傘を忘れないで
三上さんの言葉は、雨音より小さかった。
「傘、忘れないでね」
たったそれだけ。
なのに私は、鞄の持ち手を握ったまま固まってしまった。
忘れないで。
どの傘を。
今日持っている、コンビニで買った折りたたみ傘のこと?
それとも、私の部屋で乾かされている、七年前の紺色の傘のこと?
まさか。そんなはずない。三上さんが知っているわけがない。だって私は誰にも話していない。あかねにだって、全部は言えていない。
そう思うのに、三上さんの視線は霧島部長の机のほうへ向いていた。
机の横に立てかけられた、きっちり巻かれた紺色の傘。
七年前のそれとは違う。持ち手の形も、布の色味も、少し違う。
それなのに、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……はい。気をつけます」
どうにか声を出すと、三上さんはいつもの落ち着いた顔に戻った。
「雨の日の駅前、混むから」
「あ、そういう意味ですよね」
「他に何か?」
「いえ、何も」
何もない顔をするのが、社会人七年目でもいまだに下手だ。
私は会釈して、フロアを出た。廊下の蛍光灯は夜の色を薄めるみたいに白くて、窓の外だけが濡れた黒に沈んでいる。
エレベーターを待ちながら、鞄の中を探った。
折りたたみ傘は、ちゃんとある。小さくて、軽くて、頼りない。今の雨に勝てるかどうかは、かなり怪しい。
でも今日は、紺色の傘を持ってこなくてよかった。
そう思った瞬間、自分で自分に驚いた。
よかった、って何。
持ってきていたら、返せたかもしれないのに。
いや、返せない。返せるわけがない。返したら、七年前を覚えていると言うのと同じだ。あの日の私を、今の私がまだ抱えていると白状するようなものだ。
そこまで考えて、私は額に手を当てた。
重い。思考が。
傘一本でここまで内省できる人間、我ながら面倒くさい。
一階に着くと、ロビーにはまだ何人か社員がいた。自動ドアの向こうでは、さっきよりずっと雨が強くなっている。街灯の光に雨筋が斜めに浮かび、歩道は細かく跳ねる水で白くけぶっていた。
私は折りたたみ傘を開いた。
かちり。
途中で止まった。
「……え」
もう一度押す。
かち、かち。
骨の一本が妙な角度で引っかかっている。安物の傘は、まるで最初から自分には荷が重かったですと言いたげに、半開きのまま震えていた。
嘘でしょ。
今日に限って?
雨の日に限って?
しかも「折りたたみ、あります」と上司に宣言した三十分後に?
社会人としての信用が、傘の骨一本で折れそうだ。
私はロビーの隅に寄り、どうにか直そうとした。濡れた床に鞄を置くわけにもいかず、片手で持ったまま金具を押す。うまくいかない。指先がじんと痛んだ。
「結城?」
心臓が、傘より先に跳ねた。
振り向くと、霧島部長が立っていた。会議室に向かったはずなのに、いつの間に。
黒いコートを腕にかけ、片手には書類の入った薄い封筒。表情はいつも通り涼しい。涼しいのに、視線だけは私の手元に一直線だった。
「……帰ったんじゃなかったのか」
「帰ろうとしています」
正確には、傘に帰宅を阻止されています。
そう言える勇気はなかった。
霧島部長は私の傘を見て、ほんの少し眉を寄せた。
「壊れている」
「いえ、たぶん、ちょっと機嫌が悪いだけで」
「傘に機嫌はない」
正論で刺さないでください。
私は金具を押しながら笑ってごまかそうとした。その瞬間、指先が滑って、骨の先が手の甲に当たった。
「いたっ」
小さく声が漏れた。
次の瞬間、霧島部長の手が伸びてきた。
「貸せ」
「あ、大丈夫です」
「手を切る」
低い声だった。
叱られている、というより、止められている。私の雑な意地を、短い言葉で押さえ込むみたいに。
私は抵抗できず、傘を渡した。
霧島部長はロビーの明かりの下で、折れた骨の向きを確認する。大きな手が、細い金具を迷いなく押さえる。無駄のない動き。仕事で資料を直すときと同じだ。
ああ、この人は何でもこうなんだ、と思った。
壊れている場所を見つけて、原因を確認して、黙って直そうとする。
でも、壊れた側には何も説明しない。
それが優しさなのか、距離なのか、私はまだ知らない。
「無理だな」
霧島部長は傘を閉じた。
「骨が歪んでいる。開いても途中で戻る」
「……そうですか」
どうしよう。
タクシーを呼ぶ? 駅まで走る? いや、この雨で走ったら、会社を出て三秒で負けが確定する。
私が考え込んでいると、霧島部長はロビー横の傘立てへ歩いた。
そこには社員用の予備傘が何本か入っている。ビニール傘、黒い長傘、会社名の入った置き傘。
霧島部長はその中から、一本の黒い傘を抜いた。
「使え」
「え、でも」
「明日返せばいい」
「部長は?」
「俺は別に」
そう言いかけて、彼は一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
その視線が、エレベーターのほうへ動いた。きっと、フロアに置いてきた自分の紺色の傘を思い出したのだ。
でも取りに戻るとは言わなかった。
代わりに、私に黒い傘を差し出す。
「駅まで行くだけだろう」
「部長こそ、駅まで行くだけですよね」
言ってから、しまったと思った。
口が勝手に動いた。緊張すると早口になる癖は自覚しているけれど、今日は反抗期まで発症している。
霧島部長は少しだけ目を細めた。
「それは、傘を借りない理由になるのか」
「……なりません」
「なら持て」
言葉は冷たい。
でも、手元の傘はちゃんと私のほうに向いている。
私は受け取った。持ち手に残るわずかな温度に、変に意識してしまう。
ただの傘。ただの会社の予備傘。ただの上司の気遣い。
そう言い聞かせても、胸の中は静かにならなかった。
「ありがとうございます。明日、必ず返します」
「急がなくていい」
その言葉に、息が止まった。
急がなくていい。
七年前の傘も、そう言われた気がした。
雨の匂い。大学の門。濡れた前髪。優しいのに遠い横顔。
記憶が勝手に重なって、目の前のロビーが一瞬だけ過去に揺れた。
霧島部長は私を見ていた。
覚えていない人の目ではなかった。
……ような気がした。
でも、気がしただけだ。私はいつだって、都合のいい瞬間だけを拾ってしまう。
「結城」
「はい」
「資料の修正」
仕事の話に戻った。
私は少しだけ肩の力を抜いた。助かったような、残念なような。残念って何。仕事の話で正解です。
「今日の方向でいい。明日、比較軸をもう一段削る。伝えたいことがぼやける」
「はい」
「それと」
霧島部長は封筒を私に差し出した。
「三上から。参考資料だ。帰って読む必要はない。明日の朝でいい」
「……はい」
封筒を受け取ると、表に付箋が貼ってあった。
『結城さんへ。無理して今夜読まないこと』
三上さんの字だ。
その下に、別の小さな文字で一行だけ追加されていた。
『朝、九時十分。会議室B』
霧島部長の字だった。
胸が、また変な音を立てた。
九時十分。
始業直後ではない。全体朝会のあと、フロアが少し落ち着く時間だ。たぶん、私が慌てず資料を見られるように。
こういうところ。
こういう、説明しない親切が、いちばん困る。
「……ありがとうございます」
声が少し掠れた。
霧島部長は何も言わず、自動ドアの外を見た。
「雨、強いな」
「はい」
「足元、気をつけろ」
また、それだけ。
私は黒い傘を握り直した。
「部長も」
言ったあと、今度は自分で少し驚いた。
七年前の私は、そんなふうに返せなかった気がする。好きです、と言うだけで精一杯で、相手の帰り道を気遣う余裕なんてなかった。
今の私は、二十六歳の社会人だ。
傷ついた記憶を持ったままでも、ちゃんと立っている。
そう思ったら、少しだけ息がしやすくなった。
自動ドアが開く。
雨の音が一気に近づいた。
私は傘を開いて、一歩外へ出た。黒い布が頭上で雨を受け止める。頼りない折りたたみとは違う、しっかりした重み。
振り返ると、霧島部長はロビーの中に立ったまま、こちらを見ていた。
見送っている、なんて思ったら自意識過剰だ。
上司として、部下が無事に傘を差したか確認しているだけ。
それだけ。
それだけなのに、胸の奥がうるさい。
私は軽く頭を下げ、駅へ向かった。
歩道の水たまりに街の明かりがにじんでいる。傘に当たる雨音は大きいのに、不思議と心細くはなかった。
会社の角を曲がる前、もう一度だけ振り返った。
ロビーにはもう、霧島部長の姿はなかった。
ほっとしたような、寂しいような気持ちで前を向く。
そのとき、スマホが震えた。
あかねからだと思って画面を見ると、社内チャットの通知だった。
送信者は、三上玲子。
『明日、会議室Bの前に少しだけ時間ある? 霧島部長のことで、結城さんに言っておいたほうがいいことがある』
雨音が、急に遠くなった。
私は黒い傘の下で立ち止まったまま、その一文を何度も読み返した。
霧島部長のことで。
言っておいたほうがいいこと。
胸の奥で、七年前から閉じたままの傘が、かすかに開く音がした。
(第9話へ続く)




