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妹という答え

 翌日の午後、私はいつもより三分早く会社を出た。


 三分。

 たった三分なのに、心臓はそれを大事件みたいに扱っている。


 古い喫茶店「灯」は、会社から歩いて七分の路地にある。入口の木枠の扉には、雨でもないのに小さな鈴がついていて、開けるたび控えめに鳴る。


 今日は曇りだった。

 降りそうで降らない空。

 私の胸の中みたいで、天気まで空気を読みすぎでは、と思う。


 知らない名前。

 葵さん。


 昨日から、何度その二文字を頭の中で転がしたかわからない。

 女性の名前だと知った瞬間、勝手に胸が痛んだ。けれど三上さんは「会えば霧島くんの七年前が少し見える」と言った。


 恋人だった人なら、そんなふうには言わない。

 たぶん。

 いや、世の中にはいろんな関係がある。大人の世界、複雑。私ももう二十六なのに、恋愛に関してだけは十九歳の雨の日からほとんど進級できていない気がする。


 扉を開けると、鈴が鳴った。


 店の奥、窓際の席に三上さんがいた。今日はジャケットではなく、柔らかいグレーのカーディガンを羽織っている。会社で見る鋭さが少し薄れて、でも背筋の伸び方はいつも通りだった。


「結城さん、こっち」


「お疲れさまです」


「今日は会社じゃないから、そこまで固くなくていいよ」


 そう言われても、固くならない方法を誰かマニュアル化してほしい。

 私は向かいではなく、三上さんに勧められた隣の席に腰を下ろした。四人掛けのテーブル。まだ二つ、椅子が空いている。


「霧島くんは少し遅れるって。外出先から直行」


「そうですか」


 声が自分でもわかるくらい小さくなった。


「葵ちゃんは……来る。さっき連絡あった」


 来る。


 その一言で、指先に力が入った。メニューの端を掴んでいたせいで、紙がかすかに曲がる。


 三上さんはそれを見て、苦笑した。


「大丈夫。取って食べたりしない」


「そこは心配してません」


「じゃあ何が心配?」


 真っすぐ聞かれて、私は返事に詰まった。


 何が。

 それが言葉になれば、とっくに昨日眠れている。


「……自分が、嫌な人間になるのが怖いです」


 三上さんの目が少しだけ柔らかくなる。


「嫌な人間?」


「勝手に想像して、勝手に傷ついて、相手のことを何も知らないのに苦手になりそうで。そんな自分が嫌です」


 言ってしまってから、胸の奥がひりついた。

 こんなこと、初対面の人を待つ喫茶店で言う内容ではない。しかも相手は職場の先輩で、私の上司の右腕だ。


 でも三上さんは、責めるような顔をしなかった。


「それ、嫌な人間じゃなくて、ちゃんと怖がってる人間だと思うよ」


「ちゃんと、ですか」


「うん。怖いのに来たでしょ」


 テーブルの上の水のグラスに、窓の外の曇り空が映っている。

 私はその薄い灰色を見つめながら、少しだけ息を吐いた。


「三上さんは、怖くなかったんですか」


「何が?」


「七年前の部長を支えることが」


 言ってから、質問が踏み込みすぎた気がして肩が跳ねた。


 けれど三上さんは、ゆっくりコーヒーを一口飲んだだけだった。


「怖かったよ」


 あまりにもあっさりした答えだった。


「あの頃の霧島くん、寝てないし食べてないし、仕事は完璧に片づけるしで、逆に危なかった。倒れる人って、倒れる直前まで普通の顔するんだなって知った」


 胸が静かに沈む。


 七年前。

 私が大学のキャンパスで、湊さんの姿を見つけては浮かれていた頃。

 あの人は、そんなふうに生活していたのか。


「私ができたのは、せいぜい仕事を拾うことくらい。会議の調整とか、資料の確認とか、無茶な残業を止めるとか」


「それが、戦友……」


「そう。恋愛じゃない」


 三上さんは、はっきりと言った。


 店内のざわめきが、急に遠くなる。


「結城さんが気にしてるなら、先に言っておく。私は霧島くんと付き合ったことも、そういう意味で好きだったこともない」


 頬が一瞬で熱くなった。


「わ、私、そんな」


「顔に出てた」


「顔、仕事しすぎでは」


「いい顔だよ。わかりやすくて」


 褒められているのか、社会人としての危機なのか判断が難しい。


 でも、胸の中で固まっていたものが、少しほどけた。


 恋敵じゃない。

 それを聞いた瞬間、ほっとした自分がいる。

 そして、その自分にまた少し恥ずかしくなる。


「ただ」


 三上さんの声が低くなった。


「戦友って言葉は、綺麗なだけじゃない。こっちも勝手に踏み込んだし、霧島くんも勝手に背負った。お互い、かなり不器用だった」


「部長が、背負う……」


「今もそうでしょ。自分が黙れば丸く収まると思ってる」


 否定できなかった。


 部長はいつも、肝心なところで言葉を減らす。

 優しさの形をした沈黙で、人との間に線を引く。


 七年前の私も、その線の外に立たされた。


 その時、扉の鈴が鳴った。


 反射的に顔を上げる。


 入ってきたのは、私より少し年下に見える女性だった。肩につくくらいの髪をひとつに結んで、白いブラウスに明るい青のスカート。歩き方は軽いのに、店内を見回す目つきだけは、誰かに少し似ている。


 似ている。


 そう思った次の瞬間、彼女は私たちの席を見つけてぱっと笑った。


「玲子さん!」


 三上さんが片手を上げる。


「葵ちゃん、こっち」


 心臓が跳ねた。


 葵さん。


 彼女はテーブルの前まで来ると、私に向き直った。大きな目がまっすぐ私を捉える。その目の形が、部長に似ていた。


「はじめまして。霧島葵です」


 霧島。


 名字を聞いた瞬間、頭の中でいろんな線が一気につながった。


 部長と同じ名字。

 部長が電話で「葵」と呼んだ声。

 三上さんの「会えば七年前が見える」という言葉。


 私は立ち上がりかけて、テーブルに膝をぶつけそうになった。危ない。初対面で机に敗北するところだった。


「結城ひなたです。企画部で、霧島部長にお世話になっています」


「兄がお世話になっています」


 兄。


 その一音が、胸の真ん中に落ちた。


 兄。

 兄、だった。


 恋人でも、元恋人でも、秘密の誰かでもなく。

 部長が守ってきた名前は、妹の名前だった。


 全身から力が抜けそうになって、慌てて椅子に座り直す。


 よかった、と思った。

 思ってしまった。


 その安堵の大きさに、自分で驚く。私はいつの間に、こんなに部長の隣に知らない誰かがいることを怖がっていたんだろう。


 葵さんは私の向かいに座り、メニューを開くなり言った。


「兄、ちゃんと職場で人間やれてます?」


「人間」


「家族として一番心配なところです」


 三上さんが吹き出した。


 私は返答に困って、少し考える。


「ええと……仕事では、とても正確で、厳しくて」


「怖いですか」


「最初は」


「あ、やっぱり」


「でも」


 そこで、言葉が自然に続いた。


「ちゃんと見てくれる人です。言葉は少ないですけど、必要な時に、必要なものを置いてくれるというか」


 缶コーヒー。

 傘。

 直された企画書。

 無理はしなくていい、という短い言葉。


 思い出すだけで、胸の内側が温かくなる。


 葵さんは、メニューから顔を上げた。


「そっか」


 その声は、さっきまでの明るさより少し低かった。


「兄、そういうの下手なんです。優しくしたいのに、優しくしてるってバレるのが苦手で」


「わかります」


 即答してしまった。


 三上さんがまた笑う。


 葵さんも笑った。けれどその笑顔の奥に、ほんの少しだけ影があるように見えた。


「七年前も、そうでした」


 空気が変わった。


 私は手元のグラスを見つめた。氷が小さく音を立てる。


 七年前。


 葵さんの口からその言葉が出ると、急に現実味を帯びる。

 私の中では雨の匂いと告白の痛みだった七年前が、彼女の中では別の形で残っている。


「葵ちゃん」


 三上さんが静かに名を呼んだ。


 止めるというより、確認する声だった。


 葵さんは頷いた。


「大丈夫。今日は全部は話さない。兄にも怒られるし」


 全部。

 その言葉に、喉が小さく鳴った。


 全部があるのだ。

 私の知らない七年前が。


「でも、結城さんには先に言っておきたくて」


「私に、ですか」


「はい。兄のこと、怖い人だと思ってるなら、それは半分正解です」


 思わず瞬きをした。


「半分」


「自分にも他人にも厳しいから。でも、冷たい人だと思ってるなら、それは違います」


 胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。


 冷たい人じゃない。

 私はもう、それを知っている。

 でも七年前の私は、知らなかった。


 知らないまま、拒まれた痛みだけを持って帰った。


 葵さんはカップの縁に指を添え、少しだけ目を伏せた。


「あの頃の兄は、自分の人生を自分のものだと思ってなかったんです」


 その言葉は、静かだった。

 静かなのに、重かった。


 私は返事ができなかった。


 部長の人生。

 自分のものではない人生。


 そんな言い方をされるほど、何を背負っていたのだろう。


 聞きたい。

 でも、急いではいけない気がした。


 昨日、私が送った言葉を思い出す。

 私も、聞きたいです。でも急ぎません。


 急がない。

 それは、逃げることとは違うはずだ。


 葵さんがふっと息を吐いた。


「だから、もし兄がまた勝手に線を引こうとしたら、結城さん、怒ってください」


「え」


「うちの兄、怒られないとわからない時があります」


「部長を怒るのは、かなり勇気がいります」


「大丈夫です。兄、結城さんに怒られたらたぶん三日くらい反省します」


「三日」


「長いほうです」


 三上さんが真面目な顔で頷くから、私はつい笑ってしまった。


 その瞬間、扉の鈴がまた鳴った。


 入ってきた人を見て、笑いが喉で止まる。


 霧島部長だった。


 紺のスーツに、少し乱れた前髪。外回りからそのまま来たのか、手には黒いビジネスバッグを持っている。

 店内を見渡した目が、私たちの席で止まった。


 葵さん。

 三上さん。

 そして私。


 部長の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。


 その顔を見て、私は初めて思った。


 この人も、怖いのだ。

 私が知ることが怖い。

 私に見られることが怖い。


 それでも、来た。


 部長はゆっくり席まで歩いてきた。


「遅れてすまない」


「兄、遅刻」


「五分だ」


「五分は遅刻」


 兄妹の会話が、あまりにも普通で、胸が不思議に温かくなる。

 部長にも、こんなふうに言い返される場所がある。


 部長は空いた席に座ろうとして、私の前で一度止まった。


「結城さん」


「はい」


 仕事の呼び方なのに、店の照明の下では少し違って聞こえる。


「来てくれて、ありがとう」


 たったそれだけ。

 それだけなのに、胸の奥にまっすぐ届いた。


 私は小さく首を振った。


「私が、知りたいと思ったので」


 言ってから、自分の声が震えていないことに気づいた。


 部長が黙る。

 それから、深く息を吐いた。


「そうか」


 その沈黙の中に、逃げ道を探す気配はなかった。


 葵さんが、テーブルの上に置いていたスマートフォンをバッグにしまう。


「じゃあ私は、今日は顔見せだけにする。兄がいると話しづらいこともあるし」


「葵」


「なに。事実でしょ」


 部長は言い返さなかった。


 葵さんは立ち上がると、私のほうに少し身を乗り出した。


「結城さん」


「はい」


「今度、兄抜きで会ってください。七年前のこと、私の口から話したいことがあります」


 心臓が強く鳴った。


 部長が低く名前を呼ぶ。


「葵」


 でも葵さんは引かなかった。


「兄が言えないなら、私が言う。だって結城さん、何も知らないまま傷ついた人でしょ」


 息が止まった。


 何も知らないまま傷ついた人。


 その言葉が、七年前の雨にまっすぐ触れた。


 部長の手が、テーブルの端で強く握られる。

 私はそれを見た。


 あの日、私だけが傷ついたと思っていた。

 でも今、目の前の人も痛そうな顔をしている。


 葵さんは、バッグから小さな折りたたみ傘を取り出した。淡い水色の傘だった。


「今日、夜から降るらしいです。結城さん、傘あります?」


「え、あ……今日は、持ってきてないです」


 天気予報を見たのに、頭がいっぱいで忘れた。社会人としても人類としても詰めが甘い。


 葵さんは私に傘を差し出した。


「じゃあ、これ。兄に借りを作ると面倒なので、私から」


「でも」


「返す時に、会う口実になります」


 断る言葉が消えた。


 私は両手で傘を受け取る。

 軽い傘なのに、七年前の紺色の傘を思い出して、指先が熱くなった。


「ありがとうございます」


「こちらこそ。会えてよかったです」


 葵さんはそう言って、今度こそ店を出ていった。


 扉の鈴が鳴る。

 残された水色の傘が、私の膝の上で静かに横たわっている。


 七年前、私は傘を借りて、返せなかった。

 今日、また傘を借りた。


 でも今度は、返す約束がある。


 部長が私の膝の上の傘を見つめ、それから低い声で言った。


「結城さん」


「はい」


「次は、俺から話す」


 雨より先に、その言葉が胸に落ちた。


(第30話へ続く)

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