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甘さ控えめの缶コーヒー

 三上玲子。


 そして、『葵さんのことで、至急』。


 雨音よりも、その短い文字のほうが、ずっと大きく胸の中に響いた。


 霧島部長は、スマートフォンを握ったまま一瞬だけ目を伏せた。さっきまで私の肩が濡れないように傘を傾けてくれていた手から、ふっと温度が引いていく。


「すまない」


 それだけ言うと、彼は画面をタップして耳に当てた。


「三上さん。……今、外だ。状況は」


 低い声。短い返事。仕事の電話とは違う、余白のない声だった。


 私は隣で固まっていた。


 葵さん。


 誰。


 聞いてはいけない名前だと、本能でわかった。けれど、見てしまったものは見なかったことにできない。しかも相手は三上さん。企画部で霧島部長の右腕と呼ばれる、あの隙のない美人先輩。


 これは、仕事? 家族? それとも。


 いや待って私。今ここで勝手に昼ドラの脚本を書き始めるな。登場人物が少ないからってすぐ恋愛関係に結びつけるのは、情緒の暴走運転です。


 でも、胸は勝手に沈んでいく。


「……わかった。戻る」


 電話を切った霧島部長は、私を見た。


「結城さん、駅まで送れない。タクシーを呼ぶ」


「いえ、大丈夫です。駅、すぐそこですし」


「雨が強い」


「本当に大丈夫です」


 声が、思ったより明るく出た。自分でも感心するくらい、ちゃんと社会人の声だった。


 大丈夫。大丈夫なわけないけど、大丈夫と言う場面だ。ここで「葵さんって誰ですか」と聞けるほど、私はまだ強くない。


 霧島部長は何か言いかけて、やめた。


 そして、持っていた黒い傘を私のほうへ差し出す。


「これを使え」


「でも、部長は」


「会社に戻るだけだ。近い」


 黒い傘の柄を握らされる。指先が触れたのは一瞬だったのに、さっきの熱はもうなかった。


 かわりに、紺色の傘を彼が手に持っている。


 七年前の傘。


 返したはずの過去を、彼が持っていく。


「明日の話は」


 私が言う前に、霧島部長が口を開いた。


「延期させてくれ」


 心臓が、静かに落ちた。


「はい」


「必ず時間は作る」


「はい」


 うなずいた私は、きっと笑えていなかったと思う。


 霧島部長は一度だけ深く息を吸い、背を向けた。紺色の傘を開かず、雨の中を会社の方角へ早足で戻っていく。


 濡れるじゃないですか。


 そう言いたかった。けれど声は喉に引っかかったまま、雨に溶けた。


 黒い傘の内側は、さっきまでよりずっと広かった。


 広いのに、苦しい。



 翌日。


 私はいつもより十五分早く出社した。


 期待していない。断じて期待していない。延期と言われたのだから、今日の昼休み後に何かがあるとは思っていない。


 なのに、なぜ十五分早いのか。


 自分の行動を自分で面談したい。


 企画部フロアはまだ人が少なく、空調の音だけが白く響いていた。霧島部長の席には、すでに灯りがついている。本人はいない。デスクの上には整えられた資料と、昨日の紺色の傘が、きちんと畳まれて置かれていた。


 胸が、変な音を立てた。


 返した。確かに返した。


 でも、そこにあるだけで、私の七年が机の上に置かれているみたいだった。


「おはよう、結城さん。早いね」


 振り向くと、三上さんが立っていた。


 薄いグレーのジャケットに、乱れのない髪。朝から完璧。私なんて前髪が湿気と交渉決裂しているというのに、この差は何。


「おはようございます」


 三上さんの視線が、一瞬だけ紺色の傘に落ちた。


 ほんの一瞬。


 けれど私は見逃せなかった。


「昨日、霧島部長に急用があったみたいで」


 言ってから、しまったと思った。なぜ私から探りにいく。自分で地雷原にピクニックシートを広げてどうする。


 三上さんは表情を変えずに、「そう」とだけ言った。


「迷惑をかけたなら、ごめんなさいね」


「いえ、そんな」


 迷惑。


 その言葉の距離感が、逆に近く聞こえた。


 誰に対しての、どんな迷惑なんだろう。


 聞けないまま、私は自分の席に逃げるように座った。



 午前中の打ち合わせで、霧島部長はいつも通りだった。


 いや、いつも通り以上に鬼だった。


「結城さん、この導入案は弱い。ターゲットの生活導線が見えていない」


「はい」


「この比較表も根拠が浅い。数字を並べただけで判断材料になっていない」


「修正します」


「あと、三ページ目。言葉が曖昧だ。『若年層に刺さる』は企画書の言葉じゃない」


 刺さったのは今の私です、部長。


 喉まで出かけた心のツッコミを、私は水で飲み込んだ。


 わかっている。指摘は正しい。悔しいくらい、全部正しい。昨日のことがあったから甘くなるとか、そんな人ではない。


 でも。


 昨日、七年前の続きを少しだけ話すと言った人と、同じ人なのだろうか。


 会議室の長机の向こうで、霧島部長は資料だけを見ている。私を見ない。正確には、仕事としてしか見ない。


 その距離が、昨日の黒い傘の内側より遠かった。


 昼休み後の十五分は、何も起きなかった。


 霧島部長は外出予定になっていて、席は空だった。


 私は修正した資料と向き合いながら、キーボードを叩く指に力を込めた。


 期待していない。


 そう思うたび、期待していたことがばれる。


 情緒、もう少し隠密行動を覚えてほしい。



 午後七時を過ぎると、フロアは少しずつ静かになった。


 あかねは「無理しすぎ禁止」と言って先に帰った。優しい。だけど今は、一人のほうがありがたかった。


 私は比較表を作り直し、導入案を三パターン書いた。生活導線、根拠、言葉の精度。霧島部長に言われたことを一つずつ潰していく。


 悔しいけれど、指摘のとおりに直すと資料は見違えた。


 そういうところが、ずるい。


 ただ怖いだけの上司なら、嫌いになれるのに。


「まだ残っていたのか」


 顔を上げると、霧島部長が立っていた。


 外出から戻ったばかりなのか、髪の先が少しだけ湿っている。ネクタイもわずかに緩んでいた。


「修正が終わっていなくて」


「見せて」


 私は慌てて資料を送った。


 霧島部長は自分の席ではなく、私の隣の空いた席に座った。


 近い。


 昨日の傘ほどではない。ないけれど、パソコン画面を一緒に見る距離としては、心臓に対する配慮が足りない。


「一ページ目はよくなった」


「本当ですか」


「声が大きい」


「すみません」


 褒められ慣れていない人間は、褒め言葉を受け取る筋力が弱い。


 霧島部長はマウスを動かしながら、淡々と修正箇所を示した。


「ここは商品名を先に出すな。課題から入る。読み手に自分ごと化させてから提案する」


「はい」


「比較表は、軸を一つ減らせ。多いほど親切に見えて、判断が鈍る」


「はい」


 言葉は厳しい。けれど、赤字の入れ方は丁寧だった。どこが悪いかだけでなく、どう直せば届くかまで示してくれる。


 私はふと、気づいてしまった。


 午前中、あんなに冷たく切られたのに、今ここで迷わず直せるのは、彼の指摘がちゃんと道になっていたからだ。


「……部長」


「何」


「午前中、きつく言われたときは、正直ちょっと落ち込みました」


 霧島部長の指が止まった。


 言った。言ってしまった。社会人としてこれはアウトかセーフか。判定員、今すぐ集合してほしい。


「でも、直してみたら、何が足りないか少しわかりました」


 私は画面を見たまま続けた。


「ありがとうございます」


 沈黙。


 恐る恐る横を見ると、霧島部長は目を伏せていた。


「礼を言われることじゃない」


「でも、助かりました」


「……そうか」


 低い声が、少しだけ柔らかかった。


 それだけで、胸が忙しくなる。やめてほしい。鬼上司の素の温度差で風邪をひく。


 そのとき、霧島部長が立ち上がった。


「十分休め。続きはその後でいい」


「いえ、もう少しで」


「効率が落ちている」


「はい」


 反論する余地がない言い方だった。


 彼は給湯室のほうへ歩いていった。コーヒーでも淹れるのだろうか。昨日の電話のことも、昼の十五分のことも、七年前のことも、何も言わないまま。


 私は小さく息を吐いて、席を立った。コピー機に資料を取りに行き、戻ってくる。


 すると、私の机の上に缶コーヒーが置かれていた。


 甘さ控えめのカフェオレ。


 昔、大学の自販機で私がよく買っていたものと、同じ味。


 手に取ると、まだ温かかった。


 缶のぬくもりが指先からじわりと広がっていく。胸の奥まで、勝手に。


 霧島部長は、給湯室から戻ってくると何事もなかったように自分の席へ向かった。


「あの、部長」


「休憩だと言った」


「これ」


「自販機で押し間違えた」


 嘘が下手すぎる。


 氷の部長、そこはもう少し設定を練ってください。ブラックしか飲まない人が甘さ控えめのカフェオレを押し間違える確率は、社内プリンターが一日紙詰まりしない確率より低い。


 私は缶を両手で包んだ。


「……いただきます」


 霧島部長は返事をしなかった。


 けれど、その耳がほんの少し赤く見えたのは、気のせいだろうか。


 気のせいじゃなかったら、困る。


 困るくらい、嬉しい。


 プルタブを開ける音が、静かなフロアに小さく響いた。


 ひと口飲むと、懐かしい甘さが舌に広がる。七年前、雨上がりのサークル棟の前で、私がこれを両手で持っていた記憶まで、一緒にほどけた。


 どうして知っているの。


 そう聞けたらよかった。


 でも今はまだ、聞かない。


 その代わり、私は資料の修正に戻った。胸の奥に、小さな缶コーヒーみたいな温度を抱えたまま。


 フロアの入口で、誰かの視線を感じた。


 顔を上げると、三上さんが立っていた。


 彼女は私の手元の缶コーヒーを見て、それから霧島部長の机に置かれた紺色の傘を見た。


 その目が何を映しているのか、とっさには読めなかった。ただ確かなのは——隠しているつもりの七年が、この人の前ではもう半分ほどほどけてしまっている、ということだった。


(第7話へ続く)

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