灯の席で
十八時半の五分前、私は会社の一階ロビーでスマートフォンの画面を意味もなく点けたり消したりしていた。
時刻はちゃんと見えている。
待ち合わせ場所も間違えていない。
なのに、指だけが落ち着かない。
さっき給湯室で三上さんに言われた言葉が、まだ胸の中に残っていた。
――勝手に身を引くのはやめてあげて。
やめてあげて、という言い方がずるい。
私のためだけじゃなく、部長のためでもあるみたいに聞こえるから。
ロビーの自動ドアが開いて、夕方の湿った風が流れ込んできた。梅雨の雨は上がったばかりで、舗道が街灯をぼんやり映している。
「結城さん」
低い声に、背筋が伸びた。
振り向くと、部長が立っていた。ネクタイは少し緩められているけれど、白いシャツの襟元まできちんとしている。仕事終わりなのに隙がない。いや、隙がない人のネクタイが一センチ緩んでいるのは、それはそれで隙なのでは。
落ち着け、私。
職場の上司だ。氷の部長だ。ネクタイ一センチで心拍数を乱すな。
「待たせた」
「いえ、今来たところです」
定番すぎる返事をしてから、三分前から挙動不審だった自分を思い出す。今来たところでは全然ない。
部長はそれを指摘しなかった。ただ、私の手元を一度見た。
「傘は」
「あ、今日は折りたたみを持ってます」
「そうか」
短いやりとりなのに、胸の奥が小さく跳ねる。
七年前から、雨と傘は私の弱点だ。
会社を出ると、濡れたアスファルトの匂いがした。駅とは反対方向へ、部長が歩き出す。私は半歩後ろをついていった。
並んで歩くには、少しだけ勇気がいる。
上司と部下だから。
七年前に告白して、断られた相手だから。
そして今、私はその人から、知らなかった過去を聞こうとしているから。
「遠いですか」
「五分くらいだ」
「近いんですね」
「ああ。昔、よく使っていた」
昔。
その二文字だけで、足元の水たまりが深くなったみたいに感じる。
ビルの谷間を抜け、細い路地に入ったところで、古い木の看板が見えた。
喫茶 灯。
新しい店ではない。けれど古びている、とは違った。磨かれた木の扉、窓からこぼれる琥珀色の明かり、雨粒を受けた鉢植えの葉。誰かが長く大事にしてきた場所の顔をしていた。
部長が扉を開けると、カラン、と小さなベルが鳴った。
コーヒーの香りが、ふわりと胸に入ってくる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、白髪交じりの女性が顔を上げた。六十代くらいだろうか。柔らかい目をしているのに、こちらを見た瞬間、少し驚いたように瞬きをした。
「あら。霧島くん」
「ご無沙汰しています」
部長が静かに頭を下げる。
霧島くん。
その呼び方が、私の知らない時間をあっさり開いた。
会社では誰も部長をそんなふうに呼ばない。三上さんでさえ「霧島くん」と呼ぶときは、過去の扉を少しだけ開けるような声になる。
「奥、空いてるわよ」
「ありがとうございます」
促されて、私たちは窓際の席に向かった。
向かい合って座ると、急に距離が近く感じた。会議室のテーブルより小さい。パソコンも資料もない。間にあるのはメニューと、まだ少し濡れている部長の傘だけ。
黒い傘。
けれど一瞬、そこに紺色の傘が重なって見えた。
「結城さん」
「はい」
「先に、確認しておく」
部長はメニューを開かずに言った。
「今日話すことは、言い訳にはしたくない」
心臓が、静かに鳴った。
「君を傷つけたことと、俺に事情があったことは、別の話だ」
まっすぐな言葉だった。
まっすぐすぎて、逃げ道がない。
七年前、あの日の彼は何も言ってくれなかった。ただ「応えられない」とだけ言った。だから私は、そこに自分で理由を詰め込んだ。
私が子どもだったから。
私の気持ちが迷惑だったから。
私は、選ばれない人間だったから。
でも今、目の前の部長は、事情を免罪符にしないと言っている。
「……はい」
声が少し掠れた。
店員さんが水とおしぼりを置いていく。部長は私に視線で先を促した。
「ブレンドで」
「あ、私も同じで……」
「結城さんはカフェオレにしたほうがいい」
「え」
思わず顔を上げる。
部長は一瞬だけ黙った。
「ここのブレンドは苦い」
「あ、そうなんですか」
「昔から」
昔から。
まただ。
小さな言葉が、いちいち胸に触れる。
「じゃあ、カフェオレでお願いします」
店員さんが去ったあと、私はおしぼりの袋を開けるのにやけに手間取った。透明なビニールが、なぜ今このタイミングで全力の抵抗を見せるのか。こういうときだけ不器用になる自分が恨めしい。
部長の手が、すっと伸びた。
「貸して」
「あ、いえ、自分でできます」
言った瞬間、びり、と変な方向に破れた。
できていない。
大人の社会人としてかなり恥ずかしい。
部長は何も言わず、新しいおしぼりを私の前に置いた。その沈黙が優しすぎて、余計に恥ずかしい。
「……ありがとうございます」
「ああ」
短い返事。
でも、冷たくはない。
やがて運ばれてきたカフェオレは、白い湯気を立てていた。カップを両手で包むと、指先からじんわり温まる。
部長はブラックコーヒーに口をつけ、少しだけ目を伏せた。
「三上とは、恋人だったことはない」
わかっていた。
さっき三上さんから聞いた。
それでも、本人の口から聞くと、胸の中で固まっていた何かがゆっくり解けた。
「……三上さんからも、聞きました」
「そうか」
「戦友、だって」
部長の指が、カップの取っ手に触れたまま止まる。
ほんの一秒。
けれど、その一秒に、彼が持っている年月の重さが見えた気がした。
「あの頃、俺は仕事以外にも抱えているものがあった」
声は静かだった。
店内には古いジャズが流れている。窓の外では、雨上がりの車が水をはねる音がした。
「身内が、長く病院にいた」
胸がきゅっと縮んだ。
病院。
その言葉だけで、三上さんの「あの頃の霧島くんは、倒れないために立っていた感じだった」という声が戻ってくる。
「仕事を抜けることもあった。急に連絡が入ることもあった。寝ていない日も多かった」
「……はい」
「三上には、ずいぶん迷惑をかけた。俺が落とした仕事を拾わせた。社内で余計なことを言われないように、先回りもさせた」
部長は淡々と言う。
淡々としているからこそ、痛い。
きっと当時の彼は、助けてほしいとも、苦しいとも言わなかったのだろう。言葉にする前に、自分で飲み込んで、いつも通りの顔で会社に来たのだろう。
その横で、三上さんは資料を拾い、穴を塞ぎ、余計な噂から守った。
恋人ではなく、戦友。
その意味が、やっと少しだけわかった。
「だから、三上さんは部長のことを……」
大事に見ていたんですね。
そう言いかけて、飲み込んだ。
言葉にしたら、自分の小ささが際立つ気がしたから。
三上さんと部長の間には、私の知らない年月がある。嫉妬してしまうくらい近くて、でも恋ではない。恋ではないからこそ、簡単には割り切れない深さがある。
私はカップを見つめた。
「私、三上さんのこと、少し誤解してました」
「誤解?」
「その……部長と、昔、何かあったのかなって」
言ってから、熱が一気に顔へ上がった。
何を正直に申告しているのか。
これは業務報告ではない。嫉妬の提出書類でもない。
部長は黙った。
長い。
沈黙が長い。
今すぐカフェオレに顔を沈めたい。熱いから無理だけど。
「そう見えたなら」
部長がようやく口を開いた。
「俺の距離の取り方が、悪かった」
「いえ、そういう意味じゃ」
「結城さん」
名前を呼ばれると、言葉が止まる。
部長の目は、仕事中よりも少しだけ柔らかかった。けれど、その奥にあるものは簡単に読めない。
「君が何かを感じたなら、なかったことにしなくていい」
胸の奥が、どくんと鳴った。
なかったことにしなくていい。
七年前の気持ちも。
今の嫉妬も。
傷ついたことも。
まだ、知りたいと思ってしまうことも。
「……じゃあ、言います」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「少し、羨ましかったです」
部長の視線が揺れた。
「三上さんは、部長の大変だった頃を知ってるんだなって。私は、何も知らなかったので」
言ってしまった。
カフェオレの湯気が、顔の前で白くほどける。
知らなかった。
知らされなかった。
七年前、私はただ断られた側だった。
でも、知らなかったことを責めたいのか、知りたかったと泣きたいのか、自分でもよくわからない。
部長はカップを置いた。
「知らなくてよかったと、当時の俺は思っていた」
呼吸が止まりそうになった。
「今は?」
聞いたあと、自分の大胆さに内心で倒れた。
今の質問、距離感どうなってるの。上司に対して。いや、七年前の相手に対して。いや、どっちにしても近い。
でも、聞かずにいられなかった。
部長はすぐには答えなかった。
窓の外を一度見て、それから私に視線を戻す。
「今は、君が知りたいと思うなら、話すべきだと思っている」
「……全部、ですか」
「全部を一度には話せない」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
全部を今ここで差し出されたら、私はたぶん受け止めきれない。部長もきっと、差し出せない。
長く閉じていた箱を、いきなりひっくり返す必要はない。
蓋を少し開けて、そこに埃だけじゃなく、温度が残っていると知る。
今日は、きっとその日だ。
「でも」
部長が続けた。
「三上が恋人ではなかったこと。彼女には、俺が倒れないように支えてもらったこと。それだけは、君に誤解させたままにしたくなかった」
心臓の奥が、熱くなった。
君に。
たった二文字が、こんなに危険だなんて誰が教えてくれた。社会人研修でやってほしい。議事録の取り方より先に。
「……ありがとうございます」
そう言うのが精一杯だった。
恋敵だと思っていた人は、恋敵ではなかった。
でも安心だけで終わらない。
三上さんは、部長の過去の隣にいた人だ。
私は今、その過去の入口に立たせてもらっている。
それが少し怖くて、少し嬉しい。
カップの底が見え始めた頃、店の女性が伝票を持ってきた。
「霧島くん、今日はゆっくりできた?」
「ええ」
「そう。よかった」
女性は私を見て、にこりと笑った。
「また来てね。ここ、あの頃の霧島くんを知ってる人は、もう少ないから」
部長の表情が、ほんの少し固まった。
私はその変化に気づいてしまった。
あの頃の霧島くん。
倒れないために立っていた人。
身内が長く病院にいた人。
そして、七年前の雨の日に、私を静かに断った人。
店を出ると、雨は完全に上がっていた。雲の切れ間から、湿った夜空が少しだけ見える。
「駅まで送る」
「大丈夫です。近いので」
「送る」
部長の声は短い。
でも、命令ではなかった。譲れない心配、みたいな温度があった。
私は頷いた。
歩き出したとき、部長のスマートフォンが震えた。
画面を見た部長が、足を止める。
その横顔から、さっきまでの柔らかさがすっと消えた。
「すまない。出る」
「はい」
部長は少し離れて通話を取った。
「……どうした」
低い声。
けれど次の瞬間、その声の奥に、私の知らない親しさが混じった。
「無理するな。明日、俺が行く」
明日、俺が行く。
誰に向けた声なのかは、わからない。
でも、その一言だけで、今日開いた扉の向こうに、まだ大切な誰かがいるのだとわかった。
通話を終えた部長が戻ってくる。
「結城さん」
「はい」
「悪い。駅まで送れなくなった」
「大丈夫です。本当に」
部長は何か言いかけて、やめた。
そして、いつもの短い声で言った。
「今日はありがとう」
お礼を言われるようなことを、私はしただろうか。
ただ聞いただけだ。
嫉妬して、怖がって、それでも少しだけ踏みとどまっただけだ。
「こちらこそ、話してくれてありがとうございました」
部長の目が、わずかに揺れた。
その時、彼のスマートフォンの画面がもう一度光った。
通知の文字が一瞬だけ見えた。
――葵。
名前だけが、夜の湿った空気の中で小さく灯った。
葵。
誰だろう。
そう思った瞬間、部長は画面を伏せるように手の中へ隠した。
そして私は気づいてしまった。
今日聞いた話は、まだ入口に過ぎない。
戦友の正体を知った夜。
その奥に、部長が七年前から守り続けてきた名前がある。
(第28話へ続く)




