知らない名前を追いかけない
葵。
その二文字は、帰り道の街灯よりもずっと明るく、私の頭の中に残り続けた。
部長と別れたあと、私はひとりで駅まで歩いた。雨上がりのアスファルトは濡れていて、靴音がいつもより少しだけ大きく響く。
もう、三上さんを恋敵だと決めつける必要はない。
そうわかったばかりなのに。
今度は、葵さん?
いや待って、結城ひなた。学習しよう。人間は過ちから学ぶ生き物のはずだ。さっきまで喫茶店で「誤解でした」と心の正座をしたばかりでしょうが。
なのに胸の奥は、きゅっと勝手に縮む。
電話口の部長の声は、仕事の声ではなかった。
短くて、低くて、でもどこか柔らかい。相手を責めるのではなく、先に受け止める声。
――無理するな。明日、俺が行く。
あんな声を、私は知らない。
七年前にも、今の職場でも、部長はいつだって少し遠かった。近づいたと思えば、きちんと線を引く。優しいのに、踏み込ませない。
その線の向こうにいる名前。
葵。
「……聞けばよかった、のかな」
改札前で立ち止まり、小さく呟いた。
でも、聞けなかった。
聞く権利がないと思ったからではない。聞いてしまったら、また私は勝手に傷つく準備をしてしまいそうだったからだ。
好きな人の知らない名前は、どうしてこんなに強いんだろう。
まだ好きだと認めるのも怖いくせに、嫉妬だけはいっちょまえに顔を出す。感情の勤務態度、もう少し足並みを揃えてほしい。
ホームに入ってきた電車の窓に、自分の顔が映った。
耳が少し赤い。
私は息を吐き、スマートフォンを握りしめた。
聞かない。
少なくとも、今夜は。
部長が話すべきだと思ってくれたことだけを、今夜は信じる。
翌朝、企画部のフロアはいつも通りだった。
コピー機の音。キーボードの軽い打鍵音。来栖さんが「月曜でもないのに顔が月曜」と羽田くんに絡んでいる声。
そして、斜め前の部長席は空だった。
コートもない。ノートパソコンも閉じたまま。
「結城さん、おはよ」
来栖さんが椅子を滑らせて近づいてきた。
「おはようございます」
「顔、寝不足」
「第一声の正確さが怖いです」
「で、どうだったの。昨日」
声を潜める来栖さんに、私は書類を揃えるふりをした。
「三上さんは、恋人じゃなかったです」
「ほらー!」
「声、声」
来栖さんは慌てて口を押さえたあと、目だけでにやにやした。
「じゃあ何だったの?」
「戦友、だそうです」
その言葉を口にすると、昨日の喫茶店の灯りがふっと戻ってくる。
倒れないように支えてもらった人。
恋ではなく、もっと必死な日々の隣にいた人。
「……そっか」
来栖さんの表情から茶化しが消えた。
「それ、重いね」
「はい」
「でも、ちゃんと話してくれたんだ」
「少しだけ、ですけど」
「少しで十分な時もあるよ。人の過去って、一気に渡されたら持てないし」
来栖さんはそう言って、私の机の端を指で軽く叩いた。
「で、結城さんは逃げなかった?」
「……たぶん」
「たぶん、えらい」
「そこは断言してください」
笑おうとした瞬間、企画部の入口に三上さんが現れた。
いつも通り背筋が伸びていて、手にはタブレット。けれど、ほんの少しだけ目元に疲れがあるように見えた。
「結城さん、霧島部長から伝言」
心臓が小さく跳ねた。
「はい」
「午前の定例、部長はオンライン参加に変更。資料の二ページ目、昨夜の修正反映だけ確認しておいてほしいって」
「わかりました」
仕事の伝言。
当たり前だ。ここは会社で、私は部下で、部長は上司。
なのに、胸のどこかが勝手に「それだけ?」と身を乗り出してしまう。
仕事をしろ、私の胸。
三上さんは一度去りかけて、少しだけ足を止めた。
「昨日、灯に行ったんでしょう」
「……はい」
「マスターの奥さんから連絡が来たの。霧島くん、久しぶりに人間の顔をしてたって」
「人間の顔」
思わず復唱すると、三上さんは小さく笑った。
「あの人、仕事中は氷点下だから」
氷の部長を、そんなふうに言える人。
やっぱり三上さんは近い。
でも、昨日までの近さとは見え方が違う。
恋の近さじゃない。
嵐の日に、隣で傘を押さえていた人の近さだ。
「三上さん」
気づけば、私は呼び止めていた。
「昨日、ありがとうございました。話してくださって」
三上さんは少し驚いた顔をして、それから肩の力を抜いた。
「私は、たいしたことは話してない」
「でも、助かりました」
「それならよかった」
短い沈黙が落ちる。
聞かないと決めたのに。
葵、という名前が喉元まで上がってくる。
でも、私は飲み込んだ。
ここで三上さんに聞くのは違う。
部長が伏せたものを、別の人からこじ開けるのは、たぶん私がされたら痛い。
そう思えた自分に、少しだけ驚いた。
七年前の私は、傷ついたまま置いていかれた。
だから今の私は、知らないことに怯える。
でも、知らないからといって、すぐに最悪の形にして抱え込まなくてもいいのかもしれない。
「結城さん」
三上さんが、低めの声で私を呼んだ。
「はい」
「霧島くんは、言葉が足りない。昔からずっと」
「……はい」
「だから、足りないところを全部悪い方に埋めると、たぶん苦しくなる」
胸を突かれた。
昨日の夜、私はまさにそれをしそうになっていた。
「でも、聞いていいことまで我慢しろって意味じゃない。知りたいなら、本人に聞いて」
「本人に」
「うん。あの人、逃げるのは上手いけど、結城さんに聞かれたら、たぶん昔ほど逃げられない」
その言い方があまりに自然で、私は息を止めた。
昔ほど。
三上さんは、やっぱり知っている。
七年前の雨の日のことも、きっと。
でも彼女はそれ以上言わなかった。
「定例、五分前」
「あ、はい」
三上さんは踵を返し、部長席の横を通り過ぎていく。
その背中を見送りながら、私は資料を開いた。
部長は画面越しに現れた。
会議室のモニターに映る顔は、いつもより少しだけ疲れていた。背景は会社ではない。白い壁、簡素な棚、そして窓際に置かれた小さな観葉植物。
「遅れてすまない。始めよう」
いつもの声。
でも、画面越しだとほんの少し遠い。
私の発表は、予定通り進んだ。
昨夜直した二ページ目について、部長は短く「いい」と言った。
それだけなのに、胸がじんわり温かくなる。
職場の評価にときめくの、社会人としてどうなんだろう。いや、上司の「いい」は普通に嬉しい。普通。たぶん普通。
会議が終わり、全員が席を立つ中で、画面の向こうの部長が言った。
「結城さん」
「はい」
呼ばれた瞬間、周囲の音が少し薄くなった気がした。
「昨日の議事メモ、助かった。今日も無理はしなくていい」
仕事の言葉の形をしている。
でも、その奥に昨夜の続きみたいな温度があった。
無理はしなくていい。
それは、電話口で誰かに向けていた言葉と少し似ていた。
「部長こそ」
口が勝手に動いた。
会議室の空気がぴたりと止まる。
あ、今の、部下としてギリギリどうなの。いや、体調を気遣っただけです。人類愛です。人類愛ということでお願いします。
画面の中の部長が、一瞬だけ黙った。
それから、ほんのわずかに目元を緩めた。
「……ああ」
たったそれだけで、胸の奥が忙しい。
会議が終わり、席に戻ると、来栖さんが口元を押さえて震えていた。
「今の、よかった」
「何がですか」
「距離が三センチ縮んだ音がした」
「測らないでください、人の人生を」
そう返しながらも、私は笑ってしまった。
知らない名前は、まだ胸にある。
でも昨日より痛くない。
私はそれを、無理に追いかけなかった。
その日の夕方、部長からチャットが届いた。
『昨日の話の続きだが、急がなくていい。ただ、近いうちにもう少し話したい』
画面を見つめたまま、指先が固まる。
もう少し。
その言葉だけで、喉の奥が熱くなった。
返信欄に、私は何度も文字を打っては消した。
『はい』だけでは足りない気がする。
でも、重くしたくない。
悩んだ末に、私は短く返した。
『私も、聞きたいです。でも急ぎません』
送信したあと、心臓が遅れて走り出した。
数分後、既読がつく。
返事はすぐには来なかった。
代わりに、企画部の入口から三上さんの声がした。
「結城さん、ちょっといい?」
「はい」
給湯室に呼ばれた私は、湯気の立つポットの前で三上さんと向き合った。
三上さんは珍しく、言葉を選ぶように少し黙った。
「明日の午後、灯に寄れる?」
「灯、ですか」
「霧島くんも来る。たぶん、話の続きになる」
胸が跳ねた。
でも次の瞬間、三上さんはさらに声を落とした。
「それと……葵ちゃんが、来るかもしれない」
湯気が白く揺れた。
昨日、夜の画面に灯った名前。
部長が七年前から守り続けてきた、その奥の名前。
私はマグカップを持つ指に、少しだけ力を込めた。
「葵、さんが……?」
三上さんは頷いた。
「会えば、霧島くんの七年前が少し見えると思う」
心臓が、静かに音を立てた。
逃げたいわけじゃない。
でも、怖くないわけでもない。
知らない名前が、明日、私の前に現れる。
(第29話へ続く)




