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知っている人の視線

 三上玲子さんの視線は、鋭い。


 鋭い、というより、逃げ道を先にふさいでくるタイプの視線だ。


 私の手元の甘さ控えめのカフェオレ。


 霧島部長の机に立てかけられた紺色の傘。


 その二つを順番に見てから、三上さんは口元だけで少し笑った。


 ……待ってください。


 その笑い方は、何を知っている人の笑い方ですか。


「結城さん」


「はいっ」


 声が裏返った。


 社内で不審者として通報される前に落ち着きたい。


「修正、終わりそう?」


「あ、はい。霧島部長に見ていただいて、だいぶ整理できました」


「そう。ならよかった」


 三上さんは私の画面を軽くのぞき込んだ。香水ではなく、洗い立てのシャツみたいな清潔な匂いがした。髪は低い位置でまとめられていて、ピアスも小さい。派手ではないのに、隙がない。


 仕事ができる女性、という言葉を人の形にしたら、たぶんこうなる。


「ここの数字、最新版に差し替えた?」


「えっ」


 慌てて資料を確認する。たしかに、午前中にもらった営業実績のファイルではなく、昨日のデータを入れたままだった。


 血の気が引く。


「す、すみません。すぐ直します」


「大丈夫。提出前に気づけば事故じゃないから」


 さらりと言って、三上さんは自分のタブレットを操作した。


「最新版、今送った。あと、競合比較のところは営業二課の資料も見たほうがいいかも。霧島さん、そこ突っ込むと思う」


 霧島さん。


 部長でも、霧島部長でもなく、霧島さん。


 その呼び方が自然すぎて、胸の奥がちくりとした。


 何に反応しているの、私。


 職場の先輩と上司が下の名前ではなく苗字で呼び合う。全国どこにでもある。むしろ社会人として普通。普通です、結城ひなたさん。


 なのに、三上さんの「霧島さん」は、七年なんて薄い紙みたいにめくってしまうほど近く聞こえた。


「ありがとうございます。助かります」


「うん。焦ると抜けるタイプでしょ、結城さん」


「なぜそれを」


「見てればわかるわよ」


 怖い。


 有能な人の観察眼、怖い。


 三上さんは、ちらりと私の手元を見た。


「それ、冷めないうちに飲んだら?」


「あ、はい」


 私は缶コーヒーを両手で包み直した。まだほんのり温かい。


 三上さんの視線が、今度は霧島部長へ向く。


 部長は自分の席で別の資料に目を通していた。顔はいつも通り無表情。けれど、画面をスクロールする指が少し遅い。


「霧島さん」


「何だ」


「結城さん、数字の最新版は私から送りました」


「わかった」


「あと、例の会議資料、十時までに確認お願いします」


「九時半に返す」


「助かります」


 短い会話。


 けれど、すべてが通じている。


 余計な説明がいらない距離。


 私は画面に向き直った。最新版のデータを差し替えながら、心の中で小さく息を吐く。


 七年前の私は、霧島湊という人のほんの一部分しか知らなかった。


 雨の日に傘を貸してくれたこと。


 サークルの展示で、私の写真を一枚だけ長く見てくれたこと。


 告白を、静かに断ったこと。


 それだけだ。


 今の彼の仕事の仕方も、部下への目配りも、三上さんとの信頼関係も、私は何も知らない。


 知らないくせに、缶コーヒー一つで勝手に浮かれている。


 うわ。


 自分で自分にダメージが入った。


「結城さん」


 再び三上さんに呼ばれて、私は背筋を伸ばした。


「今、ちょっと時間ある? 給湯室まで来てもらっていい?」


「はい」


 給湯室。


 その単語だけで、なぜか心臓が変な動きをする。


 昨日から今日にかけて、給湯室の重要度が高すぎる。社内恋愛ゲームならイベント発生地点として星がついているところだ。いや、恋愛していない。していないことになっている。


 私は缶コーヒーを机に置き、三上さんの後について歩いた。


 給湯室は夜の蛍光灯の下で、昼間より少し狭く見えた。ポットの湯気が白く上がり、シンクの金属が冷たく光っている。


 三上さんは棚から紙コップを取り出しながら、さらりと言った。


「霧島さん、怖い?」


「えっ」


 直球だった。


 会議室の扉どころか、心の扉までノックなしで開けられた気分だ。


「怖い、というか……厳しいです」


「そうね。厳しい」


 三上さんは否定しなかった。


「でも、理不尽ではないと思います」


 口に出してから、自分で少し驚いた。


 午前中なら、たぶんすぐには言えなかった。


「なぜそう思うの?」


「指摘されたところを直すと、ちゃんと資料がよくなるので。あと……」


「あと?」


 甘さ控えめのカフェオレの缶が、頭に浮かんだ。


 でも、それを言うのは違う気がした。


 霧島部長の不器用な親切を、本人のいないところで勝手に広げたくなかった。


「……見ていないようで、見ている気がします」


 三上さんの目が、ほんの少しだけ細くなった。


「そう」


 短い返事。


 けれど、それは冷たい相づちではなかった。


 むしろ、何かを確かめるみたいな声だった。


「結城さん、いい目をしてるのね」


「目、ですか」


「相手の嫌なところだけじゃなくて、仕事の筋を見ようとしてる」


 褒められた、のだろうか。


 でも三上さんに褒められると、嬉しいより先に姿勢を正したくなる。通知表を渡される小学生の気持ちに近い。


「霧島さんはね」


 三上さんはそこで一度、言葉を切った。


 私は思わず息を止める。


 何か聞けるのだろうか。


 七年前につながる何か。


 彼が、私を覚えているかもしれない何か。


「……自分で説明しない人だから」


「え?」


「誤解されても、必要ならそのままにする。部下が伸びると思えば嫌われ役もするし、誰かのミスを拾っても自分から言わない」


 湯気が、二人の間をゆっくり揺れた。


「それは、いいところでもあるけど、悪いところでもある」


 三上さんの声には、長く隣で見てきた人の重みがあった。


 私は何も言えなかった。


 霧島部長のことを、そんなふうに言える人がいる。


 彼のいいところも悪いところも知っていて、苦笑いみたいに受け止められる人が。


 胸がまた、ちくりとした。


 さっきより少し深く。


「だから、何かあったら一人で抱え込まないで。仕事のことなら私にも言って」


「あ、はい。ありがとうございます」


「恋愛相談は専門外だけど」


「ぶっ」


 変な声が出た。


 紙コップを持っていなくてよかった。持っていたら給湯室にカフェオレの雨を降らせるところだった。


「れ、恋愛相談なんて、そんな」


「してない?」


「してません」


「そう」


 三上さんは涼しい顔でコーヒーを注いだ。


 絶対に信じていない声だった。


 大人の女性は怖い。余白で刺してくる。


「ただ」


 三上さんは紙コップを持ち上げると、私を見るでもなく言った。


「霧島さんの優しさは、わかりにくいから。わかりにくいものを、全部なかったことにしなくていいと思う」


 その言葉が、静かに胸の底へ落ちた。


 わかりにくいものを、なかったことにしない。


 七年前、私は逆をしていたかもしれない。


 断られた痛みが大きすぎて、傘を貸してくれた手の温度も、写真を見てくれた横顔も、全部「勘違いだった」に押し込めた。


 そのほうが、楽だったから。


「……三上さんは」


 気づけば、口が動いていた。


「霧島部長と、長いんですか?」


 言った瞬間、心の中で自分を殴った。


 何を聞いているの、私は。


 職場です。給湯室です。相手は先輩です。距離感という言葉を辞書で引いてから出直してください。


 けれど三上さんは、怒らなかった。


 少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「仕事では、まあ長いわね」


 仕事では。


 その二文字に、勝手に反応してしまう。


「昔、かなり無茶をしていた時期があって。その頃からかな」


「無茶……」


「本人は言わないと思うけど」


 三上さんの目が、一瞬だけ遠くなった。


 でもすぐにいつもの表情に戻る。


「これ以上は、本人に聞いて」


 本人に。


 聞けたら、どれだけいいだろう。


 初対面だよね、と言った人に。


 甘さ控えめのカフェオレを、押し間違えたと言った人に。


 七年前の傘を、今も私の鞄の奥で眠らせている人に。


「戻りましょうか。霧島さん、待たせると顔が氷点下になるから」


「もともと氷点下では」


 つい本音が出た。


 三上さんが肩を震わせた。


「結城さん、意外と言うわね」


「今のは、心の声が外に出ました」


「気をつけて。たまに本人の前でも出るから」


「経験者の助言みたいに言わないでください」


 少しだけ、笑えた。


 給湯室を出ると、フロアの空気は相変わらず静かだった。残っている社員も少なく、キーボードの音だけが夜に散っている。


 席に戻ると、霧島部長がこちらを見た。


 ほんの一瞬。


 私と三上さんを、順番に。


「結城」


「はい」


「修正が終わったら送れ。今日はそこまででいい」


「でも、まだ」


「明日の朝に回せる作業だ」


 そう言って、彼は私の机の上を見た。


 缶コーヒーは、もう半分ほど空いている。


「冷めたか」


「え」


 声が小さすぎて、最初は聞き間違いかと思った。


 霧島部長はすぐに画面へ視線を戻した。


「何でもない」


 何でもなくない。


 今、冷めたかって言いましたよね。


 押し間違えた缶コーヒーの温度を気にしますか。しません。普通はしません。


 胸が、また勝手に温かくなる。


 でも同時に、三上さんの言葉がよみがえった。


 自分で説明しない人。


 誤解されても、そのままにする人。


 七年前のあの日も、そうだったのだろうか。


 何かを説明しないまま、私の前から線を引いたのだろうか。


 そこまで考えて、私は慌てて首を振った。


 だめ。


 今は仕事。


 私は最新版の数字を入れ直し、比較表の軸を一つ減らした。三上さんにもらった資料を確認し、霧島部長の指摘に沿って構成を整える。


 不思議だった。


 厳しい言葉を思い出しているのに、手は止まらなかった。


 どうすれば届くか、少しだけ見えた気がしたから。


 九時少し前、修正版を送信した。


「送りました」


 霧島部長はすぐに開いた。


 ページをめくる音もしないのに、私は隣で採点を待つ学生みたいな気持ちになる。いや、席は離れている。離れているのに、なぜこんなに近い。


 数分後、短いメッセージが届いた。


『よくなった。明日、細部を詰める』


 たったそれだけ。


 でも、私は画面の前で固まった。


 よくなった。


 その五文字が、今日一日の疲れを少しだけほどいていく。


「結城さん、顔」


 斜め前から三上さんの声が飛んだ。


「えっ」


「にやけてる」


「にやけてません」


「そういうことにしておく」


 私は慌てて口元を押さえた。


 やめて。職場で感情が顔面に出るタイプ、社会人として危険すぎる。


 そのとき、霧島部長が立ち上がった。


「三上、先に会議資料を確認する」


「お願いします」


「結城」


「はい」


「帰れ。駅まで雨が強くなる」


 雨。


 反射的に窓を見る。


 いつの間にか、ガラスに細い雨粒がいくつも流れていた。音はまだ小さい。でも夜の街灯の下で、道がじわりと濡れていくのが見える。


 私は鞄の奥を思い出した。


 紺色の傘。


 七年前から、返せないままの傘。


 今日は持ってきていない。昨日、濡れたまま部屋で広げて乾かしたからだ。


「折りたたみ、あります」


 嘘ではない。コンビニで買った小さな傘がある。


 ただ、なぜか少しだけ声が硬くなった。


 霧島部長はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、短くうなずいた。


「ならいい」


 それだけ言って、会議室のほうへ向かった。


 三上さんがその背中を見送りながら、ふっと息をつく。


「本当に、わかりにくい人ね」


「……はい」


 思わず同意してしまった。


 でもそのわかりにくさの中に、温度があることを、私はもう少しだけ知ってしまった。


 カフェオレの缶を捨てようとして、ふと手が止まる。


 空になった缶は、ただのゴミだ。


 なのに、一瞬だけ捨てるのが惜しいと思ってしまう自分がいた。


 重症だ。


 これはもう、仕事疲れでは説明できない。


 私は缶をゴミ箱に入れ、鞄を持って立ち上がった。


 そのとき、三上さんが低い声で言った。


「結城さん」


「はい?」


「傘、忘れないでね」


 普通の言葉だった。


 雨の日なら、誰にでも言うような。


 でも三上さんの視線は、私の鞄ではなく、霧島部長の机の紺色の傘に向いていた。


 胸が、どくんと鳴る。


 三上さんは傘から私へと目を戻すと、ひとつ静かに息を吸って、口を開いた。


(第8話へ続く)

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