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言葉にしない優しさ

 翌朝、私はいつもより二十分早く家を出た。


 理由はもちろん、会議室B。


 三上さんからの社内チャットを、昨夜だけで何回開いたかわからない。既読をつけたあとの返信欄に『大丈夫です』と打ち込むまで五分。送信ボタンを押すまで、さらに三分。


 我ながら重い。メッセージ一通に対する腰の重さが、社内稟議並みである。


 黒い傘は、玄関に立てかけたまま出る寸前まで迷った。


 返す。返さない。いや、会社の備品だし返す。部長が急がなくていいと言った。いやいや、借りっぱなしは社会人としてどうなの。


 そんな脳内会議の末、私は傘を手に取った。


 梅雨の空は薄く曇っていたけれど、雨は上がっていた。濡れたアスファルトに朝の光がぼんやり反射している。傘を持つ必要はない天気なのに、手にある黒い重みが昨日のロビーをそのまま連れてきてしまう。


 急がなくていい。


 あの声を思い出すたび、胸のどこかが勝手に反応する。


 七年前の紺色の傘は、まだ私の部屋のクローゼットの奥にある。黒い傘とは違う。違うのに、持ち手を握る指先が、どうしても過去の感触を探してしまう。


 会社に着くと、企画部のフロアはまだ少し静かだった。


 湊――じゃない、霧島部長の席には、もうノートPCが開かれている。本人はいない。画面は閉じられ、マグカップだけが置かれていた。


 あの人、本当に何時に来ているんだろう。もしかして会社に住んでいるのでは。氷の部長、夜間は冷蔵庫で充電している説。


 くだらないことを考えないと、落ち着かなかった。


 私は自席に荷物を置き、借りた傘を傘立てに戻そうとして、手を止めた。


 会社の傘立てには似たような黒い傘が何本もある。ここに入れたら、どれが部長の傘かわからなくなる。いや、備品ならそれでいいのかもしれない。でも、昨日、私に差し出されたものを雑に混ぜるのは、なんだか違う気がした。


 結局、私は傘を自席の横に立てかけた。


 返すタイミングを見失う未来が、早くも見えた。


「おはよ、ひなた。……その傘、例の?」


 背後からあかねの声がして、私は肩を跳ねさせた。


「例の、って何」


「昨日、鬼上司から渡されたやつ」


「声が大きい」


「まだ誰も聞いてないって」


 あかねは私の顔を覗き込んで、にやりと笑った。


「で、返すの?」


「返すよ。会社の傘だし」


「ふうん。会社の傘にしては、ずいぶん大事そうに持ってるね」


「持ち方の問題まで指摘されるの?」


「恋愛は持ち方に出るから」


「出ません」


 即答したのに、耳が熱い。ほんとにやめてほしい。私の耳は正直すぎて、社内評価制度に組み込まれたら一発で減点される。


 あかねは笑いながら自席へ向かった。その途中で、ふと声を落とす。


「三上さんとは?」


「九時前に、少し」


「そっか」


 今度は茶化さなかった。


 その一瞬の真面目な顔に、私は余計に緊張した。


 八時五十五分。


 私は封筒を持って会議室Bの前へ向かった。


 廊下の窓から見える空は、今にも降り出しそうな灰色だ。会議室Bはフロアの端にあって、人の出入りが少ない。昨日の三上さんの『少しだけ』という言葉には、ちゃんと場所と時間を選んだ気配があった。


 三上さんは、もう来ていた。


 白いブラウスに細身のジャケット。背筋がまっすぐで、朝から隙がない。私が近づくと、彼女は穏やかに目を細めた。


「おはよう、結城さん。急に呼び出してごめんなさい」


「おはようございます。いえ、大丈夫です」


 大丈夫です、なんて言ったけれど、心臓はまったく大丈夫ではない。


 三上さんは会議室Bの扉をちらりと見てから、廊下の少し奥へ私を促した。


「長い話じゃないの。ただ、昨日の資料の件で、あなたが変に気にしているかもしれないと思って」


「資料、ですか?」


「ええ。霧島部長、言い方がきついでしょう」


 あまりにまっすぐ言われて、私は反射的に笑ってしまった。


「……はい。少し」


「少し、で済ませるあたり優しいわね」


 三上さんも小さく笑った。それから、すぐに表情を引き締める。


「あの人、直すところは容赦なく言う。でも、見込みがない人の資料をあそこまで見る人じゃないの」


 胸の奥が、こつんと鳴った。


「見込み……」


「結城さんの資料、昨日の夜に部長が赤を入れていたでしょう」


「はい」


「その前に、一度私のところに持ってきたの。『企画の芯は悪くない。削り方を間違えなければ通る』って」


 知らなかった。


 昨日、部長は私に『伝えたいことがぼやける』と言った。それだけだった。芯は悪くない、なんて一言も。


 言ってくれればいいのに。


 そう思ってから、すぐに自分で否定する。


 言えない人なのかもしれない。言わないことで距離を保っているのかもしれない。


 距離。


 その言葉に、心が少しだけ引っかかった。


「三上さんは、霧島部長と長いんですか?」


 口にしてから、しまったと思った。


 昨日からずっと気になっていたことが、質問の形で飛び出してしまった。仕事の話だったのに。私は何を聞いているんだろう。


 三上さんは、驚かなかった。


「前の部署からだから、長いほうね」


「そう、なんですね」


「誤解されやすいけれど、私はあの人の恋人だったことはないわ」


「えっ」


 声が裏返った。


 廊下に響いた気がして、私は慌てて口元を押さえる。三上さんは面白そうに眉を上げた。


「そこまで驚く?」


「い、いえ、すみません。私、そんなつもりで聞いたわけじゃ」


「いいの。よくあるから」


 よくある。


 その言葉が、妙に胸に沈んだ。


 霧島部長と三上さんは、確かに仕事の呼吸が合っている。視線だけで通じるし、言葉の省略にも迷いがない。私はそのたびに、勝手に心をざわつかせていた。


 でも三上さんは、そのざわつきまで見透かしたように穏やかだった。


「私はただ、あの人が無茶をする時期を知っているだけ」


「無茶、ですか」


「仕事も、仕事以外も。自分のことを後回しにする癖があるの。だから周りが気づいて止めないと、本当に倒れるまで止まらない」


 仕事以外。


 聞き返したかった。


 でも、三上さんの横顔に、それ以上踏み込まないでという線が見えた気がした。


 彼女は一拍置いてから、私を見た。


「結城さん。部長の言葉が冷たく聞こえても、あなたの仕事を否定しているわけじゃない。それだけは覚えておいて」


「……はい」


「それと」


 三上さんは少し迷ったように目を伏せた。


「あなたが何かを知っているなら、無理に忘れたふりをしなくていいと思う」


 息が止まった。


 廊下の空気が一瞬で薄くなる。


 何かを、知っているなら。


 それは、七年前のことだろうか。私が湊さんを知っていることを、三上さんは気づいているのだろうか。それとも、ただの一般論? 部下が上司の過去を知っているかもしれない、という程度の話?


 答えを探す前に、会議室Bの扉が開いた。


「三上」


 低い声。


 霧島部長が、そこに立っていた。


 私の心臓は、今朝いちばん大きな音を立てた。


 部長の視線が三上さんから私へ移る。私の手元にある封筒、そして足元にない傘を見た気がした。


「結城。資料は読んだか」


「はい。今朝、読みました」


「なら入れ」


 いつも通りの短い指示。


 けれど、いつもよりわずかに声が固い。三上さんと私が何を話していたのか、気になっているのだろうか。


 まさか。上司として、会議前の進行を気にしているだけ。


 そう思おうとしたのに、部長の視線が一瞬だけ三上さんに向いた。


 三上さんは何も言わず、ただ小さくうなずいた。


 そのやり取りが、また私の胸をざわつかせる。


 会議室Bに入ると、机の上には私の資料が置かれていた。昨日の赤字が整理され、横に新しい付箋が貼ってある。


『比較軸は三つまで。見せたい順に並べる』


 部長の字だ。


 私は席に着き、資料をめくった。


 赤字は厳しい。でも、どれも私の企画を別物にするための修正ではなかった。伝わる形に削るための指摘だった。


 昨日まで、赤ペンを見るたびに胃が縮んでいた。


 なのに今は、少し違う。


 この人は、私の企画を捨てなかった。


 その事実だけで、胸の奥に熱が灯る。


「結城」


「はい」


「ここ。自分で説明してみろ」


 部長の指が、資料の中段を示した。


 距離が近い。


 会議室の細長い机。隣ではない。向かい側でもない。斜め前の、手を伸ばせば紙の端に触れられる距離。


 指先が白い紙の上を滑る。その爪がきれいに切られていることまで見えてしまって、私は慌てて資料に集中した。


「ええと、ここはターゲットを年齢で切るより、利用シーンで分けたほうが訴求が明確になると考えました。なので、平日夜と休日午前で――」


「悪くない」


 短い一言だった。


 でも、私の声はそこで止まった。


 悪くない。


 たった四文字。


 たったそれだけで、昨日から握りしめていた不安が、少しほどける。


「……ありがとうございます」


「止まるな。続けろ」


「はい」


 冷たい。やっぱり冷たい。


 でも、その冷たさの下に、何かがあると知ってしまったら、もう前と同じようには受け取れない。


 説明を続ける私の声は、最初より少しだけ落ち着いていた。


 三上さんは途中から同席し、必要なところだけ補足してくれた。部長は相変わらず無駄なく削る。私は何度も詰まり、そのたびに「そこは違う」「根拠を戻せ」「今の言い方でいい」と短く直された。


 九時四十分。


 会議が終わる頃には、資料の骨組みが見違えるほどはっきりしていた。


「今日中に直して、十五時にもう一度見る」


「はい」


「一人で抱えるな。迷ったら三上か俺に出せ」


 俺。


 その一人称が、耳に残った。


 普段の部長は、ほとんど自分を主語にしない。指示と判断だけが淡々と降ってくる。なのに今、ほんの少しだけ人の温度が混じった気がした。


「……はい。お願いします」


 私が頭を下げると、部長は資料を閉じた。


「それと」


 また、心臓が構える。


「傘」


 やっぱり来た。


 私は背筋を伸ばした。


「すみません、席に置いてあります。すぐ返します」


「今日は降る」


「え」


「夕方から雨だ。持って帰れ」


 会議室の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。


 部長はもう資料に視線を落としている。大したことではない、という顔だ。


 でも私は、そこで固まってしまった。


 昨日と同じだ。


 急がなくていい。足元、気をつけろ。今日は降る。


 言葉はどれも短くて、私の心に入る前にすぐ仕事の顔へ戻ってしまう。それなのに、残された温度だけが消えない。


「……ありがとうございます」


 そう言うのが精一杯だった。


 会議室を出ると、三上さんが私の横に並んだ。


「ね?」


「え?」


「あれで、気にしてないふりをしているつもりなのよ」


 私は返事ができなかった。


 廊下の先、霧島部長の背中が企画部フロアへ戻っていく。まっすぐで、近寄りがたくて、でも昨日より少しだけ違って見える背中。


 気にしてないふり。


 忘れたふり。


 ふり、ばかりだ。


 私も、ずっとそうだったのかもしれない。


 七年前の傘を捨てられないくせに、もう平気なふりをして。名前を呼ばれるたびに胸が鳴るくせに、ただの上司だと自分に言い聞かせて。


 フロアに戻ると、私の机の横の黒い傘が目に入った。


 返すために持ってきた傘。


 でも今日も、持って帰ることになった傘。


 私はそっと持ち手に触れた。


 その瞬間、斜め前の部長席から視線を感じた。


 顔を上げると、霧島部長と目が合った。


 一秒にも満たない。


 部長はすぐに視線をPCへ戻した。


 けれど、隣の三上さんだけが、その一瞬を見ていた。


 そして、私にだけ聞こえる声で、独り言みたいに呟いた。


「……ほんとに、不器用な人」


(第10話へ続く)

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