戦友という言葉
翌朝の企画部フロアは、いつも通りだった。
コピー機は紙詰まりで誰かを小さく絶望させているし、羽田くんは出社一分で「コーヒー買い忘れました」とこの世の終わりみたいな顔をしているし、あかねは私の耳を見てにやりとした。
「結城、耳」
「何も起きてません」
「まだ何も聞いてない」
しまった。自首が早すぎた。
私は自席にバッグを置きながら、なるべく平常心の顔を作った。社会人には必要なスキルがいくつもある。報連相。段取り。資料の精度。そして、昨夜上司と屋上で七年前の傘について話した動揺を、翌朝九時の顔に持ち込まない技術。
最後の難易度だけ国家資格級ではないだろうか。
湊部長はまだ来ていない。
斜め前の部長席は空で、きっちり整えられたデスクだけがそこにある。いつもならそれを見て、今日も氷点下の一日が始まる、と思うだけだった。
でも今日は違う。
『明日、少し時間をくれ』
『今度は、俺が話す番だ』
昨夜の声が、朝の蛍光灯の下でも鮮明に残っている。
何を話してくれるんだろう。
七年前、どうして私を覚えていないふりをしたのか。その理由は少しだけ聞いた。上司だから、過去を持ち出すのはフェアじゃないと思った。臆病だった。
でも、それだけではない気がしていた。
部長の言葉には、いつも余白がある。言わないことで相手を守っているつもりの、硬くて不器用な余白。
その余白に、私は七年も立ち尽くしていた。
「結城さん」
背中から声がして、思わず肩が跳ねた。
振り向くと、三上玲子さんがファイルを抱えて立っていた。相変わらず隙のないパンツスーツに、低めのヒール。笑顔は穏やかなのに、仕事のできる人特有の圧がある。
「今日の十時、第一会議室。部長とレビュー入ります」
「あ、はい。資料、最終版を共有してます」
「見ました。よく直ってた」
「ありがとうございます」
褒められた。三上さんに褒められると、素直に嬉しい。嬉しいのに、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
彼女は部長のことを、私よりずっと知っている。
七年前の部長も、たぶん。
そう思った瞬間、三上さんの視線が私の机の端で止まった。
そこには、昨夜持ち帰れず、ひとまず紙袋に入れて置いた紺色の傘がある。
会社に持ってくるつもりはなかった。けれど、朝の天気予報が「午後から雨」と言ったせいで、手放すのが急に怖くなったのだ。天気予報士さん、責任を取ってほしい。いや、完全に私の問題だけれど。
三上さんは一瞬だけ目を細め、それから何も聞かずに言った。
「……今日、雨みたいね」
「はい」
「濡れないように」
ただの気遣いのはずなのに、その言い方が妙に引っかかった。
まるで、その傘に意味があることを知っているみたいに。
十時のレビューは、いつも通り厳しかった。
部長は資料の三ページ目で一度止まり、「この数字、根拠が弱い」と短く指摘した。私は慌てて補足資料を出し、三上さんが横から「市場データは昨日更新済みです」と助け船を出す。
部長が頷く。
「そこは差し替え。結城さん、午後一で修正」
「はい」
仕事中の部長は、昨夜の屋上の人とは別人みたいだった。
でも、完全に別人ではない。
私が資料をめくる指先を一瞬だけ見て、目を伏せた。昔と同じ癖を見つけた時の、あの反応。
覚えている人の沈黙。
そのせいで、ただのレビューなのに心臓の置き場所がわからなくなる。仕事をしろ、私の心臓。今は勤務時間だ。
会議が終わる直前、三上さんが部長へ一枚の封筒を差し出した。
「霧島くん、これ。古い資料、総務倉庫から出しておいた」
霧島くん。
その呼び方が、会議室の空気に小さく落ちた。
私はペンを持つ指に力を入れる。
部長は受け取って、封筒の表を見た。表情は変わらない。ただ、ほんの一瞬だけ息を止めた気がした。
「助かった」
「必要になると思ったから」
「悪いな」
「今さらでしょ」
今さら。
その短い言葉に、私の知らない時間が何年分も詰まっていた。
胸がちくりとした。
昨日、「返さなくて、いい」と言われたばかりなのに。終わったことにはできなかった、と言われたばかりなのに。
私はまた、勝手に怖くなっている。
七年前に部長のそばにいたのは、私ではない。私が雨の中で泣いていた頃、彼の隣で仕事を支えていた人がいる。
それが三上さんだった。
恋人だったのかもしれない。
そう考えた瞬間、自分で自分に引いた。昨夜まであんなに「ちゃんと聞く」と決めていたのに、もう逃げ道を探している。私の逃げ足、駅伝なら区間賞だ。
午後、給湯室で紙コップにお茶を注いでいると、三上さんが入ってきた。
二人きり。
狭い空間に、湯気と沈黙が立ちのぼる。
「結城さん」
「はい」
「朝から顔に出てる」
「えっ」
「不安です、って顔」
紙コップを落としそうになった。
三上さんは手早く自分のマグカップを置き、給湯ボタンを押す。湯気の向こうで、その横顔は少しだけ柔らかかった。
「私と霧島くんのこと、気になる?」
直球すぎる。
職場の給湯室で投げていい球速ではない。
「いえ、その、気になるというか、仕事上の関係性を把握することは、業務効率の観点から……」
「結城さん、緊張すると早口になるのね」
「はい、すみません」
もうだめだ。社会人の皮が薄い。中身の私が丸見えである。
三上さんは小さく笑った。
「恋人だったことはないわ」
息が止まった。
お茶の湯気が、目の前で白く揺れる。
「……そう、なんですか」
「ない。お互いに、そういう余裕がなかった」
余裕。
その言葉に、昨夜の部長の声が重なる。
『俺も、終わったことにはできなかった』
三上さんはマグカップを両手で包んだ。いつもの有能な先輩社員の顔ではなく、少し遠い場所を見ている顔だった。
「あの頃の霧島くんは、仕事をしているというより、倒れないために立っていた感じだった」
「倒れないために……」
「私ができたのは、せいぜい横で資料を拾うことくらい。だから、戦友みたいなものね」
戦友。
恋人よりも、ずっと乾いている言葉。
なのに、ずっと深いところで結ばれている響きがした。
私は紙コップを見つめた。表面に小さな波が立っている。揺れているのはお茶じゃなくて、私の指だ。
「戦友って、何と戦ってたんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたと思った。
けれど三上さんは怒らなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。
「それは、私から全部話すことじゃない」
「……はい」
「でも、ひとつだけ」
三上さんの声が低くなる。
「霧島くんは、誰かを軽く扱える人じゃない。軽く扱えないから、間違える人なの」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
その言葉は、部長を庇っているようで、甘やかしてはいなかった。
間違える人。
七年前の私を傷つけた人。
それでも、誰かを軽く扱える人ではなかった。
「結城さんが怒るのは当然よ」
三上さんが言った。
「でも、勝手に身を引くのはやめてあげて」
「え」
「あなた、そういう顔をしてたから」
図星だった。
私はまた、傷つく前に一歩下がろうとしていた。三上さんと部長の過去を見て、私の入る余地なんてない、と決めつけようとしていた。
七年前と同じだ。
相手の本当の事情を聞く前に、自分の気持ちは重荷なんだと決めてしまう。
「……身を引くほど、まだ何かが始まってるわけじゃないです」
小さく言い訳すると、三上さんは少しだけ眉を上げた。
「始まってないもののために、そんな顔をする?」
やめてほしい。
有能な人は観察眼まで有能で困る。しかも逃げ場が給湯室の壁しかない。
その時、給湯室の入口に影が落ちた。
「三上」
部長だった。
私の心臓が、勤務時間中であることを完全に忘れる。
部長は私を見て、それから三上さんを見る。何かを察したのか、一瞬だけ沈黙した。
「結城さん」
「はい」
「十八時半、時間を取れるか」
昨夜の約束だ。
私は背筋を伸ばした。
「取れます」
「場所は、会社の外にする」
「外、ですか」
「ああ」
部長は少し迷うように視線を下げたあと、短く続けた。
「喫茶店の『灯』を知ってるか」
知らない名前だった。
三上さんの指が、マグカップの縁で止まる。
その反応だけで、そこがただの喫茶店ではないとわかった。
「そこなら、話せると思う」
部長の声は静かだった。
けれど、昨日までより少しだけ覚悟が混じっていた。
私が頷こうとした瞬間、三上さんがふっと息を吐いた。
「懐かしいわね。あそこ、まだあったんだ」
部長は答えなかった。
ただ、封筒を持つ手に少しだけ力が入った。
古い資料。
戦友。
倒れないために立っていた、あの頃の部長。
私の知らない七年前が、少しずつ輪郭を持ちはじめている。
そして私は、もう勝手に背を向けたくなかった。
「行きます」
声が思ったよりまっすぐ出た。
部長の目が、わずかに揺れる。
「わかった」
たったそれだけなのに、胸の奥に小さな熱が灯った。
十八時半。
古い喫茶店『灯』。
そこで聞くことになるのは、きっと私が知らなかった霧島湊の七年前だ。
その名前の向こうに、三上さんが「戦友」と呼んだ理由がある。
そしてたぶん、私が七年間ずっと怖くて見られなかった、あの日の答えの入り口も。
(第27話へ続く)




