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返さなくて、いい

 午後の企画部フロアは、いつもより少しだけ湿っていた。


 空調は効いている。窓も閉まっている。なのに、外の雨の気配だけがじわじわと床を這って、机の脚を伝って、私の足元まで来ている気がする。


 つまり、集中できない。


 資料の数字は読める。メールの文面も打てる。白石部長代理から飛んできた急ぎの修正にも、どうにか普通の顔で返せた。


 でも、心はずっと会議室に置きっぱなしだった。


 この話は、今日中に続きをさせてほしい。


 定時後、屋上で待っていてくれ。


 その傘は、まだ返さないでくれ。


 三段構えで心臓を殴るの、やめてもらっていいですか部長。こちらは社会人として平静を装うので精いっぱいなんです。


「ひなた」


 隣の席から、あかねが小声で呼んだ。


「はい、ただいま平常運転です」


「聞く前から言い訳する人、だいたい平常じゃないよ」


 さすが来栖あかね。切れ味が包丁。


 私は画面を見たまま、できるだけ何でもない声を出した。


「ちょっと、屋上に用事が」


「屋上に用事」


「うん」


「部長案件?」


 変な声が出そうになって、私は咳払いでごまかした。


「仕事の、延長です」


「その顔で?」


「どの顔」


「会議室から帰ってきてから、傘立てを見るたびに耳が赤くなる顔」


 見られていた。


 企画部フロア、監視カメラより同僚の観察眼のほうが怖い。


 私は足元に置いた紺色の傘を、椅子の陰へ少し押し込んだ。隠したところで、私の動揺はまったく隠れていないのだけれど。


「あかね」


「ん?」


「七年前のものって、返したら終わると思う?」


 あかねは一瞬だけ真面目な顔になった。


「物はね」


「……物は?」


「気持ちは、返したくらいじゃ終わらないでしょ。むしろ、持ち主を確認した瞬間から始まることもある」


 胸の奥が、きゅっと鳴った。


 始まる。


 そんな言葉を、簡単に信じられるほど私は強くない。七年前、勇気を振り絞って差し出した気持ちは、雨の中で静かに閉じられた。その記憶は今でも、濡れた紙みたいに胸に貼りついている。


 でも。


 今日の部長の指先を思い出す。


 持ち手の傷をなぞった時の、あの表情。


 忘れていない人の顔だった。


 定時のチャイムが鳴る頃、雨はまた強くなっていた。


 窓の外は灰色で、ビルの向こうが白くけぶっている。社員たちが少しずつ帰り支度を始める中、私は資料を閉じ、紺色の傘を手に取った。


 掌に馴染む重さ。


 七年前から、何度も握ってきた重さ。


 逃げるな、結城ひなた。


 誰も聞いていないのに、心の中で自分に号令をかける。すぐ逃げ腰になる私には、これくらい大げさでちょうどいい。


 エレベーターで屋上階まで上がる。


 数字が一つずつ増えていくたび、鼓動も一つずつ速くなる。ドアが開いた瞬間、湿った風が流れ込んできた。


 屋上には、誰もいなかった。


 雨は本降りではない。細い雨が、フェンスの向こうの街を薄くぼかしている。屋根のある出入口の下に立つと、足元だけがかろうじて濡れずに済んだ。


 私は傘を抱えたまま、空を見上げた。


 七年前も、こんな雨だった。


 大学の正門前。サークル棟から駅までの道。私は傘を持っていなくて、湊さんが何も言わずにこの紺色の傘を差し出してくれた。


 その優しさに勝手に勇気をもらって、私は告白した。


 好きです。


 今思い出しても、体温が上がる。十九歳の私は本当に一直線で、怖いもの知らずで、たぶん今よりずっと無防備だった。


 そして、返ってきた言葉は静かだった。


 ごめん。君の気持ちには応えられない。


 理由はなかった。


 だから私は、ずっと自分で理由を作り続けた。


 迷惑だったんだろうな。重かったんだろうな。子ども扱いされたんだろうな。そもそも、覚えてもいないくらいの出来事だったんだろうな。


 それなのに、彼は今日、この傘の傷を見て声を詰まらせた。


 もし、覚えているなら。


 もし、私だけじゃなかったなら。


「結城さん」


 背後から声がして、私は弾かれたように振り向いた。


 霧島部長が、屋上のドアの前に立っていた。


 いつもの黒いコート。濡れた前髪。手にはコンビニの袋が一つ。


「待たせた」


「いえ。私も今来たところです」


 嘘である。


 十分は待った。恋愛方面の見栄は、だいたいドラマで学んだ。


 部長は袋から缶コーヒーを一本取り出し、私に差し出した。


 甘さ控えめ。


 また、それ。


 胸が忙しい。もう少し休憩時間を設けてほしい。


「冷えるだろう」


「ありがとうございます」


 受け取った缶は温かかった。指先からじんわり熱が広がって、変に泣きそうになる。


 部長は少し距離を置いて、私の隣に立った。近すぎない。けれど、遠くもない。


 仕事の時の距離ではない。


 でも、踏み込みすぎてもいない。


 その加減が、たぶんこの人の誠実さなのだと思った。


「昼の続きだ」


「はい」


「まず、言っておく。ここで話すことは、業務命令じゃない」


 部長はまっすぐ前を見たまま言った。


「上司としてではなく、俺個人として話す。だから、答えたくなければ答えなくていい。聞きたくなければ、途中で止めていい」


 その丁寧さに、胸の奥が少しほどけた。


 七年前、私は何も選べなかった。


 好きだと伝えて、断られて、理由も聞けずに終わった。もちろん、相手には理由を言わない権利がある。けれど私は、その沈黙を自分への否定として抱え込んだ。


 今、部長は私に選ばせてくれている。


「聞きたいです」


 声は思ったより小さかったけれど、雨音には消えなかった。


 部長がこちらを見る。


「七年前のことを?」


「はい」


「俺が、覚えているかどうかも?」


 心臓が一拍、止まった気がした。


 私は傘の持ち手を握りしめる。


「……はい」


 部長は長い沈黙のあと、ゆっくり息を吐いた。


「覚えている」


 たった五文字。


 それだけで、七年分の雨が一気に音を立てた。


 覚えている。


 やっぱり。


 どうして。


 ずるい。


 嬉しい。


 苦しい。


 いろんな感情が同時に押し寄せて、どれから整理すればいいのかわからない。心の中の引き出しが全部ひっくり返ったみたいだった。


「最初から、ですか」


「ああ」


「私が入社した日から?」


「ああ」


「初対面だよねって、言いましたよね」


 責めるつもりはなかった。


 でも、声の端が震えた。


 部長は逃げなかった。視線を伏せず、ちゃんと私を見た。


「言った。すまなかった」


「どうしてですか」


 聞いてしまった。


 七年間、喉の奥に刺さっていた小さな棘。


 部長の指が、缶コーヒーの縁を一度だけなぞる。動揺すると、何かを淹れ直したり、触れたりする癖。私はもう、それを知っている。


「今すぐ、全部を話す資格があるとは思っていない」


「資格って」


「俺が勝手に線を引いた。七年前も、再会した時も」


 雨が、屋根の端から細く落ちている。


 部長の声は低く、けれど一つ一つがはっきりしていた。


「あの日のことを、なかったことにしたかったわけじゃない。君の気持ちを軽く見たこともない」


 君。


 職場では絶対に出てこない呼び方に、胸がまた跳ねる。


「ただ、俺は臆病だった。上司という立場を理由にして、過去に触れないほうが正しいと思い込もうとした」


「思い込もうとした……?」


「ああ。正しいというより、楽だったんだと思う」


 氷の部長が、自分をそんなふうに言う。


 それだけで、私の中の怒りみたいなものが行き場を失った。


 許したわけじゃない。


 傷つかなかったことにもならない。


 それでも、彼が完璧な理由を並べるのではなく、自分の弱さとして差し出したことが、どうしようもなく胸に響いた。


「この傘」


 部長の視線が、私の腕の中へ落ちる。


「七年前、君に貸したものだ」


「……はい」


「持ち手の傷も覚えている。駅前の石段で、君が転びかけた」


 息が止まる。


「覚えてるんですね、本当に」


「ああ」


「傘は怪我しないって、言いました」


「言った」


 部長の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その表情に、十九歳の私が胸の奥で顔を上げる。


 あの頃好きだった人が、ここにいる。


 でも、目の前にいるのは、七年前と同じ人ではない。私も同じじゃない。傷ついたままの十九歳ではなく、仕事で踏ん張って、失敗して、怒られて、また立ち上がってきた二十六歳の私だ。


 だから今度は、ちゃんと聞ける。


「部長」


「何だ」


「私は、この傘を返したほうがいいと思っていました。返せば、七年前に区切りがつくのかなって」


「ああ」


「でも今、少しだけわからなくなりました」


 部長が黙って続きを待つ。


 急かさない沈黙は、こんなにも優しい。


「返したら終わるものなのか、返さないまま持っているから続いているものなのか」


 自分で言って、恥ずかしくなった。


 何を言っているんだ私は。詩人か。屋上と雨と初恋は、人を不用意にポエムにする。危険物として社内規定に載せてほしい。


 でも、部長は笑わなかった。


 真剣な目で、私と傘を見ていた。


「結城さん」


「はい」


「返さなくて、いい」


 雨音が、遠くなった。


 その言葉は、昼間の「まだ返さないでくれ」よりも静かで、ずっと深かった。


「俺に返すために、君が七年分を無理に終わらせる必要はない」


 部長は少しだけ間を置いた。


「それから」


 視線が合う。


 冷たいはずの目が、今はまったく冷たくない。


「俺も、終わったことにはできなかった」


 息が、浅くなる。


 それは告白ではない。


 好きだと言われたわけでもない。


 七年前の理由も、まだ全部は聞いていない。


 なのに、胸の奥で何かがほどけて、同時に新しく結ばれていく。


 私たちは、同じ傘の下にいたのだ。


 七年前は、たぶん片側ずつ別の雨に濡れていた。でも今、この屋上で、同じ過去を見ている。


「……ずるいです」


 ぽつりと漏れた。


 部長の眉がわずかに動く。


「そうだな」


「否定しないんですか」


「できない」


 その素直さが、またずるい。


 私は俯いた。温かい缶コーヒーを握る指に力が入る。


「私、まだ怒っていいですか」


「ああ」


「まだ、聞きたいこともあります」


「ああ」


「でも」


 雨の匂いがする。


 紺色の傘の布が、腕の中でかすかに鳴った。


「今、少しだけ……返さなくてよかったって思っています」


 言った瞬間、耳が熱くなった。


 だめだ。これはかなり恥ずかしい。屋上の床に非常用の穴があったら入りたい。ない。現実のオフィスは恋愛漫画ほど都合よく隠れ場所を用意してくれない。


 部長は何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ目を細めた。


 それだけで、私の心臓は十分すぎるほど忙しくなる。


 やがて部長が、静かに言った。


「明日、少し時間をくれ」


「明日?」


「ああ。今度は、俺が話す番だ」


 七年前のことを。


 どうして覚えていないふりをしたのかを。


 そして、たぶん、まだ私の知らない何かを。


 私は紺色の傘を抱きしめたまま、雨の向こうに立つ彼を見上げた。


 返さなくて、いい。


 その言葉を胸にしまった瞬間、七年前から止まっていた私の初恋が、静かにもう一度、音を立てた。


(第26話へ続く)

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