔をしている。大人の女性、強い。私もいつかあの角度の涼しい顔を会得したい。今の私は、耳どころか首まで熱い。


 部長が咳払いをした。


「今日は、ここまでにさせてほしい」


 私は顔を上げた。


「はい」


「七年前のことは、俺が話す。ただ、順番を間違えたくない」


 順番。


 その言葉に、不思議なくらい納得した。


 全部を一度に差し出されても、きっと受け止めきれない。七年分の沈黙は、資料の束みたいに机に積めばいいものではない。


 一枚ずつ、めくるしかない。


「わかりました」


 私の声は、さっきより少しだけ落ち着いていた。


「待ちます。でも、逃げたら怒ります」


 言ってから、しまったと思った。


 葵さんの言葉に背中を押されすぎた。上司に向かって何を宣言しているの、私。


 けれど部長は怒らなかった。


 むしろ、ほんの少しだけ目元の力を抜いた。


「三日反省する」


 葵さんから聞いたばかりの言葉を、真面目な声で返された。


 だめだ。

 これは反則だ。


 胸の奥が、きゅうっと変なふうに鳴った。


 三上さんが伝票を手に取って立ち上がる。


「では、私は先に戻ります。霧島さん、結城さんを駅までお願いします」


「三上」


「夜から降るんでしょう。傘はありますが、ひとりで帰す理由にはなりません」


 部長が何か言い返そうとして、やめた。


 私も何か言おうとして、やっぱりやめた。


 外に出ると、雨はまだ落ちていなかった。

 けれど風が湿っていて、街の匂いが近かった。隣に立つ部長の肩が、店の中より近く感じる。


 駅までの歩道は、会社帰りの人たちで少し混んでいた。


 部長は私の歩幅に合わせてくれた。気づかないふりをしたかったけれど、無理だった。


「結城さん」


「はい」


「今日は、疲れただろう」


「少しだけ」


 本当は、かなり。

 でも嫌な疲れではなかった。


「でも、来てよかったです」


 そう言うと、部長の足が一瞬だけ遅れた。


「そうか」


「はい」


 短い返事のあと、二人で信号待ちをした。


 車道を走る車のライトが、アスファルトを白く撫でていく。部長の横顔は相変わらず静かで、簡単には読めない。


 でももう、冷たいだけの人には見えなかった。


 氷みたいに見えるのは、中で何かを守りすぎているからかもしれない。


 信号が青に変わる。


 歩き出した瞬間、ぽつ、と頬に冷たいものが触れた。


「あ」


 雨だ。


 私は慌ててバッグから水色の折りたたみ傘を出そうとした。けれど新品同然のカバーがなかなか外れない。こういう時に限って手元が不器用になるのは、人生の仕様なのだろうか。


「貸して」


 部長の手が伸びた。


 指先が、私の指に一瞬触れる。


 たったそれだけで、雨より先に体温が走った。


 部長は何も言わずにカバーを外し、傘を開いてくれた。小さな水色の屋根が、私たちの間に広がる。


 けれど部長は、その傘を私に持たせた。


「駅まで近い。俺は大丈夫だ」


「だめです」


 反射だった。


 自分でも驚くくらい、はっきり声が出た。


 部長が私を見る。


「濡れます。入ってください」


「だが」


「怒ります」


 部長が黙った。


 勝った。

 いや、勝ち負けではない。たぶん。


 私は傘を少しだけ部長のほうへ傾けた。肩が近い。近い近い近い。水色の傘、思ったより小さい。葵さん、これは兄に借りを作らせないどころか、かなり高度な状況を作っています。


 部長は観念したように、私の隣に入った。


 肩と肩の間に、ほんの数センチの距離。

 触れてはいない。

 でも、傘の内側の空気が急に狭くなる。


「すみません、傘、小さくて」


「いや」


「部長、肩が」


「問題ない」


 問題あります。高確率で濡れています。


 私はさらに傘を傾けた。すると今度は自分の肩に雨が当たる。


 その瞬間、部長の手が傘の柄に添えられた。


「真ん中でいい」


 低い声が、すぐ近くで響く。


 傘の柄を持つ私の手の上に、部長の指が触れないぎりぎりの位置で重なる。


 触れていない。

 でも、触れているみたいだった。


 心臓が忙しい。社会人として落ち着け。これは雨具の運用に関する合理的判断。合理的判断でこんなに胸は鳴らない。


 駅の明かりが見えてきた頃、部長が言った。


「結城さん」


「はい」


「三上のことを、聞いてくれてありがとう」


 私は首を横に振った。


「私も、勝手に怖がっていました」


「怖がらせた」


「違います。怖がったんです、私が」


 雨音が傘を叩く。


「でも、今日少しわかりました。知らないから怖いこともあるし、知ってもすぐ平気になるわけじゃないけど……それでも、知らないまま想像するよりは、ちゃんと聞きたいです」


 言い終えた時、部長はしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「俺も、ちゃんと話す」


 その約束は、派手ではなかった。

 告白でも、謝罪の全部でもない。


 でも、七年分閉じていた扉に、初めて内側から鍵が差し込まれたような音がした。


 駅の入口で、部長は傘から出た。


「気をつけて帰れ」


「部長も」


「俺は会社に戻る」


「戻るんですか」


「少しだけだ」


 三上さんに深夜三時を監視されていた人の「少しだけ」は信用していいのだろうか。私は疑いの目を向けた。


 部長はその視線の意味に気づいたのか、珍しく先に言った。


「一時間で帰る」


「本当ですか」


「本当だ」


「証拠は」


「……帰ったら、社用チャットで退勤連絡を入れる」


 上司に証拠を要求する部下。人事に見られたらどう説明すればいいのだろう。


 でも部長は、少し困った顔をしただけだった。


「では、待っています」


 そう言って改札へ向かおうとした時、バッグの中でスマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 葵さんからだった。


『明日のお昼、兄には内緒で会えますか。私の病気のことを、結城さんに直接話したいです』


 息が止まる。


 病気。


 その二文字が、七年前の輪郭を突然はっきりさせた。


 私は改札の前で立ち止まり、濡れた傘を握り直した。


 部長が後ろから声をかける。


「結城さん?」


 私は画面から目を離せないまま、親指を動かした。


『会います』


 送信ボタンを押した瞬間、明日の予定が、七年前へつながった。


(第31話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ