戦友の距離
部長の「次は、俺から話す」という声のあと、テーブルの上に静かな間が落ちた。
古い喫茶店「灯」の照明は、夕方になると少しだけ濃くなる。窓の外では、まだ雨は降っていない。けれど空気は重く湿っていて、ガラスの向こうの街灯だけがぼんやり滲んで見えた。
三上さんが、飲みかけの紅茶のカップをそっと置く。
「私は席を外しましょうか」
「いや」
部長は短く答えた。
「三上にも、聞いていてほしい」
その言い方が、仕事の報告みたいに硬いのに、どこか頼るようにも聞こえて、私は思わず膝の上の水色の傘を握りしめた。
七年前の紺色ではない。
今日借りた、軽い折りたたみ傘。
でも、手のひらに残る緊張は同じだった。
「まず、誤解させたなら謝る」
部長が私を見た。
「三上とは、そういう関係だったことは一度もない」
……直球。
心臓が変な音を立てた。いや、そこからですか。いえ、そこからで助かります。助かるけど、助かりすぎて顔の置き場がない。
「そ、そういう、というのは」
わざわざ聞き返すな私。社会人の確認力を今ここで発揮しなくていい。
部長は一拍黙り、少しだけ眉間にしわを寄せた。
「恋愛関係ではない」
「はい」
即答してしまった。
三上さんが横で小さく咳払いをした。笑いを隠したようにも見えたけれど、私は見なかったことにする。今の私は、冷静な大人の女性。たぶん。耳は熱いけれど。
部長は視線をテーブルに落とした。
「七年前、俺は仕事をかなり抱えていた。家のこともあって、急な早退や欠勤が増えた時期がある」
家のこと。
その言葉だけで、葵さんの顔が浮かんだ。
明るくて、遠慮がなくて、部長を兄と呼ぶ声が自然だった人。あの人が七年前、部長の生活の中心にいた。
でも、どんな事情だったのかまでは、まだ語られない。
私は、聞きたい気持ちを胸の奥でそっと押さえた。
急がない。
逃げないために、急がない。
「その時、部署の穴を埋めてくれたのが三上だった」
三上さんは静かに頷いた。
「当時は私も若かったので、偉そうなことは言えません。ただ、霧島さんが倒れる前に止める人間が必要だったんです」
「倒れる前、ですか」
「はい。倒れてからでは遅いので」
淡々とした声だった。
でも、その言葉の重さは、砂糖を入れていない紅茶みたいにじわりと苦い。
部長が、苦々しそうに口を結んだ。
「俺は、誰かに頼るのが下手だった」
「今もです」
三上さんがすぐに言った。
部長が一瞬だけ黙る。
「……否定はしない」
氷の部長が、部下に真顔で刺されている。
職場で見たら全員が息を止める場面だ。けれどここでは、不思議と怖くなかった。
三上さんの言葉には、長年の怒りと、呆れと、それでも見捨てなかった時間が混ざっていた。
恋ではない。
でも、薄くもない。
それが少しだけ、わかった。
「三上は、戦友だ」
部長が言った。
第26話で聞いたその言葉が、今度は目の前で形を持つ。
「俺が勝手に抱え込んで、仕事も生活も崩しかけた時に、隣で現実を見てくれた。甘やかされたわけじゃない。叱られたし、仕事も取り上げられた」
「取り上げましたね」
「メールの返信まで監視された」
「深夜三時に返信する人には必要な措置です」
さらっと出てきた深夜三時という単語に、私は思わず部長を見た。
部長は視線をそらした。
そらした。
今そらしましたよね、部長。
仕事ができて、いつも定時の十手先まで読んでいるような人が、七年前にはそんなふうに壊れそうになっていた。
その事実が、胸に重く触れる。
私は七年前、雨の中で告白して、断られた。
その瞬間だけを、ずっと抱えていた。
でも部長の七年前は、あの雨の日だけではなかった。
もっと長い夜や、病院の廊下や、誰にも見せない疲れがあったのかもしれない。
そこまで想像して、私は指を止める。
勝手に決めつけない。
勝手に可哀想にしない。
この人が自分の口で話す時まで、私は待つ。
「結城さん」
呼ばれて、背筋が伸びた。
「はい」
「君に、三上とのことで余計な不安を持たせたなら、俺の説明不足だ」
「……不安、というか」
言いかけて、喉が詰まった。
どう言えばいいのだろう。
恋人だったのかな、と勝手に傷ついていました。
隣にいる三上さんが大人で、仕事もできて、部長の過去を知っていて、私は勝手に比べて勝手に落ち込んでいました。
言えるわけがない。
言ったら、私の胸の内側が会議資料みたいに全部開示されてしまう。
私はカップの縁を見つめた。
「私が、勝手に想像したところもあります」
「それでも、俺が曖昧にした」
すぐに返ってきた声が低くて、逃げ道を作らない響きをしていた。
「上司として、過去の私情を職場に持ち込むべきではないと思っていた。だが、隠すことと、説明しないことは違う」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。
部長はいつも線を引く。
上司だから。
年上だから。
過去があるから。
きっとその線は、私を遠ざけるためだけではなく、自分を罰するためのものでもあったのだと思う。
「部長」
「なんだ」
「三上さんが戦友だってことは、わかりました」
言葉にすると、少しだけ息がしやすくなった。
「でも、戦友って、すごく強い言葉ですね」
部長の目がわずかに揺れた。
三上さんが、私をまっすぐ見る。
「強いですよ。恋愛より長持ちする場合もあります」
「三上」
「事実です」
部長がまた負けた。
私は笑いそうになって、でも笑えなかった。
だって三上さんの声には、冗談の形をした本音があったから。
「結城さん」
三上さんが、今度は私に向き直った。
「私は霧島さんの味方です。けれど、霧島さんが間違えた時は、間違えたと言います」
「はい」
「だから、あなたが何かを知りたいと思った時、私を遠慮しないでください。恋敵ではありませんので」
恋敵。
単語がテーブルの上に置かれた瞬間、私は盛大にむせかけた。
「こ、こい……」
「三上」
部長の声が低くなる。
「すみません。少し言いすぎました」
少しですか。かなりでは。
でも、三上さんは涼しい顔をしている。大人の女性、強い。私もいつかあの角度の涼しい顔を会得したい。今の私は、耳どころか首まで熱い。
部長が咳払いをした。
「今日は、ここまでにさせてほしい」
私は顔を上げた。
「はい」
「七年前のことは、俺が話す。ただ、順番を間違えたくない」
順番。
その言葉に、不思議なくらい納得した。
全部を一度に差し出されても、きっと受け止めきれない。七年分の沈黙は、資料の束みたいに机に積めばいいものではない。
一枚ずつ、めくるしかない。
「わかりました」
私の声は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
「待ちます。でも、逃げたら怒ります」
言ってから、しまったと思った。
葵さんの言葉に背中を押されすぎた。上司に向かって何を宣言しているの、私。
けれど部長は怒らなかった。
むしろ、ほんの少しだけ目元の力を抜いた。
「三日反省する」
葵さんから聞いたばかりの言葉を、真面目な声で返された。
だめだ。
これは反則だ。
胸の奥が、きゅうっと変なふうに鳴った。
三上さんが伝票を手に取って立ち上がる。
「では、私は先に戻ります。霧島さん、結城さんを駅までお願いします」
「三上」
「夜から降るんでしょう。傘はありますが、ひとりで帰す理由にはなりません」
部長が何か言い返そうとして、やめた。
私も何か言おうとして、やっぱりやめた。
外に出ると、雨はまだ落ちていなかった。
けれど風が湿っていて、街の匂いが近かった。隣に立つ部長の肩が、店の中より近く感じる。
駅までの歩道は、会社帰りの人たちで少し混んでいた。
部長は私の歩幅に合わせてくれた。気づかないふりをしたかったけれど、無理だった。
「結城さん」
「はい」
「今日は、疲れただろう」
「少しだけ」
本当は、かなり。
でも嫌な疲れではなかった。
「でも、来てよかったです」
そう言うと、部長の足が一瞬だけ遅れた。
「そうか」
「はい」
短い返事のあと、二人で信号待ちをした。
車道を走る車のライトが、アスファルトを白く撫でていく。部長の横顔は相変わらず静かで、簡単には読めない。
でももう、冷たいだけの人には見えなかった。
氷みたいに見えるのは、中で何かを守りすぎているからかもしれない。
信号が青に変わる。
歩き出した瞬間、ぽつ、と頬に冷たいものが触れた。
「あ」
雨だ。
私は慌ててバッグから水色の折りたたみ傘を出そうとした。けれど新品同然のカバーがなかなか外れない。こういう時に限って手元が不器用になるのは、人生の仕様なのだろうか。
「貸して」
部長の手が伸びた。
指先が、私の指に一瞬触れる。
たったそれだけで、雨より先に体温が走った。
部長は何も言わずにカバーを外し、傘を開いてくれた。小さな水色の屋根が、私たちの間に広がる。
けれど部長は、その傘を私に持たせた。
「駅まで近い。俺は大丈夫だ」
「だめです」
反射だった。
自分でも驚くくらい、はっきり声が出た。
部長が私を見る。
「濡れます。入ってください」
「だが」
「怒ります」
部長が黙った。
勝った。
いや、勝ち負けではない。たぶん。
私は傘を少しだけ部長のほうへ傾けた。肩が近い。近い近い近い。水色の傘、思ったより小さい。葵さん、これは兄に借りを作らせないどころか、かなり高度な状況を作っています。
部長は観念したように、私の隣に入った。
肩と肩の間に、ほんの数センチの距離。
触れてはいない。
でも、傘の内側の空気が急に狭くなる。
「すみません、傘、小さくて」
「いや」
「部長、肩が」
「問題ない」
問題あります。高確率で濡れています。
私はさらに傘を傾けた。すると今度は自分の肩に雨が当たる。
その瞬間、部長の手が傘の柄に添えられた。
「真ん中でいい」
低い声が、すぐ近くで響く。
傘の柄を持つ私の手の上に、部長の指が触れないぎりぎりの位置で重なる。
触れていない。
でも、触れているみたいだった。
心臓が忙しい。社会人として落ち着け。これは雨具の運用に関する合理的判断。合理的判断でこんなに胸は鳴らない。
駅の明かりが見えてきた頃、部長が言った。
「結城さん」
「はい」
「三上のことを、聞いてくれてありがとう」
私は首を横に振った。
「私も、勝手に怖がっていました」
「怖がらせた」
「違います。怖がったんです、私が」
雨音が傘を叩く。
「でも、今日少しわかりました。知らないから怖いこともあるし、知ってもすぐ平気になるわけじゃないけど……それでも、知らないまま想像するよりは、ちゃんと聞きたいです」
言い終えた時、部長はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「俺も、ちゃんと話す」
その約束は、派手ではなかった。
告白でも、謝罪の全部でもない。
でも、七年分閉じていた扉に、初めて内側から鍵が差し込まれたような音がした。
駅の入口で、部長は傘から出た。
「気をつけて帰れ」
「部長も」
「俺は会社に戻る」
「戻るんですか」
「少しだけだ」
三上さんに深夜三時を監視されていた人の「少しだけ」は信用していいのだろうか。私は疑いの目を向けた。
部長はその視線の意味に気づいたのか、珍しく先に言った。
「一時間で帰る」
「本当ですか」
「本当だ」
「証拠は」
「……帰ったら、社用チャットで退勤連絡を入れる」
上司に証拠を要求する部下。人事に見られたらどう説明すればいいのだろう。
でも部長は、少し困った顔をしただけだった。
「では、待っています」
そう言って改札へ向かおうとした時、バッグの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。
葵さんからだった。
『明日のお昼、兄には内緒で会えますか。私の病気のことを、結城さんに直接話したいです』
息が止まる。
病気。
その二文字が、七年前の輪郭を突然はっきりさせた。
私は改札の前で立ち止まり、濡れた傘を握り直した。
部長が後ろから声をかける。
「結城さん?」
私は画面から目を離せないまま、親指を動かした。
『会います』
送信ボタンを押した瞬間、明日の予定が、七年前へつながった。
(第31話へ続く)




