返すための勇気
翌朝、私は紺色の傘を持って家を出た。
雨は、やんでいた。
よりによって、である。
昨日あれだけ降って、私の心も足元もぐしゃぐしゃにしておいて、今日は空が何食わぬ顔で薄曇りだ。天気まで社会人みたいな顔をしてくる。切り替えが早い。見習いたくない。
玄関で一度、傘立てに戻しかけた。
けれど、部長は言った。
明日、その傘を持ってきてくれ。
少しだけ、話がある。
その言葉を思い出すだけで、胃のあたりがきゅっと縮む。私は傘の持ち手を握り直した。古い傷のある場所に、自然と指が触れる。
「……行こう」
誰に言うでもなくつぶやいて、私はドアを閉めた。
通勤電車の中で、紺色の傘はやけに存在感があった。晴れている日に持つ長傘ほど、周囲へ事情を説明したくなる物体はない。
違います。置き忘れではありません。
七年前から置き忘れている気持ちです。
……いや、そんな説明を車内で始めたら、確実に席を譲られる。別の意味で。
会社に着くころには、手のひらにうっすら汗をかいていた。梅雨の湿気のせい、ということにしたい。全力で。
企画部のフロアに入ると、いつもの朝の音がした。キーボード、コピー機、誰かの小さなあくび。日常は、こちらの胸の騒ぎなど知らない顔で進んでいく。
「おはよう、ひなた」
来栖あかねが私の席の横から顔を出した。
「お、おはよう」
「晴れてるね」
「うん」
「長傘だね」
「うん」
「しかも、例の紺色だね」
「……うん」
あかねは一拍置いて、にやつくでもなく、少しだけ目を細めた。
「何かあった?」
こういう時、茶化さずに聞いてくれるところが、あかねのずるいところだ。逃げ道を塞ぐのではなく、逃げてもいい場所を作ってくる。
「昨日、部長に……この傘のこと、少し話した」
「七年前の?」
私は小さくうなずいた。
あかねの表情が、真面目なものに変わる。
「で、今日持ってこいって?」
「何でわかるの」
「ひなたの顔が、提出前の企画書みたいだから」
「どんな顔」
「修正したいけど、もう部長の赤入れ待ち、みたいな顔」
的確すぎて腹が立つ。いや、腹が立つ元気はない。今の私は赤入れ待ちの企画書そのものだ。しかも紙の端が湿っている。
「返したほうがいいのかなって、思ってる」
口に出した瞬間、自分でも驚くほど胸が痛んだ。
七年前、返せなかった傘。
返さなかった傘。
捨てられなかった傘。
それを今日、部長の手に戻したら、何かが終わる気がした。
でも、終わらせないと始まらないものもあるのかもしれない。
「返したいの?」
あかねが聞いた。
私はすぐに答えられなかった。
「……わからない」
「うん」
「返したら、ちゃんと大人になれる気がする。でも、返したら、十九歳の私がずっと握ってたものまでなくなる気もする」
あかねは少し黙ってから、机に置いた私の傘を見た。
「じゃあ、返すかどうかは、話してから決めれば?」
「そんな器用なことできるかな」
「できなくてもいいでしょ。ひなたは今、逃げずに持ってきた。それだけでかなり頑張ってる」
胸の奥が、ふっとゆるんだ。
その時、フロアの空気が少し変わった。
霧島部長が出社してきたのだ。
黒いビジネスバッグ、乱れのない髪、感情を読み取らせない横顔。いつもと同じ。なのに、視線が私の席の横を通った瞬間、ほんの少しだけ止まった。
傘を見た。
見た、と思う。
そして何事もなかったように、自席へ向かった。
心臓が一拍、遅れて跳ねる。
あの人の「何事もなかったように」は、たいてい何かある時の顔だ。七年越しに学習したくなかった観察眼である。
午前中は、仕事にならなかった。
いや、正確には仕事はした。メールを返し、資料を直し、会議の議事メモも取った。社会人としての私は稼働していた。ただし中の人はずっと傘のことで頭がいっぱいだった。
十一時過ぎ、部長からチャットが来た。
『十五時、第一会議室。十分だけ時間をください』
ください。
部長が、ください。
指示でも命令でもなく、時間を「ください」。
それだけで、胸の奥がざわざわする。ずるい。言葉の温度管理が細かすぎる。氷の部長、たまに一滴だけ熱湯を落としてくるから困る。
私は短く返信した。
『承知しました。傘も持参します』
送ったあと、何を書いているんだ私はと思った。会議資料みたいに傘を持参するな。
けれど、すぐに既読がついた。
『お願いします』
それだけだった。
十五時までの時間は、なぜか妙に長かった。昼休みの味噌汁は味がしなかったし、羽田くんに「結城さん、体調悪いですか?」と聞かれて、全力で首を振ったら逆に心配された。
そして、十四時五十分。
私は傘を手に、第一会議室へ向かった。
会議室の前で立ち止まる。すりガラスの向こうに人影はない。部長はまだ来ていないらしい。
深呼吸を一つ。
返す。
返さない。
聞く。
聞かない。
頭の中で選択肢が忙しく点滅する。恋愛感情にチェックボックスがあればいいのに。複数選択不可とか、必須項目とか、そういう仕様で。
ドアが開いた。
「結城さん」
「はいっ」
部長だった。
近い。
思ったより近い。
会議室の前で向かい合っただけなのに、昨日の相合傘の距離がふっとよみがえる。肩が触れそうだったこと。傘の中の雨音。低い声。
「待たせた」
「いえ、私も今来たところです」
デートの待ち合わせみたいな返事をしてしまった。
違う。これは業務時間内の面談である。傘付きの。
部長はドアを開け、中へ入るよう促した。
第一会議室は、昨日の雨を知らない顔で整っていた。長机、椅子、ホワイトボード。窓の外は白く曇っていて、遠くのビルの輪郭がぼんやりしている。
私は椅子に座らず、机の脇に立ったまま傘を持っていた。
部長も向かい側に立つ。
数十センチの距離。
職場としては普通。
心臓としては過密。
「昨日のことだが」
部長が先に口を開いた。
「はい」
「突然、踏み込んだことを聞いた。改めて謝る」
「……謝られることじゃありません」
「それでも、俺が確認したかっただけだ」
俺。
職場で部長が「俺」と言う時は、いつも少しだけ素に近い。前ならそれだけで足元が浮いたけれど、今は胸の奥が静かに痛む。
「確認、ですか」
「ああ」
部長の視線が、私の手元に落ちる。
紺色の傘。
私は両手で差し出した。
「これ、返したほうがいいのかなって、思いました」
言えた。
声は少し震えたけれど、言えた。
部長はすぐには受け取らなかった。
その沈黙に、胸がぎゅっとなる。
「七年前、返せなくてすみませんでした」
私は続けた。
「ずっと持っていました。理由も、ちゃんと説明できないまま。でも、部長が覚えていないなら、私だけが抱えているのも変だし、覚えているなら……なおさら、返したほうがいいのかなって」
言葉にしていくほど、喉の奥が熱くなる。
これは、傘を返す話のはずだった。
なのに私は、十九歳の私を机の上に置いているみたいな気持ちになっていた。
「結城さん」
部長の声が低くなる。
「はい」
「この傘を、七年持っていたことを責めるつもりはない」
「……はい」
「俺に返すために、無理に気持ちを整理する必要もない」
視界が、少しにじんだ。
ずるい。
また、そうやって。
私が一番ほしかった言葉を、今ごろくれる。
「じゃあ、部長はどうして、今日持ってこいって言ったんですか」
聞いてしまった。
逃げずに。
部長は私を見た。いつもの冷静な目ではない。昨日、雨の向こうで見た、何かを決めた人の目だった。
「見せてほしかった」
「この傘を?」
「ああ」
「……なぜですか」
部長は一度だけ、目を伏せた。
その仕草を、私は知っている。
七年前、私が告白した時も、同じように目を伏せた。
忘れてなんか、いない。
心のどこかで、そんな声がした。
部長が手を伸ばす。
「触れても?」
たったそれだけの確認に、胸が詰まった。
傘に触れる許可なのに、まるで私の過去に触れていいかと聞かれているみたいだった。
「……どうぞ」
私は傘を差し出した。
部長の指が持ち手に触れる。
その瞬間、彼の表情がほんのわずかに変わった。
傷のある場所を、親指がなぞる。
古い、細い傷。
七年前、駅前の石段で私が転びかけた時、傘の持ち手をぶつけてつけてしまった傷だ。覚えている。あの日、私は慌てて謝って、湊さんは「傘は怪我しない」とだけ言った。
そんなことまで思い出して、息が止まりそうになる。
部長は、長いあいだその傷を見ていた。
「……この傷」
声が、かすかに掠れた。
私は何も言えなかった。
部長は顔を上げる。
その目の奥に、今まで蓋をしていた何かが見えた気がした。
「結城さん」
「はい」
「この傘……」
そこまで言った時、会議室のドアがノックされた。
「霧島部長、すみません。白石部長代理がお呼びです。先方から急ぎで確認が入っていて」
現実が、またしても仕事熱心に割り込んできた。
部長の指が、傘の持ち手から離れる。
私は思わず、傘を抱き寄せた。
部長はドアの方を見て、短く答えた。
「すぐ行く」
そして、もう一度私を見た。
言いかけた言葉が、そこに残っている。
「結城さん」
「はい」
「この話は、今日中に続きをさせてほしい」
心臓が跳ねた。
「……わかりました」
「定時後、屋上で待っていてくれ」
屋上。
雨上がりの空に近い場所。
部長は会議室を出ていく直前、低く、けれどはっきりと言った。
「その傘は、まだ返さないでくれ」
ドアが閉まる。
私は一人、会議室に残された。
手の中には、紺色の傘。
返すために持ってきたはずのそれを、私はまた強く握りしめていた。
まだ返さないでくれ。
その言葉は、七年前の雨音よりも大きく、胸の奥で何度も響いた。
(第25話へ続く)




